ハンガー.5



掴み取ろうとするひと。


その考えは俺の悩みに一気に穴を開けた。彼はまだ、誰も殺していない。つまりそれは、あの事件をなくし、裁きの庭を開廷させる意味を失わせ、そしてもちろん牙琉先生が告発されることも、なくなる考えだった。つまり彼は殺人者にならない。それらは俺にとってこれまでにない画期的な考えだった。ここに戻る前の俺は起こったことを追いかけて、暴くだけしかできなかった。でもここに戻ってきた今は違う。時間がある。何が起こるか知っている。だから、殺人を止めることも、できる。だってあの日、牙琉先生がボルハチに行かなければ、あるいは隠し通路にいなければ。そして絵瀬親子のアトリエにあの切手がなければ、おまじないのボトルがなければ。全ての殺人は成立しない。それを分かっている。だったら俺には何でもできるはずだ。俺が殺人を止めることができるはずだ。係員に連れられていく先生を見ることも、ない。牙琉先生を疑わなくてもいい。そして牙琉先生が弁護席や証言台で見せたあんな冷たい顔をすることもなくなる。ハズだ。俺は決意に思わず拳を固めた。ここに来て初めてやることができた。牙琉先生を救う、未来を変える、俺はもう一度そう繰り返して、顔を上げた。自分がやっとここにいるという意識が持てた。やっと考えに収束がついた。と思った瞬間、いきなり風景が視界に飛び込んできた。俺にとっては考えごとを止めた瞬間に周りが見えるということはよく起こるのだけれど、今回ばかりは驚かざるを得なかった。目の前にあるのは上品な机と白いパソコン。あとはいくつかのファイルが脇に立てられて、鉛筆立てみたいなホルダーに万年筆が収められていて。ここはどこだ。と一瞬思案する。いつもはこんなところにはいないはず。そこまで思って、瞬間大事なことを思い出した。
「あ、掃除…、」
そう、考えたら分かったことでここはまだ牙琉先生の机の端で、俺は先生に掃除を言いつけられたにも関わらず立ち尽くしていたのだった。その状況はすこぶる悪い。慌てて給湯器に雑巾を取りに行こうと体を向ける。この状態で先生が帰ってきたらそれこそ問題だ。まだそこに居たんですか、から始まるお説教を深々と聞かされることになる。むしろこの時間まで立ち尽くしていた理由を探られるかもしれない。いや探らないはずはないだろう。言葉に出して詰問することはないにしても心中で考えない訳がない。もし殺人を止めようとしていることを知られたらどうしよう。怪しまれたら、警戒の厳しい牙琉先生を止めるなんてもう無理だ。が、そこで資料室の扉のノブが動いた。革靴の片足が戸の隙間から見えて、群青のスーツの袖がノブを押して、そして。

「…お待たせしました。掃除ご苦労様です。」

牙琉先生は腕に資料のファイルと封筒を抱えながらこちらを見て微笑んだ。俺は布巾を持ってソファーを拭きながら何事もなかったようにええ、と言った。どうやら、怪しまれてはいない。時間はギリギリだったが疑われない体制にはなれた。封筒から白い紙の束を出す先生を横目で見ながら俺は内心ほっと息をつく。先生は封筒から出した、書類と思しき紙の束を机に置いて俺を呼んだ。俺は返事をして、だけどちょっと迷って一旦雑巾を洗面所に置いてから先生の机へ向かおうとした。だがその一瞬だったのだ。
「オドロキくん。」
はい、と返そうとした声が喉の途中で詰まった。息を詰めた音が代わりに出た。振り返ると先生は凄く近くにいて、俺は意味が分からないのに緊張した。この人の本心は、一体どうなっているのだろう。皮一枚隔てた内側には何が詰まっているのだろう。そう思った瞬間、
何も見えなくなった。
目を開けられない。何かが目を覆って押さえつけている。だが暖かい。少し湿り気がある。感じたことのある感覚。手のひらだった。
「先生、」
犯人は決まりきっていた。ここには二人しかいない。俺と犯人。つまり先生。冗談にしてはタイミングが悪い。何事かとずるずるもがくと、額にごつんと何か触れた。気づくのに何秒要したことか。頬を寄せられたのではい。もちろんでこちゅーなんてそんなフィクションの世界でもない。ただ、額をあわせられたのである。半ば、強引に。しかもかなりの時間。どういうこと。
「少し、このままで」
「せ、」
何も見えない。声はそれ以上ない。ただ感じるのは瞼の上に ある手の温もりと湿り気と、額にあるあの感覚だけ、で。俺は理由もわからないのに、そわそわとして、そのたびに先生と額が擦れた。先生はどう思っているのだろう。この状態では見抜くこともままならない。緊張は微かに感じて手首が締められるが、嘘からくる緊張かどうかすら、よくわからない。たぶん、先生の緊張に呼応しているのだとは思うのだけど。気になって目を開けようとすると睫毛が触れたのか先生の手は少し動じた。だが直ぐに、目が開かないように強めに押さえられた。そして、ゆっくりと額が離れていく感覚。
「先、生…、」
「すいません、なんでもありませんよ」
だがそう言う顔はあまりにそうは見えなくて、俺はますます、分からなくなった。


(迷って、動じては)


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だいぶ前のから間を頂いてしまいましたハンガー5話です。
彼等の距離感に毎回悩みながら、でも毎回違う距離感で書いてみています。難しいですね…!

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