ハンガー.4



それは真実なのか。誰の真実なのか。


その後、昔毎日のように通った道を通り、徒歩で家に帰った。もちろんその道は一度も成歩堂なんでも事務所の帰り道にはならなかった。冷静になってみれば当然だが、行きと帰りの道がここまで違うことが不思議だった。そして成歩堂なんでも事務所まで乗ってきた相棒たる自転車は自宅の駐輪場に慎ましく止まっていた。過去に戻ったからそうなったのだろうか。だがそんなことが呆気なくずるずると考え捨てられるくらい、俺は別の案件で混乱していた。つまり、牙琉先生の本質について。俺は昔牙琉先生は、俺のことを弟子として教え叱り、欠点に目を配り力を補わせ手をかけて育ててくれたと。思っていた。だが、実際彼は俺にさしたる興味はなかったようだった。所詮依頼人と同じポジションで、過度な心配も叱責もせず、淡々と技術を教え進めては憧れの目でついてくる俺を眺めていたのだろう。それは衝撃だった。今までの思い出の中の先生が上っ面の部分だったこともそうだが、むしろそれを自分が勘違いしていたことが衝撃だった。それはあの裁判員裁判で言われた牙琉先生の本性を肯定、することになりそうな気がした。あの時の優しい先生は勘違いだった、思い込みだった。そうだったら、あの連続殺人犯の狂気的な先生が本当になってしまう。それはとてもとても肯定に耐えるものではなかった。気づかないうちに家の鍵を開けて家に入っていた。靴を脱ぐところで我に帰った。くたびれた靴に一瞬元の世界を思い浮かべたが、気づかないふりをして脱ぎ散らかした。冷蔵庫の中身も、通帳の預金も、昔のように豊富だった。でも俺はもう昔とは違うのだ。何かが。決定的に。

「せんせい…」

布団に転がりながら考えて、むりやり瞼を閉じた。眠りが訪れるまで、何か別のことを考えようと思った。携帯電話を開けてデータフォルダの整理をし、未送信メールを見直して消去し、暇つぶしに1から電話帳を見直した。まだ知らないはずの電話番号をたくさん見つけた。携帯電話も未来から持ってきたものの一つだということにその時気づいた。日にちと時間だけは過去に戻ってはいたが、それは電波時計の仕方ないところだろう。だが未来の俺が知っていて過去の俺が知らない番号に掛ける気はなかった。電話を掛けて一言二言言うだけで過去が大きく変わる人も何人いることか。もうそういうことで衝撃を受けたくなかった。また何かに気づいてしまうかも知れない。それが怖かった。次の日は真っ直ぐに訪れた。何もできないのに変わる日時に辟易とした。ほとんど機械的に体を動かして朝の支度をした。朝のウォームアップの状態に体は馴染むのに感情はうまくついていかなかった。出がけに道を2回間違えた。まだ俺はなんでも事務所にいてはいけないのに。俺は自転車を引っ張って牙琉法律事務所に向かった。

「おはようございます。」

彼は昨日みたいににこやかに微笑む。俺も挨拶を返して席に鞄を置く。所長のデスクには白いパソコンが今日も忙しく何かをインストールしている。俺は日課であった紅茶を淹れに給湯室に向かう。1日は俺を置いて始まっていく。何をすればいいのか分からなかった。とりあえず目の前にあることに力を入れようと思った。その結果として、昨日の謎に答えが出た。

「先生。課題のことなんですけど」

彼は殺される前に警備員によって目撃されている。だがこの事件は半年前に山林に遺棄された死体がやっと見つかって捜査が本格化した事件だった。確かに失踪事件として軽い操作はあったが、鎮静化していたのに。そんな事件がなぜ、新鮮な目撃証言を得ることができたのか。そこからがまず手がかりだった。それは、彼自身が生前残した珍しい行動によってだった。
「警備員に声をかけ、世間話をしてから会社を出た、秘書に一週間後の予定をしつこく確認した。珍しく散歩をする、禁煙したのにタバコの火を借りる、それらを全部"わざと"やっていたとしたら。」
彼はその日殺されることを知っていた。あるいは逆。そういうことになる。科捜研が生き返らせた、水没した携帯の中身。そこには自殺援助を募るHPがブックマークされていて。そこに被害者の親友の名前があった。HPを見つけた被害者はその掲示板に書き込みをして。きっと自殺を止めようとして、自殺幇助を請け負った。が。
「…返り討ちにあった、と。」
古い地下室で、彼はあらかじめ手に入れた毒を親友の前でティーカップの中に落とす。揺れる水面。親友はどうして自分の友人がこの場所に現れるのか理解できなかった。秘書がつくほどの仕事をしている彼が、自殺したいほど苦しい生活の自分の最期に現れて、一体何のつもりだろうか。親友は一瞬にして激昂した。次の瞬間停電した。全てが暗闇に落ちた。2つのティーカップ。どちらかに毒が入っていて、飲めば死んでしまうだろう。自殺したい男は毒杯を入れ替えた。停電が終わり、古い蛍光灯が機嫌悪そうに点灯する。二人は最後のお茶を楽しみ、そして。
「カップの飲み口の反対側に、もう一つ、口を付けた跡がうっすらあったんです。」
つまり、飲まなかったが、口元に持って行った。持って行った瞬間、停電が起きた。
男は二人の利き手が違うのも忘れて、カップを代えた。そして被害者を殺して、恐ろしくなって、自分のものだけ掴んで逃げた。古い地下室の管理人は殺された男を見て驚き、自らの管理に問題があったのを追求されるのが怖くて、後先考えず、男を運んでは乱暴に埋めた。証拠を隠滅するために、携帯は水没させられカップは破片になったが、捨てた経緯がバレるのが恐ろしく、捨てられずに隠されていたという。
「だが割られ方が良かった所為でどちらの口唇紋も残ってしまったと。」
「ええ。」
俺は牙琉先生を見た。牙琉先生も俺を見た。目が会う。牙琉先生は嬉しそうに笑った。
「よろしい。今回は早かったね、よく頑張っています。」
そう言って目を細める牙琉先生は弟子の成長を喜ぶ普通の牙琉先生に見えた。思い出の中と同じの牙琉先生だった。その笑顔は嘘なんかついていないように見えた。いや、実際にそこに嘘はなかった。何の緊張もそこに感じ取ることはできなかった。俺がずっと見ていても、そこに不自然のかけらもなかった。腕輪はなんの反応もしなかった。息苦しさもなければ圧迫感もなかった。俺はそれに動揺し、だが安堵し、そして混乱した。褒められたことはきっちりとうれしいし、だけど。先生の言動は既に俺の中で捉えようのないものなっていて、どうしようもなく。

「私も不安ですよ」

いきなり声が降ってきた。立ち上がった先生が俺の髪を撫でて、微笑んでいる。ぽかん、と口をあけながら、俺は牙琉先生と見つめ合う。やっとの思いで言葉にできたのは、どうして。と、それだけだった。だが牙琉先生はそれに柔らかく微笑んで君もそうでしょう、とだけ言った。俺の事態をわかっていうような言葉や雰囲気や表情。でもきっと、こんな突飛な状態を先生は想像だにしないだろう。未来からあなたを見抜く力を携えて、全部知ったうえで戻ってきているんですよ、なんて。それなのに彼は笑う。俺はやはり困惑する。不用意に立ち入ろうとしない、優しさ、のようなものを感じた。それは真実なのだろうか。俺が何も言えないのを見て、先生は新しい課題を探してくるから掃除でもしていてください。と手持無沙汰を恐怖する俺をもわかっているように、去って行った。取り残される。俺は何も言えずに唇をかんだ。そこに横たわる意味を薄暗い部屋の中で必死に触れようとした。だが手は空気を握るのみだった。彼は殺人犯だ。それを隠しながら冷静に笑っていた人だ。いや、今、ここでも笑えている人だ。その事実が俺を硬化させる。弾力をなくした肺は空気を呼び込まない。そんな人の自然な、柔らかな笑顔は、よくやったねと弟子を褒める姿は、それは、信じていいものなのか。俺は部屋を見渡す。カレンダーが見えた。10月のカレンダーがシンプルに壁にかかっている。彼は殺人を犯した。彼は弟に負けたくない一心でねつ造をした。そしてそれを成歩堂さんに手渡した。成歩堂さんを陥れてから、彼は贋作を作った親子を監視し続け、かつての依頼人を撲殺し、さらには贋作師の親を殺し、子をも口封じのために殺そう、と。そこで、もう一度カレンダーが目に入った。10月。だが年が違った。そこに書いてあるのは一年前の10月だった。ああそうか当たり前なのか、と思って、それから思考が固まった。いちねんまえ。その単語に思わず息を吸った。そうか、ここはまだ俺が牙琉先生の隣にいる10月で。俺が初めての法廷に立つ半年前で。ということは。
「…まだ。」
まだ彼は誰も殺していない。

それは、それも事実だった。俺はその事実に、息をすった。彼はまだ誰も殺していない。確かにねつ造の罪には落ちて、今も監視を続けていて。だからきっともう弁護士は続けられない。でも浦伏さんを殺すのも、贋作師たちを殺すのも、直接的にはもっと先の話なのだ。もし、ねつ造だけの罪で静かに裁かれれば、ザックさんは殺されない、検事は傷つかない、成歩堂さんは弁護士として復帰できるようになる、ねつ造した証拠を作らなくてよくなる、そしてみぬきちゃんは7年ぶりにお父さんに会える。それに。そこまで考えが頭を巡って、一つの感情が湧いた。馬鹿みたいだと思った。だけど。

「まだ、助けられる…?」

彼の罪は格段に軽くなる。彼を救える。その考えは俺に息をさせるのに、十分だった。


(絶望し、それでも期待して)
______

なんだか回を経る毎に長くなりますハンガー4話です。
今回の事件、途中まで考えてなるほどくんと御剣に見えたのですが怖くなったのでそういう展開にはしないでおきました。
ハンガー、方向性が見えてきたでしょうか。まだ続きます。

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2011.10.16
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