ハンガー.3


無知をプラスだと思えたのは初めてだ。


先生からの課題を回答した後、俺は先生に紅茶を淹れて、そして新しい課題を貰った。
「今度は早くして下さいね」
そんなたしなめを受けたが先生はなぜか楽しそうだった。俺が先に答えた課題のせいだろう。法廷記録も何も持たずして事件を淡々と解いてしまった。でもそれには裏があって昔一際とびきり時間をかけた課題だったから、資料がなくても当時の状況や調べた判例の結果を記憶で言えたのだ。でも先生はそれを俺の実力だとおもったらしい。というか俺が昔それを解いたことがあるなんて思わないだろう。高く評価してくれた。その証拠に新しく貰った課題は、記憶の中で最新に近くて。つまり先生が課題を前倒しにしているのだと分かった。しかしその事件は生憎あんまり覚えていなくて、似た判例を探すはめになった。でもその充実感が楽しくて、久しぶりだった。時間が過ぎるのも気にならなかった。考える補助にしていたメモ帳をペン先で叩く。容疑者と被害者の名前、事件の時系列、証拠品。そんなものが丸で囲まれたり下線を引かれたり、丸と丸を繋げられたりしながら徐々に整理されていく。昔の記憶も朧気に推理を後押しする。確か容疑者は珍しくスタッフに声を掛けたあと屋外に出た。そこで何をしたのだろう。もし後ろめたいことをするのだったらわざわざ声なんてかけるだろうか。何か別のことのためだったのか。確かそんな感じの事件が書庫にあったような気がする。と、そこで視界がいきなり暗くなった。思わず声を上げる。
「もう終業時間ですよ、オドロキくん」
部屋の隅の電気のスイッチに手をかけて先生が立っていた。傍らには鞄まで置いてあった。もうそんな時間だというのか。だが期待はあっさり裏切られた。終業時間を5分も過ぎた掛け時計が笑っている。思考が一気に熱を発して混乱しかける。とにかく課題とメモ帳を鞄につっこんで慌てて席を立った。そして、それまで危惧していた事務所の外にもんどりうって飛び出して。
「…えっ」
「オドロキくん?」
先生が呆然と立ち尽くした俺に不思議そうに声をかける。そこは扉を開ける前目指していた成歩堂なんでも事務所前の光景ではなかった。完璧にそれは、というか当たり前だが。そこは牙琉法律事務所のエントランスになっていた。一瞬感じた、あまりの違和感のなさにびっくりした。だってここには成歩堂なんでも事務所の扉を開けて、来たはずだったのに。
「どうしましたか」
不意に、牙琉先生が視界に大きく入った。は、と気づくと既に彼はエントランスの階段を数歩下りたところで。目線がほぼ同じ高さにあった。
「いきなり飛びついて来て、泣き出して、…今日、ここに来る前に何かあったんですか」
先生らしい推理だ。そりゃあ扉を出た途端に固まれば外で何かあったと思うだろう。確かに今日の俺は不自然だったろうなと苦々しく振り返る。
「途中で事件に遭遇したとか、ストーカーとか、そういう類ですか」
なんだか的を外れている。だが推測としては順当だ。人がいきなり泣き出すなんて何かそういう衝撃が無い限りは起こり得ない。よくそうやって事件のクライアントに相談をされている先生らしい推理だ。だが的を外れていると思ってしまった。いや実際それと事実は違うのだけれど。
「ふむ、逆に被害を起こしてしまった」
「いやいや、それはないですッ」
必死に否定したがそこでなんとなく違和感の正体に気づいた。あれ。これって、気遣いではない?
「それは違うとなると、じゃあ被害にあったという線が濃いですね」
あ、やっぱり。と思った。確信した。先生は別に俺のことを心配しているわけではなかったのだ。ただ、彼は俺の不可解な行動に解を得たいだけなのだ。だって例えばなんでも事務所ならこういう時、真っ先に何か辛いことがあったのか、と心配され、話を聞いてくれて一緒に考えてくれるのに。先生は推測を尽くすだけで、何ら俺の感情には頓着しなかった。彼らと先生は全然違った。違和感に気づいてしまうとなんだか一気に辛くなった。
「ストーカーですか、まさか痴漢冤罪とか」
所詮はそういうレベルの認識しかされていないということだった。だって先生の"心配"の仕方はその場限りのクライアントにするのと同等だった。つまり俺は先生が特別に気を回すに足りる人ではないらしいということだった。だって心配もされないのだ。
ところで、このことを当時の俺は気づいていたんだろうか。
「ストーカー被害ならまだ安いものの、痴漢冤罪となると対処が大変ですねえ、詳しく聞かせて貰えますか」
「え。いや、あの。そういうんじゃないんです、俺、大丈夫ですから!」
自覚してしまうと俄然怖くなった。俺は歯牙にもとめられていなかった、気にかけられていなかったと、知らなかった。と。では思い出の中の優しい先生は?あの柔らかい笑みは?優しい言葉は?親のように思えたあの暖かさは?全部全部、ただの営業面?じゃあ俺なんかに興味はなかった?そうするとあの時の殺人犯としての無感情な表情が常に一枚下にあったということ?
「何でもないにしては顔色が悪いですね、…事件にあったようなら整理がついてで良いから言いなさい。なんとかしますから」
「…はい」
まさかそんな、と思ったが、否定できる材料もどこにもなかった。かつかつとエントランスを降りきった先生が車に乗り込むのが見えた。
「それじゃあ、また明日。」
「…お疲れ様でした」
しばらくは呆然と立ち竦んでいた。俺は弁護士デビューの半年前に戻ったのだ。先生は何も変わっていない。変わったのは、このことに気づくことのできる能力を持って戻ってきたのは俺だ。だとすると。ずっと先生はあのままで。心配してくれて世話をしてくれた優しい先生なんてどこにもなかったことになって。俺は彼の外面だけに一喜一憂して、全く中身が見えてなかったことになって。
「…嘘だ、」
でもそう思うとあの裁判の時の、取るに足らないくだらないものを見るようなあの冷たい目が、凄くスムーズに理解できるのだ。しかも今だって7年前の事件を隠し続けていることを俺は知っているのだ。成歩堂さんを貶めて、当時の関係者を見張り続けている彼を、知っているのだ。それらが大挙して優しい先生の思い出を押し流そうとしている。でも前者の冷たい先生は事実で、後者の優しい先生は俺の、思い込み、だ。だとすると。
「…嘘だよなあ…」
俺は一人、エントランスを下りることもできず、呟いてはただ、呆然とするだけだった。


(何も変わらないということに)



_______

連載ハンガー。3つめです。なかなか1日が終わりません笑
詰め込み過ぎ…。
オドロキくんと牙琉先生の間が100%信頼ラブラブで出来てるなんては思えないあめこです。どっかに疑惑と嘘と隠してることがあるんだろうな、と。

つぎ→


2011.09.07

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