ハンガー.2



疑問を持たなかったと言えば嘘になる。確かに、少しそうじゃないかと思ったが。…ああ。うまい話なんて、なかった。

あのあと俺は、いつまでそうやってるつもりですか。という先生の声に飛び起きて、ずるずるとこの現実に慣れようとした。いきなりこんなことになったが俺は何をすれば良いんだろう。自分のデスクにつきながら俺は脇に置いてあるファイルを見た。見たことがある。やっぱりここは牙琉法律事務所だ。だが、何か違和感がした。もやもやと疑問が浮かぶのに抽象的すぎて握れない。俺はとりあえずデスクの上の書類に目を通す。しばらくして疑問がやっと形になった。俺は牙琉法律事務所のホワイトボードの前に立つ。事務所の予定と外出状況が書いてあるのだが、端に書いてある日付に愕然とした。慌てて携帯電話のカレンダー機能を確認する。そしてまた愕然とした。同じ日付がホワイトボードと携帯電話の二つにあった。それは確実な証拠になってしまった。その日は俺の思っていた日とは全く違った。それは俺の初陣よりももっと前、半年も前の日付だった。俺は先生が事務所に戻ってきたと思っていたが。実際は俺が時間を戻ったようだっだ。確かに、どうして彼がまだ刑期も決まってない罪からあっさり生還することができたのかとか、そして生還できたとしても弁護士に復職するのは世間的に無理じゃないかとか。考えてみれば俺がここにくる前のあの日々で彼があそこに座っているなんてそりゃあ限りなく不可能だ。しかしそれも分からないくらい舞い上がっていた。弁護士としては致命傷だ。思わず頭を抱える。しかし不思議だった。成歩堂なんでも事務所がドアを開けたら牙琉法律事務所になった。しかも過去の。それは物凄くセンセーショナルだった。でも確か成歩堂なんでも事務所の給料日は明後日だった。明後日までに帰れるかな。現金にもそう思う。だが

「オドロキくん。」

名前を呼ばれた。この声で我にかえる。彼の声一つで、もとに戻れるかな、と考えかけた思考が散る。給料も大事だったが、この人の存在には勝てなかった。彼のその声は幻に聞こえない。昔の思い出が鮮やかにめくられては今に重なる。夢だったらこんなに鮮明なもんか。俺はそうやって自分を納得させて彼の傍に駆け寄った。
先生のデスクの上はファイルが整然と立てられていて埃一つない白いパソコンがカタカタと何かを忙しくインストールしている。
「課題はできましたか」
先生は俺を傍に立たせると一言目にそう言った。課題。なんのことだろうと考えて、そういえば昔良く判例から犯人を当てる宿題みたいなのを貰っていたっけ。と記憶を辿る。練習問題、というと可愛いものだが当時の俺は何時間もかけて資料や法廷記録を読み漁ったっけ。思わず感慨にふけり始めて返事を忘れた俺に先生の低い声が飛ぶ。
「…まさか、まだできていない、と。」
「いや、ええと、」
「前に渡してから随分経ちますけど」
「そうなんですか」
「そうなんですよ」
「…」
「序審法廷は待ってくれませんから、君はこの時点で敗訴です」
「えっ。ええと」
「なんですか」
「その事件てどんなのでしたっけ」

前の自分が一体いつ課題を受け取ったのか。俺はまずそこから知らない。先生は半分呆れている。もはや絶体絶命、かと思ったが。不意に思い出したのだ。「君はこの時点で敗訴です。」この単語に聞き覚えがある。記憶を遡る。当時その一言がとてつもなくショックだったのだ。その後、ずっと考え詰めて答えを出した気がする。いつだった?あの時の課題は、答えは何だった?
「…君に出した課題は、確かマンションの屋上から若い女性が転落死した事件ですよ。遺書もなくて、足を踏み外した痕跡があり、腕や手に何者かと争った刃物の傷がありましたから事件の線で捜査されました。更に直後に女性の同棲相手の男の不審な様子が目撃されていました。部屋にも彼の新しい指紋が残っていました。しかし、彼は半年前に事情聴取中に取り調べ室から脱走した男だった。…さあ、思い出しましたか?」
そう。そういえばそうだった。どんなに考えても出てこなかった答え。真実は余りに痛々しくて、でもそれしか答えはなくて。そして先生にそれを伝えると確か彼は、重く頷いたのだ。思い出した。
「ええ。大丈夫です。」
「…、」
「彼は半年間失踪していたんでしたよね。」
「ええ。そう、事件概要には書いてありました。」
「多分脱走した罪の手前世間の目もありますし、元の場所には戻れなかったんじゃないでしょうか。」
「…」
「しかし久しぶりに彼は女のところに戻ってきた。確か捜査で男の机の引き出しから、婚約指輪も出てきたって書いてありましたよね。婚約者なら、という思いがあった。」
先生は頷く。俺の前に世間から黙殺された男が写る。不安と期待と混じらせて男は玄関のノブを回す。
「男は誰もいない部屋に入った。部屋を探して、あるメモが女性の机に置いてあるのを見た。そして、そのメモを読んだところで、机の脇の窓から女性が落ちるのを見たんです。」
半年振りに会った恋人、婚約者。窓から見えた姿はあまりに衝撃的だった。思わず手の中のメモを握り潰す。階下に咲いた赤の中心にあるその物体を認識することができない。
「男は動揺しました。握り潰したメモにはその男に会いに行くと書いてありました。彼は一瞬これが遺書だと気づいた。」
「遺書はなかったと捜査にはありましたよ。」
「いいえ。メモ帳の次のページから筆圧でその言葉が読み取れたんです。科捜研の再捜査で見つかりました。そして本当のメモは男が持ち去った。」
「…それでも、男に会いに行くというメモが遺書に成りうるかと言うと」
「なり得たんです。何故か最初、男は脱走後に死亡したと書かれてました。でも後から失踪に書き直された。」
「…ほう」
「女性には最初の、死亡したとの報しか与えられなかった。こんな書き直しなんて例がないですから、関係者も女性には伝えられなかった。だから、女性は彼が死んだと思っていたんです。だから」
「…それでは、君はこの事件はいわゆる後追い自殺だと」
「…ええ。」
後を追うというより大仰にすれ違った。
「ならば女性の腕や手の傷はなんだったんですか」
「彼女が自分で付けたものです。」
彼女は一人エレベーターに乗った。そして屋上行きのボタンを押す。
「失踪していた男は刑事の行き過ぎた取り調べを受けたようだったんです。そのせいで男は脱走して死んでしまった、と女性は思った。世間の目も痛いでしょう。女性は警察を憎みました。その頃警察が彼女の自宅周りを探っていたのも彼女にとって強いストレスでした。多分失踪に書き直された辺りからして、男の行方を追っていたんでしょう。女性の家に男が戻っていないかも調べられていたと思います。しかもそれを嗅ぎつけた雑誌記者もいた。記者はしつこく彼女を追いました。だから彼女はその記者がやったように見せかけようとしたんです。」
女性はナイフの刃を手のひらに包んで一気に引く。自分でやった傷と他人に斬られた傷は違うから、他人にされたように遠慮なく刃を滑らせなければならない。左手の手のひらが痛い。こんなにも痛い。でも彼は警察に殺された。世間に貶められた。彼は何もしていないのに。彼は悪くないのに。だが何も悪くない彼は死んだ。周りの人は私に早く立ち直れという。そのくせ裏で彼のことを悪く言う。こんな世界のために私は立ち直らなければならないのか?なんて理不尽なことだろう。せめて警察に負けたとは思われないようにしよう。自殺には見えないように。それであの記者が逮捕されれば万々歳だ。それは名案に思えた。私はわざと足にすり傷を作って、落ちた。
「…どうでしょう、先生。」
静かな時間だった。何も音を立てなかった。時計の秒針ですら、この事務所ではつつましく動くだけで。
「…よく、資料もなしに」
いつも空気をあまやかに裂くテノールがわずかに揺れていた。声音が驚きを隠せていない先生なんていつ見たのが最後だったか。俺は何かいたたまれなさを感じてうつむく。これはただの記憶力の問題であって。だが、先生はふ、と頬を緩めた。その動作が絵になりすぎていて、一瞬目を奪われる。
「よくできましたね。きちんと調べたようだ。」ふわりと微笑みかけられて懐かしくなった。こんな風に褒められて、うれしくなった日のことが思い出されて、そしてそれが今もう一度ここにあるのに倍うれしくなる。さっきまでの課題遅れに対する先生の憤りも表情から消えていた。ここに戻ってこれて幸せだと、心から思った。どうしようもなく、後から考えると楽観的に過ぎるのだけれど。


(何かが変わるということに)
____________

連載2話目です、なんか前の3倍くらいの長さになってないか?
勝手に妄想した転落事件、モデルはご存じゴーストトリックから。とても事件に関してねつ造をしていますがなんとなく雰囲気が出ていれば。
なんだかこの題材にいろんなことを詰め込みたくて仕方ありません。これからも長くなると思いますがよろしくお願いします。
つぎ→



2011.08.07

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