みえなくなってしまったね



俺は一人電車に乗っていた。座席は余っていたが吊革を掴んだ。窓から流れる景色が背の高さで後ろへ押されていく。ふと、首を進行方向に向けると運転席の向こうに線路が見えた。線路の曲がりに沿って車両が傾く。吊革を握りながら俺はしばらく運転席と同じ目線になる。電線、踏切、信号。みんな奥からやって来て手前に流れて去っていく。どこにいくんだろう。ふとそんなことを思う。気になって進行方向とは逆を向いてみる。車両が奥まで続いて、次の車両に行くためのドアが鈍色に反射している。両脇には揺れる吊革が整列していて、車両と車両を繋ぐドアの近くにはちらほらと人が居た。その中の一人が立ち上がる。俺は一瞬目を疑った。
「牙琉先生、」
疑問に思う。さっきの時点で彼の目立つ体裁は見つけられるべきもののはずだった。何故だろう。まるで急に突然出てきたような、そんな印象だ。多分声に気づいたらしい牙琉先生は俺の方を少しだけ振り返る。前髪と眼鏡に隠れた目が、ふわりとこちらのそれと合った。表情は柔らかく見えた。そして何か言ったらしいのが分かった。唇が形を紡いでもう一度微笑みに戻る。
「     、」
何と言ったのだろう。靄の向こうのように、不明瞭だ。だけどそのまま彼は鈍色のドアを引いて行ってしまった。俺は一瞬縫い止められたように動けなくなる。でも次の瞬間には吊革を放していた。少し揺れたが、座席の間を渡り歩く。俺は何故か何の疑問もなく、彼がしたように鈍色を開けた。

少しの時間、一両目と二両目の間の布の空間を通る。さっきの車両の中とは違う。鉄の箱に居る安心は全くない。むしろ箱と箱の間だ。不安しかない。蛇腹の固い布の中を揺れが過ぎる。接続点は余りに粗野で、革新の中忘れ去られてしまった空間にいるような気がした。一瞬怯んだ。が、先に行ってしまった人を思い出す。
「先生、」
二両目に行くそれも鈍色だった。手を掛けて引く。足元が覚束なかったが無理矢理に一歩踏み出した。

二両目はかなり賑やかだった。これでどうして一両目に音が漏れなかったのだろう、なんて思わせるような。人々は思い思いに座席を反転させて喋っていた。先程の布の空間とのギャップに戸惑う。
「あれ、新米ベンゴシじゃん!」
気さくに声を掛けられてそちらを見やると座席を反転させて相席状態にした4人がこちらを見上げていた。妙に軽そうな雰囲気の漂う豪快な未成年(にしか見えない)と、隣の大人しい春色な女性。笑顔の作り方に慣れを感じる。それから向かいの文鎮のような迫力のある強面の男性。その奥の、着物と髪飾りの境界が曖昧な、これまた豪快そうな女性。多分奥さんだろう。そして先程俺を呼び止めたのは手前の未成年だろう。
「どうしたんだよ、ぽかん、ってしてさ!」
そんな顔をしているのか。少し衝撃を受けたが、しかし、また疑問を抱く。この友好的な姿勢は何だ。俺はこの人たちにいつぞ会っただろうか。
「お、ベンゴシのニイチャンか!」
向こうからも声を掛けられる。縮れ麺があろうことか重力に沿って垂れ下がっている男性。その後も時計のストラップを付けたピンクの携帯を握っている変な帽子の人や、警官や、金回りの良さそうな神経質なおじさんや、ニヤニヤ笑う小汚いおじいさんにも声を掛けられた。が、そのどれもを緩やかに拒んで俺は車内を見回す。先生は既にいない。3両目に行ってしまったのだろう。彼を追いかけて3両目に踏み込む。3両目も色々な人に声を掛けられた。金髪の美少年、アジアな感じの神秘的な女性、体格の良いヒゲの印象的な男性、リーゼントが場所を余分に割く男。誰も彼も俺を知っているようだった。しかしみんなは一様に、ここは俺が落ち着く場所ではないと言う。じゃあどうすればいいんだ、と尋ねるとやはりみんなして一様に4両目への鈍色の扉を指差す。確かに、俺にも漠然とそこへ行くべきだという思いがあった。そこへ行けば望むものがある、というような。しかし漠然ながらそれには自信があった。何故かは知らない。根拠はない。でも行くべきだと、思っていた。俺は吊革を手放して座席の間を縫う。そして、鈍色を開けた。

3両目と4両目の間の布の空間には人がいた。俺は少し驚く。足が止まる。こんな足元の覚束ない、世界と世界の間のような場所に人がいるとは思わなかったのだ。その人は灰色のパーカーを着て水色のニット帽を被っていた。正直その組み合わせは似合わない。胡散臭い。俺が驚いて停止したのをいいことに、男は3両目の扉を閉めた。隔離される空間。揺れる。
「やっと来たんだね」
男が言う。俺はなんのことかわからないので、曖昧に返事をする。男は口角だけで笑う。その調子は妙に楽しげで、俺には怖い。男は何も言わずに4両目への扉を開いて去っていく。布の空間に置いていかれた俺は呆然と立ち尽くす。とにかく置いていかれたくなくて、4両目に足を踏み出した。鈍色はあっけなく開いた。


そこは意外に静かだった。人は慎ましく座り、景色は緩やかに揺れる。さっきまで話し掛けられてばかりだったから、車両の外に目を向けるのも久しぶりだった。どうやら一両目に似た雰囲気のようだ。流れていく景色はあの時と変わらない。後ろへ後ろへと押されて、あの車両の時と同じように見えなくなっていく。あぁ、そうだ。あの時はこの後、先生をドアの手前で発見したのだっけ。彼はどこへ行ってしまったのだろう。思い立って車内を見回したが、前両目と同様にやはり見つけることができない。次の車両にいるのだろうか。

しかし、ドアは開けられなかった。

鈍色は蛍光灯を鈍く反射させるだけで引き戸自身は動かない。理由は直ぐに分かった。最終列なのだ。もう続きの車両はない。だから扉が開くこともない。ならば先生は一体どこに行ってしまったのだろう。一両目で見たはずの、それから先へいってしまったはずの、先生は、どこで見失ってしまったのだろうか。前から順番にやって来たのだからすれ違わない限り前の車両には居ないはずだ。そして俺は牙琉先生とすれ違ってはいない。ならばこの最終車両のどこかに彼は居るはずなのだ。なのに、その姿はない。代わりに
「おデコくんも来たんだ、」
紫色のジャケット姿の軽い男は気さくに話し掛けてきた。とても良く、先生と似ている。そして彼の隣には不機嫌そうになにかお菓子を貪っている女性がいる。白衣を着ているから、病院関係の人だろうか。あるいは高校の時なんか、理科の先生はみんな白衣を着ていたから、それの方面の人かもしれない。しかし、二人分の座席に俺が座る空きは無い。
「あ、オドロキさん。」
どうしようかと考えていると後ろから声が掛かった。音の高い、子供の、女の子の声だ。振り向くと青いシルクハットを被った、マントを着た格好の女の子と目が合った。彼女の隣には空席があって、それまでも何度か誰も座っていない座席を見たのに、なぜかここに座ろうと思い立った。ここでなければいけないような気がした、のだ。ただの直感だけれど。
「隣、良いかな。」
「えぇ。もちろん!待ってましたよ。オドロキさん!」
彼女は大げさにわーとかきゃーとか嬉しがって、俺を窓際側の座席に座らせてくれた。でも座ってから何か、何か無性に気になった。理由を探してあちこち見渡して、それから車窓からの景色を見て、やっと気がついた。窓からは景色が見える。しかし一両目とは確実に違った。自分を運んでいる線路は見えない。見えなくなってしまったということに気づいた。1両目ならば見えたのに、しかし今、4両目まで来て鉄の2本はすっかり窓から見えなくなってしまった。
そして、しばらく車窓を眺めて、それから俺は思い出したのだ。それはある1シーンだった。正確に言えば声だった。あの時、まだ線路の見えた1両目で、確かに笑ったあの、あの人の声だ。ついさっきまでは笑った顔だけしか思い出せなかったのに。今、はっきりと何といったのか分かったのだ。俺は開かなかった、かの銀色を振り向いた。彼は、彼はどこに行ったのだろう、どうしてあんなことを言ったのだろう。俺はどこへ行けばいいのだろう。いつかもっと奥へ踏み出して、続きを見ることができるだろうか。そうしたら俺はまた彼に会えるだろうか。だって彼は言ったのだ。


(ついてきて、)



_______

メタ的な話が書きたかったシリーズ2。
オドロキくんには電車が似合うというのを…確かどこかで前にも言ったような。
いつか彼のセカンドステージが車両連結されることを祈ります。


2011.04.18

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