ハンガー


もしかして、と思ったことがある。

それは事務所に行くといつも思った。いや、今この目の前にある薄い扉の事務所ではない。重くて開けても音がしなくてでも豪華でない扉の方の、俺の前の事務所だ。誰もいないし、空気は籠もっているし、ほとんど物が残っていない事務所だが、俺はたまにそこへ行く。合い鍵は持っている。いつもしていたように只今帰りました、と言ってみながら入る。もちろん返事はなくて、それはやはりひどく寂しい。でも同時にどうにかしてここを元に戻したいと思う。彼のいたあの空間をもう一度現実にしたいと思う。事務所へ行く度そう思う。だからそう思うために俺は牙琉法律事務所へ行く。初心忘るべからず、そういうやつだ。そのために今は、俺が開けるのは成歩堂なんでも事務所だ。ここへ来たとて毎日足踏み状態に変わりはないことを自覚していない訳ではない。牙琉先生の事件を検事や成歩堂さんと審理し終わって、もうだいぶ経つのに劇的に何かが変わった気はしない。このだらだらした流れが嫌になることだってザラにある。だが、それでも俺はドアノブを回して、扉を開ける。風が吹いた。

「お疲れ様でーす」

最近習慣になりつつある挨拶をして物に溢れた事務所に足を踏み入れた。雑多な雰囲気に最初は慣れなかったが、今では此方の方が落ち着いてしまうのだから恐ろしい。
と、思っていたのだが。

「挨拶はきちんとなさい、オドロキくん。」

この事務所では聞こえるはずのない声が聞こえた。更にこの事務所では有り得ないふわりとした感触が足に纏った。更に紅茶の匂いがした。更には空気の硬度も違った。そして視界は正に、俺の望んでいた通りで。どこをどうしようと、
そこは牙琉法律事務所だった。

「…なんで」
「なんで、とはそれこそご挨拶ですね」
「…先生…」
「はあ」
「…」
「今の君と会話を噛み合わす自信がありません。何をそんなに」
「せん」
「震えて」
「せいッ」

気づいたら鞄を持っていなかった。足が彼の下へ駆け出していた。視界は揺れて滲んで、頬を伝った。咄嗟に紅茶を遠くに置いた先生に、突進した。そのまま体当たりのようにぶつかる。よろけながらも支えられる。目の前に金糸のような髪があった。感じの良い群青のスーツがあった。戸惑いと唖然と微笑みが零れてきて、大きな手があった。それらが嬉しくて、久しぶりに全力で泣いた。

彼、牙琉先生は戻ってきた、のだ。俺はこの人のそばにいることができるようになったのだ。また一緒に仕事ができる。教えてもらえる。充実できる。それはきっと楽しいだろう。きっととてもとても、俺は幸せだろう。

何の疑問も抱かなかった訳ではない。不可解ではあった。いきなり過ぎた。変だとは思った。だが今は、今はそれを考えたくはなかった。せっかく手に入ったこの嬉しさが幻だなんて、消えるだなんて。そんなこと。


(そうやって青年は)



________

続きますよー。
というお話の最初。私は、忙しいは充実しているということで、充実しているということは凄く幸せだと思います。

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2011.07.23

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