甘いだけでは

「ただいま戻りました!」

西洋風の重々しい扉を開けて、王泥喜は元気よく声を上げた。扉の向こうに広がるのは師の待つ事務所。ちょっとした資料を求めに行ったちょっとした外出だったのだが、まるで遠足から帰ってきた子供のように王泥喜は声を張り上げた。牙琉法律事務所はシンプルな装いかつ見えない所にお金をかけるインテリアをコンセプトにしているので、事務所のドアも最新設備だ。しかも掃除の徹底の為に開閉の音すらしない。こうでもしないと帰宅も分からない。というのが彼の張り上げる挨拶の理屈なのだが、いささか屁理屈臭い。しかし今日に限っては挨拶の返事すら聞こえなかった。王泥喜は思わず首を傾げる。いつもであればその大音量に苦笑しながらも「お帰りなさい」が帰ってくるはずだった。しかし今日は一筋に沈黙である。先生も外出中なのだろうか。王泥喜は鞄をつかみ直して事務所の絨毯を踏みしめる。しかし先生が外出中であっても他の先輩が一人は事務所にいるはず。自分の声が聞こえなかった、のは有り得ないだろうし。牙琉法律事務所では挨拶徹底だから無視というのも考えられないし。王泥喜は首を傾げたまま一つ唸って、それから事務所の奥へ進んだ。観葉植物の横をすり抜け、王泥喜は応接室に続く部屋の自分のデスクに鞄を置いた。部屋の広いソファーの隅っこに体を沈めようとして。
「…、あれ。」
広くて長いソファーの向こうに、我が師を見つけた。こんな所に居るなんて。いつもは所長室にいるはずなのだが。王泥喜はまず慌てて、それから、師が動かないのに気がついた。
「…先生?」
どうやら寝ているらしい。手元のローテーブルに資料が置いてあるのを見ると、うっかりうたた寝、というところだろうか。いつものようにスーツをシワなく着こなして、座っている。いつもの状態から目を閉じただけの寝るには逆に不自然な姿勢。一瞬、生きてるのか、と心配になったが、よく見るときちんと呼吸している。珍しいこともあるものだなあと重ね重ね思う。しかしいつまでも寝顔を見続けているだけではどうにもならない。とりあえず王泥喜は先輩の出欠をホワイトボードにて確認する為に、一度部屋を出た。が、みんな外出中、みたいだ。ホワイトボードは行き先と外出中マークのマグネットシートでぎっしりだった。行き先は裁判の打ち合わせとか、資料提出だとか、捜査に行ってたりだとか。みんな忙しいんだなあ、とため息をつく。暇なのは自分くらいだ。新米にはなかなか仕事なんて回ってこないから、やることなんてほとんどない。ホワイトボードの外出というマグネットシートを剥がして、王泥喜は先程の師のいる部屋に戻った。、が。
「…大丈夫かな…」
王泥喜がそう心配になるくらい、師の状態は変わらなかった。先程と同じ、座ったまま、ゆっくりと寝息をたてて。そのことが、嫌に王泥喜を不安にさせた。そっと近づいて隣に立ってみても、起きる気配はない。
「先生、…牙琉先生。」
声を掛けてもダメだ。普通の昼寝ならとっくに覚めているだろうに。
「先生!」
荒っぽく呼んで、肩を揺する。瞬間、手が師の指先に触れた。冷たい。寒気が背中を這う。確かに王泥喜の平熱は高い方だし、先生は低体温とかどうとか、そんなことを言っていた気もする。しかし、この冷たさはいっそ予想外だった。人はこんなに冷たいのか?
「そう、いえば」
確かに最初会った時から何か冷ややかな雰囲気は漂っていた。優しい人柄を匂わせながら実は容赦のない人物だというのも、なんとなく察していた。それが、できる大人の駆け引きなんだろうな、と変な納得をその時は漏れなく語尾に付けていた。しかし、…やっぱり何か隠した本性、何かしらの秘密があるのでは、ないだろうか。
「…まさか、な」
冷たい指から手を離す。寝息を立てる師を起こさないように、王泥喜は一人意識の水底へ沈んでいくのだった。



(それだけではない、という予感。)


_______

なんというか先生が空気。起こせば良かったかな。オドロキくんも最初から先生を盲信していた訳ではない。むしろ少し違和感を覚えてるんじゃないか。そんな考えから至っただけのちょっと味の違う霧王です。まあここから、逆に先生から突進されて白黒すればいいと思いますが。

2010.10.22


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