たわむれ


それは雪の日で、雪山だった。人生にして初めての雪山をみぬきは肌で感じた。
それは冬も終わりに近いというのに降り積もった綾里の山であったと思う。真っ白な景色を、肌を刺したソリッドな冷たさを、みぬきは目に焼き付ける。それから彼女は一人の赤が斜面を滑ってくるのを見つけた。
「オドロキさん!」
みぬきは声を限りに呼びかける。青年は最初から見つけていたぞと言わんばかりに方向を変え、失速するとみぬきの近くのなだらかな斜面で立ち上がった。ざくざくと雪を踏んで走ってくる彼の後ろには、同じく赤いプラスチックのソリが彼を追っている。しかし良く見ると彼自身は茶色の厚手のコートに赤いスキーウェアばりのズボンを履いていただけで、赤いと見えたのは主にソリの方らしかった。一瞬赤に見えた不思議にみぬきは首を捻る。あるいは普段の印象がそうさせるのかもしれない。彼は服装はもとより、言動すらも暑苦しい青年なのだ。走ってきた青年は息を吐き、寒さで上気した頬を惜しげなく笑顔に還元して子供のように笑う。
「オドロキさん、それ。」
「乗せてあげよっか」
「いいんですか!」
毎年夏に来る綾里の屋敷に、今年に限って冬に、しかも王泥喜を連れて来ようと提案したのは成歩堂、みぬきの二代目パパだった。この滞在の主旨としては王泥喜の弁護士業をねぎらうものであり最近また動きの見えたかつての師の追の裁判ことを考えすぎないようにと組まれた、一種の慰安旅行だった。しかし本当のことを言うと、お世話になる家元のスケジュールの問題であったり、単に雪山を体験したいみぬきのおねだりであったり、生活費の危ない成歩堂が久しぶりに縋った結果であったりな複雑な理由が根底には渦巻いていて、最初の目的は既に失われかけていた。でもとりあえず王泥喜を引っ張ってきて、事務所御一行様の体裁を保とうとした結果が、この限りなくプライベートに近い社員旅行であった。
みぬきと王泥喜は、二人してロープを引いて斜面を上る。赤いソリがざりざり音を立てながら二人の後をついてくる。みぬきは斜面を上りながら真っ白な世界を見る。それから隣の王泥喜を見る。彼も雪山は初めてのようだった。どこでソリを調達したのだろう。二人は山のなだらかな斜面にたどり着き、ソリを置いた。2、3歩先からはかなりの角度がついている斜面が待っている。リフトなんかない自然の山だから、上りは確実に歩きだがそれでも滑り下りたくなる角度だ。王泥喜が自分とみぬきを見比べて、提案した。
「みぬきちゃんマフラーだろ。オレ、ネックウォーマーだから前行くよ。」
みぬきは意味がわからなかったがとりあえず頷く。二人は足を曲げてソリに乗り込む。王泥喜がプラスチックのソリの前、みぬきが後ろ。しっかり捕まってろよ。とロープを握った青年が言う。少女は頷く。
「よぉし、」
青年が足で斜面を蹴った。
ソリが大袈裟に傾いて斜面を滑り出す。みぬきはとっさに王泥喜の腰に腕を回す。斜面を速度を持って滑り下りていく赤いソリと二人。風が刺さって目を瞑った。音がより鮮明になる。青年のコートが風に煽られてばたばたと言う。耳元で風が切り裂かれてごうごうと鳴る。マフラーは後ろに靡いてばさばさとはためき、少女はやっと青年の言ったことを理解した。これで前だったら後ろの人は往復ビンタさながらの修羅場である。風とマフラーとコートの音が幾重にも重なって少女の耳はそれしか聞こえなくなる。その時。不意に。

「オレは君を愛してる!」

ごうごうとばたばたとばさばさの中で、一瞬だけ、音がした。顔を上げる。が風が刺さってまたコートにしがみつく。少女はドキドキした。そんなことを聞いたのなんてパパが言った以来ドラマの中でしか聞いたことがなかった。やがてソリは失速した。さっきみぬきがいた、なだらかな斜面についたようだ。風はもう、ごうごうと言わないし、コートもばたばた言わないし、マフラーもばさばさ言わない。目を開けるとなだらかな斜面に王泥喜が立っていた。
「どうだった?」
青年の笑顔にしては幼い赤い顔が笑っている。
「あの、」
それだけ言って言葉に詰まった。それから、どうだった、の意味をみぬきは逡巡して、そしてふと疑問を覚えた。さっきのは空耳ではないだろうか。さっきまでとは明らかに違う静かで真っ白な世界。聞き間違えたのではないだろうか。風と布の音が偶然そう聞こえたのではないだろうか。そう思い直してもう一度彼を見たが、その表情は言ったかどうか、どちらとも決めかねた。

「もう一回!」

青年と少女はまた二人してロープを引いていく。ソリがざりざり言いながら二人の後をついてくる。今度は汗もでそうなくらいだった。歩くのは滑り下りていくより倍もそれよりも時間がかかる。みぬきは斜面を上りながら真っ白な世界を見る。それから隣の王泥喜を見る。少女はドキドキしていた。しかし王泥喜からは視線を外す。そしてまた雪山を見る。見抜くことはできそうな気がしたが、したくなかった。やっとまた最初の地点に着いた。ソリを置く。今度は迷いなく王泥喜が前に座る。みぬきは後ろ。王泥喜の腰に腕を回して、しがみつく。青年がまた斜面を蹴った。
すぐさまソリが傾き風が切り裂かれて唸り始めた。コートもまたばたばたと鳴りだす。マフラーもばさばさはためきだす。少女は目を瞑った。聴覚に集中する。風の音が大きい。やっぱり聞き間違いかもしれない、空耳だったんだ、そう思う。その時。ふと。

「オレは君を愛してる!」

しかし風がそれを追い抜いていった。途端に拡散する。そもそも拡散するようなものがあったのか。やがてまたソリは失速する。疑問が生まれる。滑り終わった後の静けさが更に疑問を掻き立てる。分からない。
「どうだった?」
少女はわざと集中しないようにする。確実に聞けるまで答えを取っておきたいと思う。言うことは一つだ。
「もう一回!」

彼らはまたソリを引いて上る。みぬきはソリッドな空気を吸って吐く。一回目に上った時からほとんど会話はなかったが、もう今は全くどちらも何も言わなかった。冷静になればなるほどあの一瞬のことを訝しみたくなった。この青年があんなことを言うだろうか?しかもあの言葉を言いたいのなら他にいくらでも機会はあるはずだし、今だって言える。やっぱり気のせいなのだろうか。でも滑り降りると斜面コースの中腹ほどで微かにそう聞こえるのだ。少女は泣きそうになりながら、何回も何回も橇滑りをした。でも何回やっても何も変わらなかった。答えも出ないのはおろか、どちらかに意見が傾くこともなかった。
「そろそろ帰るか。成歩堂さんも心配してるんじゃないかな。」
「…はい!みぬき、お腹すきました!晩ご飯カレーだといいなあ!」
あえて探ろうとはしなかったけど、この橇滑りは滞在が終わっても、みぬきはずっと忘れなかった。


(謎を謎のまま残す。)



_______

ええと、うまく矢印付けにくい小話…。おど(→)←みぬみたいなノリで…!←
モデルはチェーホフの『たわむれ』から。最初読んだときもう涙出て、あ、これ見抜く能力あったらもっと素敵じゃないか?と思ってリメイクさせてもらった次第です。す、すみません…
とにかくこんな感じの彼らがすきです!、なんて!


2011.04.02


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