退屈を持て余す日曜の午後。読書も音楽鑑賞も気分じゃない。こちらの存在を一切忘れてしまっているのではないかと、視界の隅で蠢くものに少し恨めしい気持ちで目を遣ると、以前とは変わった様子を見つけて関心の的になる。
「それどしたの」
考えもなしに不躾に問うたので、関心の的は片付けを中断し、いつもの無頓着そうな顔でこちらを見る事数秒。そのままぼうっと「それ」に当たるものを探して辺りを見回したり自分の身体をまさぐる。
「……なにが?」
「爪」
淡泊なハイトーンボイスが予測通りにかえってきたのですぐに答えを出す。いつも短く切り揃えられている彼の爪が今日はどこか艶めいていた。
爪に関しては特に几帳面だと思っていたが、爪磨きまで始めたとすれば、身体の手入れの具合など本人の自由とはいえ、なんだか妙な気分になった。
「なんかぴかぴかしてない?」
「ああ、これ。ヤスリ使ってる」
「へー、なんでまた」
雑誌なんかを見ると、今や男性もネイルサロンに通う時代、らしい。そんな記事を読んだ記憶がある。と言っても、ピンクだの赤だのポリッシュを塗ったりネイルアートを施しているわけではない。身嗜みに気を遣うのは悪い事ではない事くらいわかっている。それでもやはり、妙な気分になる。
――私にはまるで関心がなさそうなのに、爪を磨く手間は惜しまないなんて、なんて人だろう。
(ゆうべだって、なんか優しくなかったし)
「……顔、変」
「え、なに失礼な」
「なんか気に入らない事でもあるの」
うすい唇から零れるように出てきたそれは質問の形をしているだけで答えは不要だと言うような声音だった。彼は心底どうでもよさそうに息をついて片付けに戻りこちらに背中を向ける。
ひどい虚無感だ。また退屈が戻ってきてしまう。
「、気に入らなくはないけど」
「けどなに」
「……なんか、気になっただけ」
「、爪が?」
「ん」
「……君って鈍感だよね」
「はい?」
話が飛躍して思考がぱったりと途絶える。背中を向けられたままでも溜め息が確認できて、胸の辺りが重くもやもやとした。
「なんで、そうなるの。そっちはどうなの」
どうして恋人と過ごすせっかくの週末のその最後に、放って置かれて冷たくされて鈍感だなんて言われて、こんな気持ちにならないといけないのか。意図的に斜に角度をとった声は彼の作業を再び中断させた。
ほとんど無音のまま時間が流れる。
日曜の午後なんてただでさえ潰れた紙風船みたいな気持ちになっていくだけなのに、爪がどうとか言っただけで喧嘩なんかしてしまいたくなかった。そう思うと不機嫌は後悔に早変わりする。
今のは失言だったかもしれない。少し前にも些細な事で小諍いがあったばかりだというのに。こういう所が可愛くないから、昨夜は粗野で今日も放って置かれたのだろう。
気が沈んで落ち着かなくなる。このままもし喧嘩して帰ったら明日の元気は誰にもらえばいいのだろう。
「……、あの、」
「ほんと面倒くさいよね」
「え」
おかしそうに笑ってそう言うと彼は隣に座って顔を覗き込んでくる。機嫌を損ねたとばかり思っていたから、この笑顔にどんな顔をすれば良いかわからなくなる。
「今勝手に落ち込んでるでしょ」
「……」
「馬鹿だよ」
図星なので何も言えない。彼の目から目が離せない。雪のような髪が目の前でふわりと揺れた。自分と同じシャンプーの香りがして何故だかほっとした。
「爪切りからヤスリに換えたのってだいぶ前なんだけど」
「え」
「気づかれてなくてショックだなあ」
独り言みたいな控えめな声とは裏腹に、二の腕に触れた手はそこを強く掴んでくる。逃げるほど痛くはないけれど顔が少し引きつった気がした。
「あ、の、ごめん」
「なんでかって聞かないの」
「え、」
「興味ないの、僕に」
「そんな事」
「ホントかな」
「了、」
「昨夜、誰とメールしてた?」
「え?」
「セックスの前、ケータイ触ってたよね。部屋に入ったらすぐしまってたけど」
「あ、あれあの、友達」
「男?」
「女。しーちゃんだよ。あたしよく話すでしょ?あのコ」
「ふーん」
「ホントだよ。なんなら、見る?」
「いい、見たくない」
「……ね、どうしたの」
「気に入らない」
「、なにが」
「僕が爪を磨くの、触るのが好きだから」
「なに……を、」
言い終る前に彼の白い手が太ももを撫で上げてきて、なんとなく、なんとなくどういう事なのかが分かって言葉が引っ込んだ。
「意味わかる?」
「、うん」
「ホントかなぁ」
「ホント、だよ」
近づく唇に目を閉じる。少し乱暴に押しあてるだけだったそれが次第に深くとろけるものに変わる。上唇を吸われたり、下唇を噛まれたり、かたくてやわらかい舌で粘膜という粘膜を舐められたり。卑猥なスイッチが入った頭で、昨夜のキスや手つきを、それから今までの態度を思い返してたまらなくなる。
(これって、嫉妬?やきもち、妬いたの?)
(あの了が?)
(あたしに?)
拗ねていたのかと思うと愛しくてたまらなかった。欲目なのだろうなとぼんやり自嘲。
「……なに」
「ん……なに?」
「余裕だね」
「、そう見える?」
これから与えられるであろう悦びを想像しただけで腰の辺りが疼いてしまう。鼻から抜けるような声が小さく漏れたら、滑らかな爪の指がスカートの下に潜り下着をずらした。
彼の小さくて優しくて愛しい気遣いが、もうすぐそこに触れる。