昨日も今日も優しくなかった俺は、明日も変わらず優しくない。だから、あいつは馬鹿なんだ。
「ばく……?、あぁ。、ちょっと、そこの白いひと」
人通りの少ない特別棟の影に入って敷かれた砂利を足でざらざらとならしながら考え事をしているとアホっぽい女の声がそう話し掛けてきた。振り向くと宿主サマと仲が良いクラスメートが、西日に顔をしかめながらこっちをうかがうように歩いてきた。何か白い箱を持っている。
「……あ?テメェは人ひとりの名前も満足に覚えらんねぇのかよ。アルツハイマーか?」
不機嫌をたっぷり練り込んだ声で言ってやると、女はただでさえアホみたいな顔を呆然とさせて静止した。口の開き具合が笑える。
「……だって、名前教えてくれないじゃん。名無しのごんべーさん」
こいつは半分だけ俺の事情を知っている。初めは怖がっていたが今ではこの有様。馴れ馴れしいことこの上ない。俺もなめられたものだ。
「あ?……教える必要がねーだろ。でなんだ。用が無いならとっとと消えな」
「……あのね、部活でシュークリーム作ったの。はいこれ。あ、獏良くんに、食べてもらって」
「は?……別に俺サマが食ったって胃袋同じだろ。馬鹿か?」
「いやいや、違います大違いです。獏良くんの為に、作ったのだから」
ハートが違うハートが、とかほざいてこの馬鹿は白い箱を大事そうに抱えた。俺は胸焼けがする思いでため息を吐く。
いつからこんなに普通に話すようになったんだか。やり取りの中でいつもふと浮かぶ疑問はすぐに沈んでいく。自分がこいつの日常に宿主と一緒に組み込まれている事がなんだか無性に腹立たしかった。
「テメェ宿主サマが好きなのかぁ?ハッ悪趣味だなぁヒャハハハ」
「身体借りてる身で随分な言い様だね。後で獏良くんに伝えておくよ。その馬鹿にした笑い声とか顔とかの実演付きで」
否定しないのか。どこまで馬鹿なんだこいつ。
笑いが込み上げてきて勝手に口角が吊り上がる。
「そいつは無理だな」
「え、ちょっと」
「なんなら一生このままで居てやるぜぇ?」
「……それは、ひどい話だね、」
ぽつりと、天気の話をするみたいなのんびりした声で言って馬鹿女は、一瞬妙な顔をしたように見えた。いつもへらへらしてるくせに変な奴だ。それが引っ掛かってもやもやしたものがわいて出て、ふと疑問に思う。なぜ俺がこんな気分にならなければいけないんだ。
大体こんな女最初から無視すりゃいい話じゃないか。何をやってるんだ俺は。
苛々ともやもやが混ざり合って気持ち悪くなり顔をしかめる。
数秒の沈黙の後馬鹿女はまたへらりと笑って白い箱を両手で差し出してきた。
「ま、これ四個あるから、食べるならちゃんと分けてよ」
仕方なく手を差し出すとその上に箱を置いてよろしく、と笑ってそいつは帰った。
食うな、と釘をさしておきながらしらっと言って何事も無いように早くも遅くもない足取りで去っていく後ろ姿に何か言ってやりたかったが言葉が出てこず仕方なく憤然とした思いで角を曲がるまでただ見ていた。
あいつは、この俺が何を言っても顔色一つ変えやしないで、いつもへらへらしながら宿主に寄ってきて、俺にまで馴れ馴れしくへらへらしきて、心底馬鹿じゃないかと思う。いつも気に入らなかったし理解できなかった。一体何がそんなに楽しくて毎日へらへらしていられるんだ。俺がいつも何言ってるか分かってるのか。頭おかしいんじゃないか。
いや、本当に別にそんなのはどうでもいいが。
「テメェなんざぁ、なぁ、」
(頼むからさっさと消えちまえ)
「…チッ」
なにより、ひどいと言った顔や声に非難の色を見つけられなかった事が。
「胸糞悪ぃぜ。この――
***
「まったく、感謝とか親切とか思いやりって言葉を知らないのかな」
誰も残っていない部室で一人、自分用の見栄えが良くないシュークリームを一つ手にとって頬張る。味は悪くない。
今きっと自分の顔は緩々でさぞ気持ち悪い事だろう。どうしたって頬や口元が勝手に綻ぶ。ニヤニヤが止まらないのだ。それはシュークリームが美味しく出来たからじゃない。
どんな汚い言葉を吐かれたって口をきいてもらえるだけで、相手してくれるだけでこんなにも嬉しいなんて。
部活でシュークリームを作るときは是非分けてくれと直接獏良くんに頼まれて必ずおすそ分けする事になってから、この約束がこんなラッキーに結び付く事をずっとずっと願っていた。
「食べてくれんのかな、」
あの人、としか呼べないのは少し淋しいけれど、教えてもらえないのだから仕方がない。
全部あの人に食べられるのは嬉しいかも知れないけれどそれじゃ獏良くんに悪いし、全部獏良くんに食べられてしまうのも正直残念だ。まああの人が全部食べてしまう事はまずないだろうと思う。
(なんだかんだで獏良くんに厳しく出来ないからな)
だって知っている。あの人が優しくないわけじゃない事を。
(口は悪いけどね)
そんな所を一つでも知ってしまうと不思議なもので、第一印象で抱いていたマイナスイメージが一瞬で別のものに昇華してしまった。いいやつじゃん、かわいいじゃん、こわくないじゃん、と一つずつあの人が解けて色づいて、いつの間にか身体いっぱい埋め尽くされてしまった。
恋を、してしまった。
あの人がどんな存在なのか、今一わからない所はあるけれど、結ばれるとかそういう結末を迎える事は物理的に不可能だというのは解っているつもりだ。
それでも想ってしまうのだから、どうしようもないのだ。
(だから、あたしが馬鹿だっていうのは本当に当たってるんだよねぇ)
「そんな何回も馬鹿馬鹿言われなくても解ってるっつーの――
馬鹿馬鹿言われて、うざがられれても結局構ってくれるから、結ばれる事は無いのだと解っていても隠れて浮かれて喜んでしまう。もういろいろと末期かも知れなくて、そう言ってやるのが惚れた弱味の中、精一杯の強がりだった。
――馬鹿」」
月並みの陰口は、誰にも聞かれずにただひっそりと自分の耳にだけ、届いた。