ビラブド、の夢を見た



 今朝のように、お帰りがひどく遅い日もしばしば。
 だから僕は食卓に果物を詰めたバスケットと、白い花を飾っておくのです。簡素な室内に映えるように、清潔感と華やかさを演出する為に。
 生地の薄いカーテンを透かして朝が入り込んでくる。無機質なフローリングを這って、僕の足元へと触手を伸ばしてくる。
彼の居ない朝を連れてくる、冷めた時間を伴って。
 ことりと食卓の彩りに添えるように灰皿を置く。シンプルだけれど皿を並べたときに邪魔にならないよう、サイズにも色にも気を使って選んだものだ。嫌煙家である僕が自分のテリトリーにこんなものを置く理由を、きっと原因の人物は正しく把握していない。彼が初めて僕の部屋で彼が煙草に火を点けた時、僕がどんな顔をしていたか。
 それでも彼の喫煙を咎めたことはない。自身も苛立ったように煙をふかす姿に近寄りがたい緊張や、拒絶が見えるから。人前で常に気を張っている彼のことだから鬱積しているものも多いのだろう。優しく、懐の広い先輩を演じる彼が、あからさまに険悪な表情を晒すのは僕の前でだけだ。その事実に救われている現状はなんて、滑稽なんだろうか。
 携帯のアラームがけたたましく静寂を荒らす。もう六時だ。昨晩夕食の約束をすっぽかした彼からの「すぐに帰る」という口先八寸を信じて、何時間経ったのか。眠ることも仕事に手をつけることも出来ず、主の帰りを待つ犬のように身を硬くしてリビングの片隅で夜を過ごした。冷めた二人分の夕食を捨て、デザートにラップをして、彼のせいで随分と賑わった冷蔵庫に放り込んだ。
 そろそろ朝食の準備をしなければならない。いや、この時間になっても帰宅の気配がないということは朝食も何処かでとってくるのだろうか。そもそも朝食もとらずにベッドへ沈み込むパターンだろうか。それとも、本当の家に帰るのだろうか。ここではない、彼本来の根城へ。
 夜通し飲み明かした朝にまた他人の傍へ戻るのは苦痛だろうか。ひょうきんさを装っていても性根が孤独を好む彼だから、愛玩物程度にしか思っていない僕の所へ寄るのは億劫かもしれない。特に理由がなくても気分次第で連絡を断つこともある。こんな朝には僕の存在など欠片も思い出すことなく、眠りに落ちるかもしれない。そうしてまた日が沈んだ頃に、思い出したように心のこもらない謝罪のメールをよこすのだ。
 赤く振動する携帯に、はっとしたように我を撮り戻す。沈思に耽ってアラームを止めることさえ忘れていた。一定のリズムで振動しながら鳴り響くそれが堪らなく神経に障って、叩き付けた。
 耳障りな騒音と素足に当たるまばらな感触。視線を下げれば先刻まで騒音を撒き散らしていた赤い機体の、残骸が。
 思ったよりも強い力で床に投げつけていたらしい。外郭を裂かれて中身をぶちまけて、むごたらしい肢体を晒すそれには到底携帯としての機能はもう残っていないだろう。
 ちくりと足裏に走る熱。飛散した破片のどれかを踏んでしまったのだろう。
己の所業とはいえ、何もかもが疎ましくなって蹲った。
 ぐしゃぐしゃと乱暴に頭を掻き回せばぶちりと嫌な音がして何本かの金糸が指に絡まった。
 皮膚のすぐ下、血管の中をヒステリックな衝動が蠕動している。ずるずると、狭く赤い道を芋虫のような肢体が、数多の足を壁に張り付け押し広げながら、強引に中枢神経まで押し入ってくる。
 首にも腕にも額にも、奴らは無遠慮に侵擾してくる。
 そうして真っ赤になった目蓋に浮かぶのはいつだってただひとりなのに。
 掻き毟っても掻き毟っても、彼にだけは手が届かない。届かないのに伸ばして掴めなくて、その手がまた皮膚を掻き毟るのだ。

 ガチャリ。
 玄関の方で錠の廻る音がした。はっとして我に返る。
 ああ、帰ってきたのか。
 ぺたぺたと聞きなれた無骨な足音がこちらへ近づいて来るだけで、驚くほど晴れやかな気分になった。血管の芋虫たちが跡形もなく霧散していく。
 こんな塞ぎ込んでいる場合じゃない。起きて、彼を、疲れきっているであろう彼を、笑顔で迎えて癒さなければ。

「ただいまバニー」

 かちゃりと、リビングの扉が開くと共に、何より待ち望んでいた笑顔が現れた。


「大丈夫かお前、ひっでぇ顔してるぞ?」

「ああ、昨日は少し仕事が立て込んで寝れてないんですよ」

 無難な笑みを貼り付ければ、彼は頭をかきながら訝しげに眉をひそめる。納得したわけでもないだろうが、追及することが面倒臭くなったのだろう。床の惨状も僕のひどい顔色も、全て無視をして椅子に腰掛けた。

「寝れてないんだったら俺は来ない方が良かったか?」

「そんな…虎徹さんが来てくれて嬉しいです。虎徹さんの顔見てるほうが」

「一人は寂しかったか?」

 僕の言葉を遮るように台詞をかぶせてくる。椅子の背中越しにこちらを振り返って、莞爾とした笑みを浮かべた彼と目が合った。それだけで、たったそれだけで、息の仕方を忘れるくらい僕は。
 なにもかも見透かすような優越の瞳をするくせに、その実何もわかっていない。何もわかっていないのだ、この人は。
 僕のことを今まで彼の人生を上滑りして行った程度の幾人かと同じようにしか見ていない。

「…はい」

「俺もだよ」

 うそつき。
 いや、半分だけ、本音なんだろう。半分だけ。
 所詮あなたのおもいなど、僕がこの一夜に背負い込んでいた寂寥や苦課とは比べるべくもないものを。

「お前の顔が見れて良かった」

「…うれしい、です」

 そんな、当たり障りのない言葉が欲しいわけじゃない。誰にでも使いまわして唇が機械的に動くような。

「愛してるよ、バーナビー」

「……僕もですよ。ぼくもあいしてます」

 ああ、あなたが、きらいだ。


 あなたといると以前より深い孤独に苛まれる。

「煙草吸っていいか」

「どうぞ。灰皿洗っておきましたから」

「わりぃな。よく気が付くバニーちゃんはいい嫁さんになるぞ〜」

「あはは、ありがとうございます」

「髪も前より伸びたよな。なんつーか美人さんて感じになってきて」

「あなたが僕の髪をいじるのが楽しいとか言うからわざわざ伸ばしてあげたんですよ」

「あ?そうだっけ?」

「そうですよ」

 するりとバスケットに手を伸ばす。華やかな色彩の中から一際鮮烈なものを取り出す。丸みを帯びたフォルムに指を添えて、彼の眼前へとかざす。

「これ、煙草の害を少し防ぐんですって。昨日テレビで言ってました」

「ふぅ〜ん」

 気のない返事をする彼に構わずにこやかにそれをキッチンへ運ぶ。

「切り分けてきますね」

 彼に背を向け、キッチンの引き出しから果物ナイフを取り出す。小ぶりなそれは女のようだと揶揄される僕の細い指によく似合って見えた。
 ぼんやりとその心もとない刀身に赤が絡む様を夢想していると、背中越しに彼の声が聞こえた。

「やっぱりお前、いい嫁さんになるよ」

「どうしたんですか急に」

「いや、なんとなく」

 さくり。妙な雰囲気を気取られぬように、その赤に切込みを入れる。真っ赤な表皮にそぐわぬ、少し黄ばんだ白い身が露出する。

「おまえ、幸せになれよ」

 ザクリ。一息に、身を二つに割る。僅かばかりの果汁に濡れた刃が汚らしくぬめる。

「…あなたは幸せにしてくれないんですね」

「お前はもっといい奴みつけられるよ。いつかな。可愛い嫁さんもらって、親馬鹿ってからかわれるくらい溺愛する娘ができて、スカイハイんとこみたいな犬も飼って」

「あなたは」

 さくりと。果実が濡れた内臓を露呈する。剥き出しのそれは何度も味わった甘さを舌の上で幻覚として遊ばせた。

「そこにあなたは居ないんですか」

 振り返って仰いだ笑顔は、僕が知りうる彼のどんな表情よりも、彼自身だった。
 この世界で一番美しくて、優しくて、優しくて、残酷な微笑み。

「俺の居ないところで幸せになれよ、バニー」

 ああ、そうか。それならば。










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