最初、ヘドロか何かの汚物の海だと思った。覚醒した直後だ。やがて意識が冴え五感が正常を取り戻すにつれ、それが乾燥した血だと気付いた。どす黒く凝固する血溜まりの中に顔を突っ込んでいる。
 左を下にして横向に倒れているからか、血に浸された片頬が引きつって妙に熱い。内側が熱を持って皮膚の上をじりじりと炙る。こびり付いた血液の冷たさが交わらないまま触覚に融解する。
 違和感と不快さに吐き気を催し、生唾を飲み込んだ。結果、口内にもこびり付いていたらしい血を飲んで、鉄の味に嘔吐感を強くしただけだった。
 悪臭が鼻腔を刺激する。悪臭だと感じるだけまだましかもしれなかった。これに慣れたらきっと大切なものを失う。

「…いた、い……」

 身 を起こそうと上げたつもりの腕が動かない。代わりに肩から走る激痛。痛みよりも灼熱の方が近いか。持ちうる語彙に変換する前に強烈な痛覚で思考がどろどろになる。ただ身体がいたいいたいと悲鳴をあげて機能を停止させる。
 意識を飛ばしてしまえたら楽だった。目の前に聳える面倒な諸々の現実を忘れて、より深く眠りについてしまいたい。
 疲労が甘美な誘惑を連れて瞼を重くする。ほんの少し力を抜くだけで、呆気なく救済は訪れる。
 それは数十年の、数百年の、もしかしたらもっと果てのない、遠大な時間からの解放になるだろう。
 背中にのしかかって背骨をぎしぎしと軋ませる重たいものがある。それを背負わなければ世界は正しくあれないのに、背負った本人は真っ直ぐに立つこと さえ出来ないでいる。翁のように腰を曲げ、時折這い蹲り惨めに地面を舐めながら、それでも歩き続けなければならない。
 終わらせることも出来るのに。

「………しかたがないんだ」

 半分閉じた瞼の裏に、闇を見る。開いた瞳は焼き払われ、薙ぎ倒された建物を見る。照りつける太陽が視界を明るくする。ビルの下、瓦礫に埋もれた腕を、はみ出した内臓を、体を失った首を、誰某のものと混合した血の海を、積み重なった夥しい屍を、全て白日の下にさらすのだ。その向こうに、暴れまわる悪者がいる。
 しかたがないんだ。もう一度同じ台詞を、舌を動かすだけで呟く。
 ああそうだ、しかたがないんだ。それで自分を納得させて誤魔化して鼓舞して、立ち上がるしかないんだ。

  だって俺はヒーローだから。

 ばしゃりと黒海に手を付いて、身を起こす。爪がいくつ剥がれて身がむき出しになっていた。
 激痛に肺が締め上げられた。ついた膝に手を置いて踏み留まる。ここで再び血溜まりにダイブしたら、もう二度と。
 約束をした。
 自分をアニキと慕った友と、違う道を選んだ女と、導いてくれた大きな背中の男と。彼等と契った全ての誓いが、交わした腕の繋いだ指の温もりが、震える脚をいつだって支えていた。いつしかそれは背中の重圧と繋がって足枷となったが。
 それでもこの醜く腐りきった利己的な世界で、過去の美しい記憶だけが唯一純粋であったから、それさえ抱き締めていればこのクズみたいな世界でも守る意味を見いだせたから、今こんなにずたぼ ろでぼろ雑巾のようになっても、まだ闘えるのだろう。だって、ヒーローだ。
 ヒーローは友との約束を守らなければならないのだ。自分の命に代えても。
 もっともそんな簡単に潰えてくれる命でもないのだが。
 想い一つで人はいきられる。絶望すれば、即ち死がある。死はいつでも一番近くで救いの手を延べてくれるが、それに縋るのは裏切りに値する。縋ったところで咎める親しい者達はもう一人としてこの世にはいないのだが。いや、巡り巡ってもう皆転生しているかもしれない。違う生を二度三度繰り返して、知らないところで勝手に生きて幸せになったり辛酸を舐めたりして、全く無関係な場所で普通の人生を全うしているのかもしれない。
 それは、とても、怨めしい。
 人に重荷を 背負わせておきながら、なんて奴らだ。こっちはお前等の言葉一つのために無限にも等しい時間を戦い続けているというのに。諦めることも許されず血反吐をはきながら無様を晒しているというのに。
 世の悪逆の限りを知り理想を失い堕落して憎悪して、闘う意味さえ散失して、そんな風になってもお前等の言葉だけは未だ手放せない。輝かしいまでの思い出を糧に生きられるのだ、どんなに苦しくても。
 だから余計につらいのだ。憎いのだ。いとおしいのだ。
 そんな何千回目かになる恨み言を、そっと唾棄した。
 全身の骨が妙な音をたてて軋む。脊髄を損傷したかもしれない。手足の感覚が遠く自由がきかない。足の裏にある地面がひっくり返ってぐにゃぐにゃと歪む。視界もぶれて暗い。失血 が酷い。これではまともに体を動かせないだろう。
 それでも立たなければいけない。

「十代君」

 傍らの錬金術師の魂魄が語りかけてきた。修羅場慣れした軽い調子だ。

「北東に1キロ、全力で追えば市庁舎の破壊は阻止できると思いますにゃ」

 それでとても残酷なことを告げてくる。本当に、この人には適わないと内心で嘆息する。長く生きすぎて人を労る感覚を忘れてしまったらしい。
 ばさりと羽音がして、黒い影。

「立ちなよ十代。君を蹂躙した不届き者に復讐してやらなくちゃ。死ぬより残虐な目に遭わせてやる」

「えらく物騒だな」

 鬼のような形相で呪詛を吐く精霊に苦笑混じりで返す。
 膝と手に力を込めて、立ち上がる。そして見据える。見 えぬ敵を。
 腕も脚も使い物にならない、全力至る所から出血して僅かに身じろぐだけで血が噴出する、骨が変な音を立てる、体の末端が冷えて血の気がなくなっていく。腹に添えた手の間から内臓がこぼれた。
 たたかえ。ころせ。まもれ。ぎゃくさつしてやる。
 憂さ晴らしだ、これは。下らない世界とそんな世界を守るため四苦八苦する自分と重荷を背負わせた全てに対する行き場のない憤りを、晴らす。
 その犠牲になってもらう。大丈夫だ、こんなに人を殺した悪者を殺したって大した咎めがあるはずもない。
 醜悪なのは世界も、己の本性も同じだ。処世術ともいう。
 理を外れて人の道を逸れて生きても、長く生きるほど悪徳を重ねるという恒常の営みからは逃れられなかった。いま 、自分は憎むべき守るべき世界と同じ色をしている。

「とびっきりひどいのお見舞いしてやろうか」

 にたりと、酷薄な笑みを浮かべてみせる。笑え。笑える。まだ。
 たとえ頬の筋肉が痙攣しているだけだったとしても、まだこんな顔が出来るのだ。
 笑えるうちは生きてやろう。
 無意識に力を込めた手が自らの腹を抉った。風通しの良くなった腹部からは口にするのもはばかられるグロテスクなものが溢れ出している。それをわざわざ視認する気はない。

「そうだ、行こう十代」

「お供しますのにゃ」

 両隣から追従する声が挙がる。どちらも好戦的な殺意に艶めいている。
 もう正気など何処にもない。
 だから。

 震える手でカードをめくる。赤黒く汚れ てテキストも判読できない有様だったが、それが何かは誰よりよく知っていた。
 掠れた声で、その名を喚ぶ。

「出よ、マイフェイバリットカード!!」






嘘吐き





 幻聴のように木霊する声がある。心の内で響くもの。懐かしい、優しい声が。
 それが消えぬ限りこの苦果は終わらない。
 







久々にパラさんのいない十代さん一行。
誕生日前に書いたのがこれって、
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