「Buonasera,遊星」
安普請な宿場の扉を開けて出迎えたのは、奇矯な仮面の男だった。見覚えのあるそれは、白と黒の入り交じる破滅の色。
きっちりと一拍の呼吸をおいて、遊星は口を開いた。
「お久しぶりです、十代さん」
「なんだよもっとビックリしてくれると思ったのに…相変わらず遊星は反応薄いよなあ」
「相変わらずつまらない奴ですみません」
拗ねた声と共に外された仮面の向こうから現れたのは、見慣れた鳶色の髪。興が殺がれたと批判するうろんげな瞳。
苦笑を混ぜて謝罪を返せば皮肉と取られたのか、視線の険を色濃くする。
「まあいいや。入れよ」
「失礼します」
促されるまま室内へ足を踏み入れる。宿泊料に見合った部屋の造りは簡素として他人行儀だ。長期に滞在する者とは馴れ合わないと、染みと埃でコーティングされた壁が語っている。ベッドサイドのテーブルにアンティークもののパソコン――これでもこの時代では最新鋭だと言うから驚きだ――と二つのティーカップ 、パックの紐がはみ出したポットが一つ、息を潜めて主に触れられる時を待っている。そんなしっとりとした構図を、窓から差し込む午後の陽気が浮かび上がらせている。こちらの世界へ。
「適当に座れよ」
「あ、はい」
と、言われても室内に椅子は見当たらないのでベッドに腰掛ける。特に咎める空気もない。手持ちぶさたで、ひらひらと仮面を弄びながらお茶を準備する十代の後頭部に視線を彷徨わせた。
「他には誰もいないのですか」
「大徳寺先生はファラオに喰われてどっか行った。その他諸々大勢は先の戦いで魂を消耗して今俺の中で休養中」
「ああ、道理で今日は静かなわけですね」
平素、遊星が十代を訪ねる度、苦々しい顔でもって迎える面々を思い出す。特にあの奇抜な紫と金糸の男を。あの男は特別遊星と因縁が深いためか、これみよがしに渋面と害意のオーラを向けてくる。その場を立ち去らないのはどうせ十代に戒められているからだろう。
「たまにはこういうのもいいだろ?」
にまりと悪戯な笑みを浮かべて、十代が肩越しに振り返った。
「これ、つまらない男からのつまらない贈り物です」
「お前も結構粘着質だよな。ま、でもありがとな!お茶うけとしてありがたくいただくぜ…ってこの茶もお前がくれたヤツだけどさ」
「気にしないで下さい。俺が好きで持ってきてるモノですから」
「じゃあ遠慮なく両方ともいただくぜ」
手渡した小箱をがさがさと乱雑に開き、お!チョコレートか!と歓喜の声を漏らす。バレンタインの習作みたいなものですみませんが、なんて台詞も聞かずにひょいと摘んであっと言う間に口の中へ。
「にがい」
などと言いつつも鳶色の瞳が喜色で輝いている。三大欲求に素直な所は幼子のようで見ていて微笑ましい。彼の方が年上で荒んだ人格だという事実を、その瞬間だけ忘れてしまう。
「ビターにしてみました。甘い方がお好きでしたか」
「んや、チョコだったら何でも好き」
言うが早いか次々にチョコレートを食していく。吟味も咀嚼もろくにせず胃袋に流し込んでいくさまは本当に幼い。デコレーションも何もされていない、正方形に切り分けてパウダーをふっただけの質素な、しかも男の手による甘味菓子を、十代は黙々と平らげていく。時折砂糖とミルクを適当に、かなりの量注ぎ込ん だ紅茶に口を付けながら。
気に入ってもらえてよかった、と思う。本心から。
サイドテーブルからは無機質なパソコンが退けられて、二つのカップと一つのポットとチョコレートの詰まった小箱が静かに華やいでいる。面子だけを見れば愛らしいものだ。
そのあまやかな画に添えるには相応しくないモノが、十代の手に一つ。幾何学的な曲線で交わるモノクロの仮面が。彼は何故だかそれを手放そうとはしない。
「それ、まだ持っていらしたんですね」
「ん?ああ。いいだろコレ?」
食事の手を止めて仮面を翳す。得意げな表情と声は全く真実みがない。
「彼に対する嫌がらせですか」
「しっつれぇぇだなお前は。唯一の遺品なんだから大事に保管しといてやりたいって思うだろ、普通」
「それこそが嫌がらせ以外の何ものでもないと思うのですが」
「お前は純粋な誠意を曲解しすぎなんだよ」
苦言を呈しながら、冗談めかして笑う。
くるくると、端整な指先が繊細な仕草で仮面を扱う。てらりと陽光に光る爪はいつ見ても艶めかしい、と思う。荒れた生活をしているとは思えない程十代の手はいつ見てもきめ細やかで美しい。自分の安っぽいチョコレートなんかが汚すのは勿体ないくらいに。
その手が件の仮面を扱う様は、とても綺麗だった。白と黒の平面を這うように撫でる指先が、丁寧に切り揃えられた爪が、愛おしげな視線と絡まって踊る。蠢く。愛撫する事で口付けの代用としているかのようだ。若しくは、イヤらしく舐め回すような。
彼の手と仮面の交わる様は安っぽい空間からぽっかりと浮き出て、虚像のように美しかった。
「爪、彼に切らせているのですか?」
唐突に呟いた言葉は自覚のないモノだった。何故そんな事に思い至ったのか、ただ漠然と十代は否定しないだろうと、確信した。
仮面を弄る手を止めて、十代が手を顔の横まで持ってくる。左手の薬指を強調する様に指を動かす。その時初めて気付いた。
左の薬指だけ、深爪をしている。
痛々しく肉の覗く爪の先端部分は癒える途中の傷そのもので、遊星がそれを認めた刹那、確かに十代は笑った。
にたり、と。
底冷えのする暗澹たる笑みだった。歪んだ口唇からどす黒い闇が零落して滴るような、背筋の凍る笑顔だった。
「なあ遊星、カンタレラって知ってるか?」
「…いえ」
「大昔イタリアのとある旧家が暗殺に用いたとかいう毒薬だよ」
不穏な単語にそぐわぬ柔和な微笑を浮かべて、かわいらしく小首を傾げて、中身の冷えたカップを片手に、悪魔の言葉が紡がれる。
「その紅茶、うまいだろ?」
そう言ってカップを傾ける。中身を飲み干し、新たな紅茶をとくとくと注ぐ。角砂糖がぼとぼと数個纏めて落とされる。ティースプーンで何度か掻き混ぜた後、口をつけた。甘い香りと湯気の立ち上る液体の味は、それに舌を浸した者しか知る事は許されない。
再びチョコレートに手を伸ばした十代が、その塊を口内に放り込む寸前に、遊星が口を開いた。
「奇遇ですね。俺もそのチョコレートに青酸カリを混入しておいたんですよ」
十代がぴたりと動きを止める。
活き活きと華やぐ家具達をよそに、悪魔と人間が息を潜めて奇妙な静寂に身を浸していた。数度瞬きする間の静かな儚い、停止。その逡巡する様な間だけ、剣呑も不穏も停戦協定を結んでいた。
ややあってふ、っと、十代が小さく吹き出した。
「お前、それバレンタインに皆に配るのか?」
「はい」
「恋人にも?」
「はい」
「そいつを殺すのか?」
「いえ、皆殺しにします」
そう言って遊星もカップの中身を啜った。注がれて随分と時間の経つストレートティーはすっかり愛想を尽かして冷たい。早く暖かな新しいものをポットから取り入れたかった。
「今日は逆の毒味をして頂こうと思って」
「へぇ、そいつは残念だったな。生憎と俺は人間の毒じゃ死なないんでね」
チョコレートを口に放り込んで、艶めかしく指を舐める。小箱を見遣れば既に空になっていた。一つも食べていないのにな、なんて遊星は胸中でひとりごちた。
幕切れだとばかりに指に付着したパウダーを舐め取る姿を見て思う。ああ、綺麗だと。あんなに安っぽいチョコレートが、今では彼の耽美な指によく似合っている。穢汚の色で純潔の爪を飾り立てている。
ああやっぱり、彼の爪を切っているのは彼で、だから彼の指にあの仮面はよく馴染むのだ。得心が胸に染み入る。
「道理で苦いと思ったんだ」
白い指先の黒い穢れを、赤い舌が蹂躙する。にがいにがいと笑いながら、目を眇めて十代は暗転する。その手を取って、同じように舌を這わせた。
指と舌とを絡め合わせながら、こんなに安い味付けでは高級嗜好の恋人の舌には合わないだろうと、改良案に思索を巡らせた。
毒薬は苦くて甘い悪魔の味がした。
カ ン タ レ ラ
肺腑に深く、吸い込んで。
息絶えるまで私の味を。
「アイツら起きるかもよ」
「起こさないで下さい」
「めんどくせーこと言うなー。んで、上と下どっちがいい?」
「攻めていいですか」
「いいけどさ、お前チョコレート残ってたらプレイとかするつもりだったろ。恋人様との予行演習に」
「………」
「これだから男ってイヤなんだ変な夢ばっか見て」
「貴方だってそうでしょう」
「俺はユベル混じってるから半分男なのー」
「……………」
「お前今何その美味しい設定とか考えたろ。もーやだこのむっつりスケベー」
某ウテナの
「カンタレラという毒薬をご存知ですか?(中略)そのクッキー私が焼いたんですよ」
「奇遇だね。その紅茶も毒入りなんだ」
っていうウテナとアンシーの会話パロ
あの場面の二人のやり取りが怖すぎてトキメク