ふわりと髪を撫でる手が心地良くて、暖かな太陽のにおいに誘われるまま瞼が閉じていく。絶対的な安心感に、手足が微睡みの淵へ差し入れられる。麗らかな午睡の刻。春眠は暁を覚えないのだから、と。誰にともなく思いついた言い訳は、カーテンを揺らす春風が連れ込む温もりに融解した。
「寝てもいいんだぞ、遊星」
変声期を終えたばかりのような、低いのに透き通った少年の声が微睡みを助長する。何もかも全てを預けきって身を委ねたくなる、そんな声だった。
そっと下りてきた手が瞼を覆って、今度こそ意識が抵抗の術を失って堕ちていった。
完全に眠りへ溶ける寸前鼓膜を撫でたのは、砂糖菓子のように甘く優しい声だった。
「お休み、遊星」
開け放たれたバルコニーに向かって椅子に腰掛ける十代。その膝に頭を預けて、縋るような体勢で眠りに就いた遊星を見遣って、背後に控えるパラドックスが嘆息する。よくもまあ、あんな不自由な体勢で寝られるものだと。
遊星の重みを受け止めながら髪を撫でる手を止めない十代。彼の遊星を見る目は妙に熱が籠もって、甘い。無邪気に自分を信じ切って全てを預けてくる彼の存在が愛おしくてならないのだろう。ゆるゆると髪に触れる手つきは慈愛が溢れている。
尤も、単純に父性愛のような感情のみなら彼がここまで猫っ可愛がりに接することもなかったろうが。
まばらな鳶色の髪の隙間から見え隠れする、首筋に散った赤い痣。情事の名残を香らせるそれらを見咎めて、パラドックスが渋面を作る。
「また遊んだのか」
「んー?」
十代自身も眠いのかぼんやりとした声が返される。二人して昨日はいたくお楽しみのようだな、と胸中で一人毒づいた。
「君は目を離すと直ぐにこれだ」
「何か不都合があるか?」
「何も」
ふっ、と嘲笑するように十代が目を細める。彼のこういった挙動は常に自虐めいていて、見る側に妙な緊張を与える。
その存在の危うさのようなものが既に十代の魅力として沈着している事実が疎ましい。
「遊星が悪い」
きらきらと明るく笑う悪魔。
彼が意図して遊星と名を執拗に繰り返して呼ぶ理由をパラドックスは知っていた。
「遊星は可愛いよな、ほんとうに」
熱い、重い、絡みつくようなねっとりとした声だった。愛しいばかりではない情のこもった、聞き惚れる程に麗耽な声音だった。
確かな憎悪を感じさせる、声だった。
「その男をどうするつもりだ?」
「別に。どうも。お前としてはぶっ殺して欲しいのか?」
「否定はせんが、今更言っても憎んでもせんのないことだ」
「そうだな。今のお前が何しようと願おうと、無意味だ」
遊星に語りかける時とは打って変わって淡々とした声だ。突き放すような冷たさしかない。けれど何故か、こちらの方が余程健全なものに聞こえた。
「俺が遊星に何をしたって無意味なんだよ。同じように」
「…わかっているさ」
きっと遊星が目覚めたら、平素のように他愛もない会話を交わして、何の他意もない笑顔を酌み交わして、そして帰る姿を見送るのだろう。焦げつく視線をその背に浴びせながら。
終ぞ彼が得る事の出来なかった、心を分かち合う事の出来る仲間の元へ帰る後ろ姿へ。
遊星はきっと、彼の理想だ。
その事に気付いたのは彼らの情事の最中で、十代が衝動的で真摯な殺意を遊星に向けた時だ。
遊星に配慮の届いた力で首を絞められ、けらけらと愉悦に浸りながら、十代は激情に魂を灼いていた。
――コロシテヤル――
彼の魂の内で荒々しく響いた呪詛の悲鳴が、今もまだ脳内で鮮明に木霊している。痛々しい程の明るさを持って。
高らかな哄笑を反響させて、それでも彼は悦んでいた。
彼の半身たる悪魔は口を閉ざして傍観したが、その瞳はより雄弁に悪魔の感情を語っていた。
パラドックスもただ黙して、彼の感情と自らの内に僅かばかり残る遊星に対する憎悪を受容した。
他の全てには見て見ぬふりを通した。
今もまた、愛憎入り交じる愛撫を施す十代を黙殺している。己の無力を逃げ道にして。
「眠いなぁ」
ふわぁと呑気な欠伸を一つ零して、彼もまた目を伏せる。日向で眠る猫のように気持ちよさそうに陽光を受けて、惰眠へと堕ちていく。が、すんでの所で思い出したように声を上げる。
「んあー、パラドックスーお休みのチュー」
「はいはい」
恣意的に遊星の目に手をやった十代へ、上から覗き込むように顔を近付ける。背もたれに首を預けて僅かに上向いた彼の額に、精一杯の憎しみを贈った。
彼の膝で、微かに身動ぐ気配がした。
愛情になり損ねた
殺意