「これ終わったらうまいもんでも食いに行こうぜ」

 白い息を波止場の夜に零して、彼は冷えた唇を舐め、顔を顰める。その冷たさに自分で辟易したようだ。

「何が良いのだ」

「美味くてあったけーもんならなんでも。後できれば安いのがいいな。路銀が尽きかけててさ」

「万丈目財閥のデーベースにハッキングすれば良いだろう」

「それがロック強化されてて口座にイタズラ出来ないようになってんだよな」

「君が節操なしに引き出してばかりいるからだ」

「友達なんだから宇宙警備職のバックアップくらいしてくれたっていいのになろる金銭的に」

「経費計上の為に逐一領収書でも切らせるか?ロクな記録が残らんぞ」

 他愛もない応酬が埠頭の夜気に溶けていく。寄せては返す波がコンクリートに当たって砕ける度生じる音が、眠気を誘う心地良いリズムとなって耳朶に揺れる。ぽつりぽつりと心許ない間隔で立つ街灯が、ジジジと不穏に明滅しながら爆ぜる。
 黒のロングコートですっぽり全身を覆い、赤いマフラーに赤くなった鼻先を埋めて、十代は暗がりに佇んでいた。街灯の灯りを避けるように。因みにマフラーはパラドクッスの手編みだったりする。秋頃実体化して半日で編み上げた。十代が寝ている間に彼の信者たる悪魔と元恩師の協力を得て、自身の魂の半分を注ぎ 込む無理を押して実体化したせいか、その後パラドックスは一週間寝込んだ。というか存在消失の危機に瀕した。

「あー寒ぃ。来るならとっとと来いよな」

「向こうも此方の世界へのゲートを開くのに手間取っているのだろう。彼方は十二次元中特に此の世界とは距離が離れているからな」

「ほんっとに今日来るんだろうな?」

「私の計算が信じられないと言うのか?」

「んなわけじゃねぇけどさ…ったくこんな寒い思いしてんのに来なかったらお前半年体半分で生活してもらうからな」

 さらりと末恐ろしい台詞を吐かれたが気に留める事もない。過去にもっと遙かにとてつもなくえげつない事を経験済みのパラドックスに取って今更な仕打ちだ。
 
 夜の海と空には境界線がない。何処までも暗色の中に平面的な世界として横たわっている。文字通り月が雲隠れした今宵の空では、特に。光源のない景色は世界の終わりにも似ている。本当の破滅はこんなにも穏やかではなかったが。
 ふ、と嘲笑したくなった。
 深夜の埠頭に少年が一人。まるで安っぽいB級映画の一場面のようだ。ひっそりと人智を越えた事件が起きるのを待っている。自らが主役となるために。
 余りに下らない三文芝居だ。立ち並ぶ倉庫も不穏に揺れる灯りも月のない夜も、何もかもが整いすぎている。この少年が銃刀を所持していないのが惜しい所だが、まあ人外という時点で既に要素は満たされているのか。
 遠い背後で高速を走り抜けていく車のエンジン音が、他人事のように素っ気なく過ぎ去る。眠りに就いた家々の明かりは消えて届かない。一線を踏み越えた向こう側の世界の諸々が余りに儚くて、今この場に並べられた非現実のリアリティが剥離する。
 どうして夜の海を眺めているだけで世界の終わりだなんて想起出来たのだろう。

「…滅べば良いとは思わないか」

「思うよ。何もかも。だいたいいつも思ってる」

「ああ、そうだろうな。そうであろうな。君は、」

 傍らの少年を見遣る。マフラーに顔半分を埋めた彼は熱帯の島で長袖の制服という理不尽な格好で過ごしたせいか、寒さには滅法弱いらしい。成長期の終盤で身長の止まった骨格は幾年を経ても華奢なままで、パラドックスが生前の等身大で現出すれば必然と見下ろす形になる。首が痛いから縮めと1/10スケールにされたり、足を膝まで切り落とされた思い出は非常に苦々しいものがある。
 そんな穏やかと呼べる日々さえ漂泊してく。

「食べに行かないか」

「飯?」

「ああ」

「今すぐ?」

「ああ」

「世界の危機ほっぽりだして?」

「ああ」

 十代がマフラーの向こうで小さく笑った、気配がした。

「無理だよ」

 駄々を捏ねる子供に言い含めて聞かせるような、大人ぶった口調だった。その声音が、かなしい。

「滅べば良いのだよ。こんな世界。何の価値もない」

「おいおいお前が救おうとしてた世界だろ」

「もう、」

 もう、飽いた。
 人間の穢汚と腐食と救いようのない下衆な側面を見るのも、そんな人間の為に身を粉にして、地面を這い蹲って、血反吐を吐きながら闘うのも。闘う彼の横顔ばかり眺めるのも。
 人間は救いようがなかった。思った以上に、何もかも全てに於いて。

「私は私の救いたい者が救われればそれで良い」

 吹け、滅びの風。
 畢竟する海に。この地に。我等を爆心地に。
 滅べ。何もかも。

「救われないさ。誰も。お前の救いたいヤツも、滅べと願った相手も、誰も。救いなんてそもそも存在しない」

 十代が、透明な瞳で感情のない声を吐く。あかぎれした手をさすって、息を吐きかける。
 確かに真っ直ぐな瞳をしているのに、何処も見ていない彼の視線が何もかもを通り越した虚空に注がれている。

(諦める事さえ諦めた君の絶望をどうしようか)

「なぁんか海って見てると釣りしたくなるな」

「そうか。私は叫びたくなるぞ」

「いいんじゃね。どうせお前の声普通の人間には聞こえないんだし」

「実は冗談だ」

「そうか。あー釣りしたい釣り竿ほしー」

「十代」

 異空から響く悪魔の声が静寂を裂いた。十代の背後に唐突に現れた気配がパラドックスに並ぶ。

「来るよ。構えろ」

「よーやくかよ。待ちくたびれて釣り始めるとこだったぞ」

「君が魚を釣れた姿なんて見た事無いけど」

 鳶色の瞳がオッドアイに輝いて、彼がまた人間を辞める。
 空間がぐにゃぐにゃと歪曲して奇怪に伸縮して、そして、ああ。見知った旧友のように世界の危機が来訪する。





「よし、これ終わったらラーメン食いに行こう」

「だってさ。まあ頑張りなよ」

「待て、何故私をそんな目で見る」

「いいだろ奢るから」

「……」

「一人で食ったって美味くねーだろ?」

「…私も大概に毒されてきたものだ」

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