短編

春の青に夢をみる


 大浴場の角を曲がった先、人気のないベンチで膝を抱え込んだ私は、ひっそりとした静寂に大きく息を吐いた。

 心臓が、バクバクしている。緊張とも不安ともちょっと違う。上手く言語化出来ないような感情に一人向き合いながら、今日の試合を思い出す。最後――試合終了のホイッスルが鳴るあの瞬間は、麻薬のような快感だ。選手ではない私が味わうには贅沢過ぎるほどの興奮を、明日もまた、出来ればその次もまだ味わいたい。

 明日に控えるのは念願の烏野戦。ずっとずっと、何代も前の先輩方みんなが望んだ、ゴミ捨て場の決戦ってやつ。
 入部してすぐにその話を聞いたときは正直『そんな時代もあったんだなぁ』くらいにしか思っていなかったはずなのに、不思議なもので今年は誰もがそれを叶えるつもりでいたし、実際に明日、ようやく、それが叶うのだ。

「なーにしてんの」
「わっ!? びっ、くりした……」
「さっきからメールしてんのに全然返って来ねえし」
「え、うそ。ごめん、マナーモードにしてるから全然気付かなかった」
「だろうな。研磨がこっち来るの見たって言うから来てみればそんな薄着でまぁ……」
「そんなに寒くないよ。お風呂入ったばっかだし」

 だから大丈夫。そういうつもりで言ったのに、黒尾は私の言葉に眉を顰めて「馬鹿、湯冷めすんでしょうが」とチクリ。
 わざわざ自分のジャージを脱いで寄越そうとしてくるから慌てて止めたけど、半ば強制的に肩にかけられてしまえばそれを返すのも違う気がして私は素直にお礼を言うしかなかった。
 腕を通すと当たり前だけど自分のものより断然大きくて、なんか黒尾に抱き締められてるみたいでちょっと照れる。
 だけど黒尾はそんな私に満足げに頷いて、ようやく私の隣に腰を下ろした。

「もうすぐ消灯だけど、寝れねえの?」
「うん」
「いよいよ俺たちここまできたんだな……的なやつする?」
「なにそれ。しないよ」
 
 笑いながら頭を黒尾の方に預けると、黒尾も少しだけ私の方に体重をかけてくる。
 ねぇ重い。嘘。嘘ついてどうすんの、ほんとに重い。重くねえって。黒尾は真っ直ぐ座ってて。苗字だけずるくね。ずるくない、ほら。……なんてやりとりをしながらも差し出された黒尾の手のひらに私の手を重ねて、恋人繋ぎ。

 みんながいるときにこんなことは絶対しないけど、今は練習中じゃないし誰も見ていないから許して欲しい。
 だけど横目で黒尾を盗み見ればバッチリ目が合ってしまったのがなんだか急に気恥ずかしくなって、空いてる手でバシバシと黒尾の太腿を叩く私に黒尾は相変わらずくつくつと肩を震わせていた。

「いよいよだねえ」
「や、すんのかい」
「え? 何が?」
「いや……」
「あ、高一からの振り返りとかやる?」
「やりません」
「黒尾と夜久の出会いの話、何回聞いても笑えるから大好きなんだけど」
「やらねえって」
「えぇー? 私の第一印象とか、好きなだけ語ってくれて良いんだけど?」
「それは苗字が聞きたいだけでしょうが」

 こうして黒尾と話していてもどこか落ち着かない私は、それを誤魔化すために繋いだ手をぎゅ、ぎゅ、と握り締める。同じように返してくれるのが地味に嬉しい。

 男子部屋はみんなでワイワイしていて楽しそうだけど、女子は私一人部屋だから寂しいんだよ。布団に入れば今までのこととか、明日のこととか、ぐるぐると考えて眠れなくなるに決まっている。
 だからってみんなのところに行くわけにはいかないから、せめて今だけは。なんだかんだ頼りになるみんなの主将の黒尾じゃなくて、私の彼氏である黒尾に甘えさせて欲しかった。

「でも試合前にこんなことしてたらダメだよね」
「ん? まぁ……ちょっとくらいいいんでない?」
「そう? 主将が言うならいっか」
「変わり身が早過ぎる」
「従順なるマネージャーですので」
「その言い方はちょっとどうなの」
「じゃあ可愛い彼女なので?」
「そうそう」
「そうそうじゃないよ、ツッこんでよ恥ずかしい」
「可愛い彼女は事実ですから」

 黒尾がフッと優しく息を吐いた。……甘いなぁ。
 もたれかかったまま見上げる私の唇が小さい子みたいに突き出しているのは、油断したらにやけちゃいそうだから。
 うちの主将はかっこいい。私の彼氏はかっこいい。
 申し訳ないけど明日もうちが勝つよ、ごめんねサームラさん。

「かわい」

 少し身を引き向かい合うようにして、変な顔の私を可愛いなんて評した黒尾は、そのまま私に影を落とす。
 肩に置かれた手が熱い。掬うようにして奪われた唇は、もっと熱い。

 キスする瞬間閉じた瞼を開けるとお風呂上がりですっかり前髪が降りた黒尾に今更ながらドキドキして、もう一度だけ、と心の中で言い訳しながら今度は私から黒尾のシャツを引っ張っておねだりしてしまう。

 わざとリップ音を立てて離れていった唇をまた追いそうになるのをぐっと抑えて、誰にも内緒の口付けに酔いしれ過ぎないように、名残惜しさを吹き飛ばすように。
 突然立ち上がった私に、黒尾はきょとんと見上げていてそれがちょっとだけ可愛いと思ってしまった。

「そろそろ寝ますか! もう消灯の時間だし、黒尾がいないってなったら絶対誰か探しにきちゃうよ」
「おー」
「いっぱい寝て、明日勝って嬉し泣きし過ぎて立てなくなった黒尾は私がおぶってあげるね!」
「ん゛んッ……お願いするわ」
「任せて」
「可愛い彼女だこと〜」
「違う、従順なるマネージャーだから!」

 黒尾も立ち上がって、馬鹿なやりとりに気持ちはすっかり落ち着いていた。これならちゃんと眠れそう。

 選手と一緒に戦うことは出来ないけど、この三年間マネージャーとして一番近くで見てきた私はきっと誰よりもこのチームが好きだから。明日の試合はいわばご褒美タイム。
 緊張とも不安ともちょっと違う、これは楽しみ、なんだと思う。

「まぁ苗字のが嬉し泣きで立てなくなりそうだけどな」
「や、私は黒尾おぶんなきゃだから」
「なにその無駄な使命感」

 だから出来ればもう少し、少しでも長く、こんなやりとりがまだ続いて欲しいと願うのだ。


2024.02.15
title by 炭酸水



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