短編

窓際ラブレターをどうか


『突然でびっくりすると思うけど、好き』

 換気のために開けられた窓から金木犀の香りがしていたのは、もう随分と前な気がする。
 冬を目前にした十一月下旬。受験だなんだとカリカリしているのは実際学年の半分もいないくらいで、あとは推薦やAO入試で早々と大学生の切符を掴んでいたり、少数ではあるが就職を希望していたり、かくいう私も既に春には専門学校へ入学することが決まっている。
 勉強は程々に頑張って、本当に大切なのは卒業まで残り数ヶ月をどう過ごすか。

 何回も、何日も迷って打ち込んだ一文は、呆気なく『送信完了』の文字に消えた。

 一つ前の席、私からまるまる黒板を隠してしまうくらい長身の男は、さっきから真面目にシャーペンをノートに走らせている。対して、少し前までお昼休みの騒めきの中にあった午後の教室は微睡んでいた。数人がわかりやすく船を漕いでいるけど、午後イチの現代文なんてどこのクラスでやってもこうなるだろう。
 前の席の長身の男――黒尾が、僅かに身じろぎをひとつ。それから教壇の上、一定のトーンで教科書を読み上げる教師を窺いながら、こちらを振り向いた。

「なんか送った?」
「え」
「授業中にメールしてくんの、苗字しかいないだろ」
「なんでわかったの」
「バイブ設定にしてる。ポケットん中入れてるからわかんの」
「メルマガとかかもしれないでしょ」
「じゃあ送ってねえの?」
「送った」
「送ったんかい」

 噛み殺すように笑いながら、「真面目に授業受けなさい」と言ったそれに、本気で叱りつけるような音はなかった。
 また前に向き直ってノートを取る黒尾は、私とは違って黒板に書かれたことだけでなくちゃんと先生の話もメモしておくタイプだ。だからいつもテストの点数が良い。それは前に、黒尾本人が自慢げに教えてくれた。

 ドッ、ドッ、ドッ……――
 黒尾の視線から外れて数秒。秋と冬の間の、午後の、授業中の、教室の、一角。どちらかというと静寂に包まれた空間ではクラス中のみんなに聞こえてしまうんじゃないかってくらい、平静を装う今の私の心臓は激しく高鳴っていた。

 黒尾は真面目だから、授業中にケータイを見るなんてことはしない。それは予想通り。多分そんなことがバレたら黒尾が所属しているバレー部にも迷惑がかかるのかもしれない。
 練習が厳しい運動部には、帰宅部の私にはわからないルールや処罰があったりするし。
 黒尾は三年のこの時期には珍しくまだ部活を引退していない、バリバリ現役で、しかも主将なんて任されている身だから余計にそういうのは気にしないといけないのだろう。大事な試合を控えているって言っていた気もする。
 あと内申とかもあるか。黒尾受験終わってないしな。

 ……まぁ、そもそも授業中にケータイを触っちゃいけないのは当たり前なんだけど。

 そんな当たり前のルールを破って見慣れた明朝体に想いを託した私は、黒尾がそのラブレターを見るまでの残り数十分の安寧を必死にかき集めていた。
 やっぱやめとけばよかった? ううん、決めたじゃん。もう遅いし。送っちゃったし。

 誰に見られているわけでもないのに、心がそわそわ落ち着かない。教室は肌寒いくらいだったのに、変な汗をかいている。

 チャイムが鳴ったら、授業が終わったら。きっと黒尾はケータイを確認する。そしたらメールの送り主がやっぱり私であることも、その内容も、全部暴かれてしまう。
 
「……」
「……」 
「……」
「……ん?」
「うん?」
「なんか言った?」
「言ってないよ、言ってない」
「そ?」
「うん。ほら、ちゃんと前向きな」

 シッシとわざとらしく手で払うそぶりを見せた私に、黒尾はまたさっきと同じように噛み殺すように笑った。なにが可笑しいんだ。

 黒尾は真面目なくせに、授業中にケータイは触らないくせに、よくこちらを振り向く。それで、教師にバレない範囲で少し喋ってまた前を向く。
 私はこれがいつも一々嬉しいのだけど、もしかしたらそれも今のが最後だったかもしれないと言ってから気付いた。
 確か年内の席替えはもうない。……気まずくなるなぁ、嫌だなぁ、なんて返事を貰う前から完全に弱気な私は、とっくに諦めた板書を放り出して黒尾の広い背中を眺める。

 黒尾はなんて言うだろう。まず最初にどんな反応をするだろう。見たらすぐにこっち向くかな。それとも放課後まで知らん振りされるかな。そのままスルーして部活に行く……とかは流石にないよね?
 ずっと友達としてやってきたのに今更? って笑うかもしれない。もし露骨に困った顔されたら泣いちゃう。ていうか振られたらもう、今までみたいには話せないかも。でも黒尾は今までと同じように振る舞ってくれるような気がする。私が勝手に気まずくなって、黒尾もそんな私に気遣って、フェードアウトしていく未来が見える。

 もうくだらないメールのやりとりは出来ないし、全然勉強してないって嘘ついて小テスト前に問題を出してもらうことも、お礼にどうぞってお菓子を分け合うことも、授業中の秘密のやりとりも、きっと全部なくなってしまう。

 はぁ。小さくため息を吐いた私は、ゆっくりと目を閉じた。想像する未来はやたら具体的だ。そして、考え事をすると段々重くなってくる瞼は流石魔の五限目。
 昼食にお腹を満たされた身体は、告白の返事待ちという人生大勝負のときでも関係なく睡眠欲を満たそうとしてくるらしい。






 ガクンッと前のめりになって、目が覚めたのはカーディガンの中に入れてあったケータイが震えたからだった。

 やば、寝ちゃってた。

 内心慌てて周りを見渡すが、眠る前とは変わらない教室の景色が広がっている。どうやら眠っていたのは数分だけだったようで、相変わらず今の私みたいに居眠りしている人がいるし、先生は一定の声のトーンで教科書を読み上げているし、黒尾みたいに真面目に板書してる人もいればつまらなそうにペン回ししたり窓の外を眺めていたりする人もいる。
 私はホッと安堵の息を吐く。それから数回目を瞬かせ、先生にバレないように机の中でさっき震えたケータイを開いた。

 ……えっ!?

 そこで思わず出た声が大声じゃなかったことは、本当に、本ッ当に褒めて欲しい。

 だって。え、……え?

 ケータイの画面には、メール受信:黒尾鉄朗の文字。授業終了の鐘が鳴るまで、あと五分。
 目の前の長身の男はもうこちらを振り向かないけど、震える肩から私の今の精一杯抑えた驚きの声が聞こえたんだって伝わってくる。

 ちょっと。笑ってないで、これ、どういうことなの。聞きたいけど聞けない。黒尾は逃げないのに、正体不明の焦燥感にかられる。

『これ直接聞きたいんだけど?』

今までの人生で、一番長い五分間が幕を開けた。



2023.11.29.
Thank you 4th anniversary !(大遅刻)



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