短編

magic


「ああ゛!?」

 朝の洗面所に響いたのは、華のJKとは言い難い悲痛な叫びだった。だけど今そんなものは気にしていられない。やばい。やばいやばいやばい。やばい!
 今すぐ布団にUターンしたい。出来れば一ヶ月くらいはそのまま部屋に引きこもりたい。学校にも行きたくない。だってこんなのーーーー

「おは……え?」
「……おはよう」
「……どうした、それ」
「……なにが?」
「なんかすげえ……うん、あれだけど」
「……正直に言ってよ」
「なんかちょっと幼くなりましたね」
「……」
「いだっ! ちょ、無言で叩くのやめて!? 痛っ!」

 思い切り黒尾の背中を叩くとバシン! と良い音が教室に響いて、だけどそれをすると皆がこちらを向くから私は慌ててそれをやめた。今日は、……というか暫くは誰からも見られたくない! 特に前髪!
 目にかかるのが鬱陶しくて、でもこのためだけに美容院に行くのは億劫で。これくらいだったら自分で切ればいいか、と思ったのが全ての間違いだった。
 うちのハサミは思ったより切れ味が良くて、……目にかかるほどあった髪は今や眉より上にある。

 こんなの誰にも、特に隣の席の黒尾には絶対に見られたくなかった。理由はシンプル、クラスの男子じゃ一番親しい仲の黒尾は絶対こういうのを揶揄ってくると知っているから。

「なに、まじ……どうしたそれ」
「朝自分で切ってたらミスった……」
「それはまぁ……ご愁傷様です」
「……笑いを堪えきれてないんですけど、黒尾さん」
「ぶ、はっ……! だってそれ……それ……っ」
「ちょっと笑い過ぎ!」
「だっ、……ぶはははっ!」
「ちょ、……っとぉ、……っ」

 手でおでこを覆ってこの醜態を見えないようにしているのに、それにも関わらず黒尾は私を見て大きく噴き出す。かと思えば教室中に響き渡るように笑い出して、それはもう、笑いすぎて酸素が不足するくらいには。ひぃひぃ肩で息しながら。
 そんなだから、私だって嫌だったはずなのにいつの間にかつられるようにしてそれが伝染して、……ふはっと息を溢してしまえば最後。
 二人分の笑い声が響く教室で、逆に私たちを気にするクラスメイトは誰もいなかった。

「はぁー……腹いてえ」
「笑いすぎなんだよ、ばか!」
「いやいや、苗字も一緒に笑ってただろうが」

 漸く少し落ち着いて……うん、複雑だけどなんかこれだけ笑ってもらえれば逆にどうでも良くなってきたかも。嫌だけど、なるべく人に見られたくないのは変わらないけど。

 改めて席に着いて、スクールバッグの中から手鏡を取り出す。うーん……まぁ、酷いのは酷い。でも仕方ないし、だってどうしようもないし。
 するとふと影が差して、見上げると同じように黒尾も鏡の中を覗き込んでくる。鏡の方に目を写すとバチッと目が合って。

「……なに」
「苗字、なんか持ってねえの。あー……髪止めるやつとか、」
「えー……持ってるけど」
「それ、ちょっと借りてい?」
「え? いいけど……どうすんの?」
「ちょっとそのまま前向いてて」

 ヘアピンとかワックスとか持ち歩き用のヘアアイロンとか。そういうのが入ったポーチを手渡すと、その中を漁って黒尾が取り出したのはゴールドのヘアピン。
 それから最近買ったばかりのワックスが机の上に並べられて、普段私が使うそれらを黒尾が持っているとやけに小さく見えるなあって思ったところまでは良かったのだけれど。

「え」

 ピンク色のワックスの蓋を開けた黒尾の手が、クリーム状のそれを一掬い。それから私の前髪をとるから、その瞬間動揺した私の頭が少し揺れた。
 え、え。なに……なに!? 突っ込むこともできないまま、だって鏡越しに見える黒尾の表情はさっき爆笑していた時とは違い真剣そのものだ。
 まるで大切な宝物みたいに触れる指がたまにおでこに当たって、擽ったい。ただのクラスメイトの男子の体温をそんなところで感じるなんて想像したことのなかった私は、その熱さにドキドキと心臓が暴れ出す。

「……こんな感じでいいんでない?」
「へ……」
「ど? 割と上手く出来てると思うんだけど」
「えっ……す、凄い……けど」

 鏡の中の私は、切りすぎた前髪を黒尾の手によっていい感じにアレンジしてもらった姿で。なんか普通に雑誌に載ってるアレンジみたい。これなら全然、変じゃない。
 だけど今は正直、全然それどころじゃないんですけど? おでこに感じた温度とか、至近距離で感じた視線とか、その相手が黒尾なんだって意識し出した私はもう真っ直ぐ黒尾を見ることなんて出来やしない。

「こ、こんなの出来るんだね……」
「まぁ、初めてやったけど。なんとなく他の女子がやってんのとかは見たことある」
「へぇ……むっつりだ」
「……そういうこと言うならさっきのちんちくりんヘアーに戻してやろうか?」
「う、うそうそ! ありがとう、これがいいですっ!」
「なら良い」

 そうやって満足げに笑った黒尾は、きっと気付いていない。私が今最高にドキドキして、……なんかもう黒尾がいつもよりちょっとキラキラしてるのとか。この数秒のことを少しでも忘れたくないと思っているのとか。……黒尾のことちょっと良いかもって、思っちゃってることとか。
 黒尾はきっと、気付いていない。私はゆっくりと自分の前髪に手を添えて……それから熱くなった頬を隠すように、指を滑らせた。


2022.07.17 twitter掲載.



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