いっそこのまま昇天させて
明日から夏休みが始まることもあり、感じる気温もそれなりのものだった。梅雨が明けて少しはマシになったものの、日本の夏特有の湿度が更に不快感を増加させているのは滴り落ちる汗からも明らかだ。
このままでは今日の為に身に着けてきた防御力も全て落ちてしまう。早く、あと少しの勇気を出すだけ。だけどいつまで経ってもその少しの勇気が出ない。
目の前の他より少し重い扉は既に開いているのだから、顔を覗かせるだけで良いのだ。そこからあの人を見つけ出して声をかける……ことは今の私には難しいだろうから、出来ればクラスの芝山くんあたりが近くにいてくれたら嬉しい。
そしたら勇気を出してあの人の名前を告げて、呼んできてもらうまでの間に深呼吸を一つすれば――――
頭の中でのシュミレーションはとっくに完璧なのに実際の私はもう何十分もこの扉を睨み付けるだけだった。そわそわ、どきどき。胸を打ち続ける心臓は今もう既に大変なことになっているというのに、あと一歩踏み出したら一体どうなってしまうんだろう。
今日を逃したらきっと私は、夏休み中ずっと後悔する。でも、……でも。相変わらず踏み切れない私が見飽きた爪先から目線を上げたのとそれは、ほぼ同時だった 。
「え」
「え」
人一人分が通れそうなくらいの隙間からにょきっと頭だけを出した男の子と、ばっちり目が合った。ぎょろりと吸い込まれそうな瞳。いきなりの登場に肩を跳ねさせ驚いた私だけど、それは人がいるだなんて思いもしなかったであろうその男の子も同じようで。
それでもすぐに驚きの表情を笑みに変えて小首を傾げた仕草は、あまりにもその身長とマッチしていなくて少し面白い。
「あっ! もしかして誰か用事?」
「え、あ、う……」
「俺呼んであげるよ! 誰?」
「く、」
「ん?」
「黒尾先輩、って、いますか……」
「黒尾さん? ちょっと待ってて!」
ああ、嘘、どうしよう。心の準備をする間もなくその名前を出してしまったことへの後悔と……漸く事を進展させることが出来たことへの安堵。額に滲んだ汗を持っていたハンカチで押さえて、だけど激しく脈打つ胸の鼓動は抑えられない。
どうしよう。馬鹿みたいに頭の中はそれしかなかった。
ええと、まず、……あれ? あ、ちょっと待って無理かも。
「呼んできたよ!」
「えっ、!」
「えーっと……俺に用事?」
さっきの男の子(思い出した、隣のクラスの灰羽くんだ)が再び扉の隙間から顔を出して、後ろからその隙間を更に大きく開けながら現れたのは先程私が名前を口にした、……お目当ての人物。
黒尾鉄朗先輩。二個上の、男バレの主将の。
「あ……」
「どうした?」
「あ、……」
「?」
「……こ、……んにちは」
「……こんにちは?」
「えっと、……あの」
「うん」
「……ちょ、……っと待ってください!」
「……ふっ。……どうぞどうぞ」
どうしよう! あんなに何度もシュミレーションしたのに、灰羽くんが中に戻って行って黒尾先輩と二人きりになった瞬間緊張で頭は真っ白。考えていたこと、言おうとしていたこと、何もかもが飛んでいってしまった。
今日の私のミッションはただ一つ。黒尾先輩と連絡先を交換するだけ。絶対に緊張でわーってなることは分かっていたから、そういうときのためにちゃんと自分の連絡先を書いた手紙も持ってきたのに。だから最悪これを渡して去るだけでいいのに!
いざ黒尾先輩を目の前にすると私は何も言葉に出来ずただ息を吐くだけで、暑さやら恥ずかしさやらできっと真っ赤に染まった頬にはくはく開閉を繰り返す口……その姿は金魚みたいだろう。
私ってばそんな状態のくせに、ジッと私を見下ろしている黒尾先輩からは視線を逸らすことをせずにまたしばらく無言で見つめ合う時間が流れた。
逸らさないっていうか、逸らせない。
蝉の大合唱が私を後押しする。なのにあと一歩が踏み出せない。
部活の途中で呼び出されて、その相手である私がこんな状態で、きっと意味不明だと思う。なのに黒尾先輩はなにも聞かずに忠実に「待ってください」を守ってくれていて、私はそれだけで胸がきゅんと締め付けられる。
その上その顔があまりにも楽しそうだから、黒尾先輩のこんな表情を見られる機会ってもうなくない? というか黒尾先輩の瞳に私が映ってること自体がもう夢みたいじゃない? どうにかそんな先輩を自分の目にも焼き付けなきゃ、と私はある意味必死だった。
「……」
「……」
「ぶっは…………!」
「!?」
見つめ続けること、数分。耐えられなくなったのは私……ではなく黒尾先輩の方。
もしかして今まで睨めっこでもしてるつもりでした? ってくらいに突然笑い出した黒尾先輩は、何がそんなに可笑しかったのかひーひー苦しそうに息を吐き出す。
勿論私にどうする術もなく、そうやって肩を震わす黒尾先輩を相変わらず見守ることしか出来なくて。
やがて自分で落ち着きを取り戻した先輩は、さっきの名残りである目尻の涙を拭いながら私を見下ろしこう言った。
「君、意外に鉄のハート持ってんね?」
って。……どういうこと?
「ま、いいや。それで、そろそろ『待て』は解禁?」
「へ?」
「さっきより余裕あるみたいだし。もし良ければそろそろ用件が聞きてえんだけど?」
「あっ、……ご、ごめんなさいっ」
「ぶっ、くくく……うん、いいよ」
いいよ、って。いいよって! そう言って笑った黒尾先輩の表情が私にクリティカルヒット。こんなのわーってなっちゃうよ、きゃーってなっちゃうよ!
なんかよく分からないけどどばっと汗が噴き出して、あれ、これ……やばくない?
どく、どく、どく、どく。落ち着いたはずだったのにさっきより速くなってしまったドキドキが私を急かし、なのに伝えたい言葉は出てこない。
どうしよう。暑いからかくらくらしだした頭はなんの案も出してくれない。そりゃあそうだ。だって連絡先を聞く、……そんなシンプルなことになんの裏技もあるはずがないもの。
どうしよう。たった一言言うだけなのに。そうやっていつの間にかまた俯いてしまっていた視線は足元をうろうろ彷徨い、……もう一度黒尾先輩に。
先輩は一瞬体育館の中の方を見て、それから私を見て、苦笑い……して?
「あー……ごめん、そろそろ休憩終わるみたい」
「えっ」
それはそれは申し訳なさそうに告げられた言葉に……私は大きく落胆した。
何に? 自分に。だってそうでしょ、今までで一番勇気を出してここまで来たのに、結局何も出来ずに終わるなんて。最悪。馬鹿。こんなの恥ずかしすぎてもう二度と黒尾先輩の前に出られないじゃん。
始まることもなく迎えた終わりは私の意気地のなさのせい、そのくせ身勝手にも鼻の奥がツンとして目頭が熱くなる。泣いちゃだめ。謝って、このまま帰るの。泣くのはその後だ。
黒尾先輩の練習時間を犠牲にするなんて絶対にしたくないから、ここまで来てもやはり今すぐには勇気を出せない私は諦めて帰るしかない。そう、思ったのに。
「だからさ」
上靴の底を砂利が擦って――響いたその音がやけに大きく聞こえた。
「連絡先……聞いてもいい?」
「……え?」
「終わったら連絡しますし。そしたらゆっくり聞けるから」
私は目を見開いて驚いた。今……なんて? 見上げた黒尾先輩はがしがしと首裏を掻いて、それから私の自惚れじゃなければちょっとだけ照れた風に笑って。……えええ?
思考が追いつかなくて何度も先輩の言葉を頭の中で反芻するけど、それで理解した言葉はやっぱり信じ難いもの。そのくせ微かに生まれたこの先への期待が、どんどんと私の中で広がっていく。
「あー、スマホ持ってくるわ」
「えっ」
「すぐ戻ってくるからちょっと待ってて、」
「あ、あのっ!」
「ん?」
「これっ……」
反射的に差し出したのは、さっきまでどれだけ頑張っても渡せなかった手紙。中にはメッセージアプリのIDと自分の名前が書かれてあって、それは昨日の夜、たったこれだけに全ての想いを込めるつもりで書いたもの。
震える私の手から黒尾先輩の手に渡って……黒尾先輩は少しだけ眉を上げた。どくん、どくん。こんなの、身体中の血液が沸騰したみたいに全身が茹で上がってしまいそう。
どうしよう。渡しちゃった。どうしよう。だけど私は、そこから残りの全ての勇気を振り絞って黒尾先輩を見上げる。
「……苗字、名前さん?」
先輩が、私の名前を読み上げた。それは全身にビリビリと電流が走ったみたいな衝撃だった。もう熱いのなんてちっとも気にならない、それほどの高揚感。
ミンミンミン、と蝉の大合唱は私たちを包み込むみたいに相変わらず響き渡っている。
けれどこの瞬間、私の耳には私と黒尾先輩しかいないんじゃないかってくらいに先輩の声だけがはっきりと届いた。
「じゃー終わったら連絡すんね」
「は、い」
「夜になるかもだけど。絶対送るから返事ちょーだいよ」
「も、勿論です!」
「気をつけて帰ってクダサイ」
「はい!」
大きく頷いた私に、黒尾先輩は満足気に笑って中に入っていく。そして鈍い音と共に体育館の扉が閉まるのを見届けてから……私は大きく息を吐き出した。
「……夢?」
だって私今、憧れの黒尾先輩とお話して、手紙も渡せて、名前も呼ばれて、それで夜連絡するねって。ただ連絡先を聞けたら良かっただけ。それ以上は考えていなかったのに。
今までで一番近くで感じた黒尾先輩の声が、まだ耳から離れない。ちゃんと息遣いまで感じた表情がしっかりと目に焼き付いている。
緊張が解けて、崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ私はこの数分を噛み締めた。
「あああもう死んでもいい……!」
「こらこら死んだら困るんですけどー」
「!?」
「ぶっ、ひゃっひゃっひゃ! ほら、暑いから。苗字さん良かったらこれどうぞ」
「えっ」
「あ、まだ開けてねえから安心して」
「え、い、いいんですか!?」
「勿論。熱中症、気をつけてネ。じゃ、今度こそ行くわ」
「ぶ、……部活頑張ってください!」
「ドウモ〜」
中に入ったと思った黒尾先輩がまた後ろに立っていて、驚いた私は反射的に立ち上がる。
それから手渡されたスポーツドリンクと先輩を見比べる私に先輩はにやにや笑っていて、その意図は読めなくて。ていうか今の見られた!? って羞恥心にくらくらする。
汗でおでこに汗が張り付いて、そこからぽたりと汗が落ちた。なのに手元のペットボトルはひんやり冷たい。今度こそ戻って行った黒尾先輩の背中の大きさにきゅんきゅんする。
どうしよう――――好きすぎる!
明日から夏休み。ばっくんばっくんと笑っちゃうくらいに暴れ続ける心臓に悶えながら、私は期待に大きく胸を膨らませていた。
2022.07.13.
title by 星食