短編

紳士の帰りはさぞ遅い


※会社員設定

 よし、終わり。定時きっかり、パソコンをシャットダウンして広げていた書類を片付ける。すると丁度後ろから影が差して、振り向くと「おつかれ」ってにやり顔の黒尾さん。ドキドキと騒ぎ出す正直な心臓は、きっと期待から。

「終わった?」
「はい、無事終了です!」
「良かった良かった、じゃあ行きますか」
「はい!」

 花金、とはよく言ったものだ。金曜日に定時で上がって気になっている職場の先輩と並んで会社を出る、側から見たらこれはもう立派なデートに見えるだろう。
 だけど残念ながら私と黒尾さんはそういう関係ではないし今日もそういう予定ではない。

 それでも私はちょっとだけ浮かれた気持ちを隠しきれなくて、今日のために昨日の残業終わりに気になっていたデパコスを買いに行ってしまったくらいだ。

「名簿は今日の昼休み送ったやつ、打ち出してくれた?」
「はい! 確認の電話も昨日しましたし、席順もバッチリです!」
「まぁそこは雰囲気で臨機応変に……つか苗字さん、気合い十分ね?」
「エッ」
「新人歓迎会の幹事こんなにノリノリでやってる人初めて見たわ」
「そ、そうですか!?」

 正確に言うと『黒尾さんと一緒にする』新人歓迎会の幹事、ですけど。

 うちの会社は毎年四月に新入社員の歓迎会をするんだけど、その幹事は前年の新卒一人、あとは有志一人と決まっている。
 あまり目立つことは好きじゃないしみんなを纏めるようなキャラでもない私は、昨年の新卒代表で幹事になってしまったときそりゃあもう絶望したけど、もう一人一緒に組むのが黒尾さんだと分かった途端世界中に私を幹事にしてくれてありがとうと感謝したいくらいだった。

 初めて打ち合わせと称して黒尾さんと二人でお話ししたとき、勇気を出してどうして幹事に立候補したか聞いたことがある。
 だって私だったら絶対こんなのやらない、ただでさえ新年度で忙しい時期だし……
 私の質問に先輩は少しだけ考える素振りをして、それから。

「んー、ペアが苗字さんだったから?」
「えっ」
「苗字さん、なんかほっとけねえし。こういうの苦手だろ」
「あ、そ、そうです、はい……!」
「これは元教育係として、フォローしてあげないとと思いまして。ほら俺こういうのほっとけない優しい先輩じゃん?」
「それはもう! 黒尾さんめちゃくちゃ優しいです!」
「……今のはツッコミ待ちだったんですけど」
「え、あ、すいません?」
「ぶはっ、……いやまぁ、全然。俺だったら苗字さんあんま気負わなくていいかなって? だからよろしくね」
「よろしくお願いしますっ」

 このときの会話、一言一句全部録音して保存しておきたかったくらい。だって、だってだって! 絶対嘘だとしても、黒尾さんが私のためにって言ったんだよっ!? どんなに徳を積んでもこんなに嬉しいことってもうないかもしれない。

 黒尾さんとどうこうなれるなんて思っていない。本当に憧れで近くで見れるだけで幸せ、そんな先輩と私の束の間の夢みたいな時間。
 二人でお店を調べて、予約して、参加者をまとめて……幹事って言ったところでそんなに仕事があるわけじゃないけど、黒尾さんと話すきっかけがあるならなんでも良かった。

 でもそれも、今日で終わりだから。元々今の部署じゃそんなに関わらないし、この後の歓迎会が終わってしまえば黒尾さんと話すこともまた減ってしまうだろう。
 だから今日は幹事だけど私も楽しむ! って。意気込んでたはずなのに。





「苗字さん大丈夫? ほらこれ水、飲める?」
「うー……ん?」
「目離した瞬間にこれかよ」

 うう、ごめんなさい。呆れたような黒尾さんの声に上手く返事も出来なくて、頭の中で謝る。どくんどくんと脈打つ音がはっきり聞こえるのは、黒尾さんにってだけじゃなくてきっと絶対アルコールのせい。
 顔を上げると気持ち悪くて机に突っ伏すと聞こえる、黒尾さんと……多分黒尾さんの同期の人との会話。

「苗字さん酒弱いの?」
「や、多分普通に飲み過ぎ。あっちの新人ちゃんの分全部被ってたからな」
「うわぁ……あの部長女子でも関係なく飲ますもんな」
「お前ちょっとあっち行ってあげてよ、俺ここ離れらんないからさ」
「おま、人遣い荒いな」
「いーじゃん、タダ酒だって喜んでただろ」
「はいはい……貸し1な」

 そう言って同期の人が離れていったのが分かって、同時に背中に感じた温もり。背中をさすってくれてるのが黒尾さんだっていうのは分かるのに、あぁ最悪、こんなシチュエーションじゃなかったら最高に嬉しかったのに。
 迷惑をかけて申し訳ない気持ちと呆れられてしまって悲しい気持ち、色んな思いがぐちゃぐちゃでとっくに思考は停止してしまってる。

 そのまま、いつの間にか。気付けば私は知らない場所にいて、肩に感じる温もりは信じられないことに黒尾さんのもの。あれ、ちょっと待って。ここまでのこと全然覚えてない。

「んん……」
「苗字さん? 大丈夫?」
「ん、黒尾、さ……?」
「そー、黒尾さんですよー。さっき水買ってきたけど、飲める?」
「んー……?」

 なにこれ、私ってばどこで寝てるんだろう、夢にまで黒尾さんが出てくるだなんて。ぼんやりした視界では黒尾さんが困った顔で私を覗き込んでいて、あぁ私夢の中でまで黒尾さんに迷惑かけてるってどんだけなのよ。
 だけど嬉しいのも事実、だってこんなの私にとってはご褒美でしかない。

「苗字さん、ほら水」
「あ、……」

 手渡してくれたペットボトルの水を受け取ったままぼうっと黒尾さんを見上げるけど、はぁ、やっぱりめちゃくちゃかっこいい。
 現実ではこんなこと出来ないんだから今くらい思う存分黒尾さんを堪能したくてジッと見つめると、黒尾さんは困った顔のまま笑って「飲まねえの?」って言うだけ。

「まぁ無理して飲まんでもいいけど」

 受け取ったばかりのペットボトルは回収されてしまったけど私はそれどころじゃない。黒尾さんが話す度に動く喉仏を見つめて、それから私も一度ごくりと喉を鳴らした。

 これってどういうシチュエーションなんだろう。よく見たら知らない場所、ベッドの上で黒尾さんと二人きりなんてそんな……まんま私の欲望を体現したかのような夢に今更ながら恥ずかしくなる。どくん、どくん、どくん。
 私が入社したときから黒尾さんは人気で、私の教育係に着いてもらったときも周りの同期に沢山羨ましがられたもん。そんな雲の上の人とこんな風になっているなんて、夢でも皆に怒られちゃうかもしれない。

 だけど、もし。今だけでも許されるなら。

 私はゆっくりと手を伸ばし、……それからシーツの上に投げ出されていた黒尾さんの手に自分のそれを重ねてみる。

「うおっ」
「……」
「え、なに? 酔ってる? のはそうか……え、どうした?」
「そんな嫌がらなくてもいいじゃないですかぁ……」
「違っ、びっくりしただけだわ!」

 触れたのはたった一瞬。すぐに引っ込められた黒尾さんの手をつい視線で追って口を尖らせてしまう。夢の中なのに嫌がられるって悲しい……やっぱり私なんかが黒尾さんに触れたらだめだよね、こんなの現実世界でやったら痴女扱い、最悪逆セクハラで訴えられるかもしれない。

 黒尾さんは私の行動に珍しく動揺していて、そんな黒尾さんもかっこいいけど……やっぱりいつもみたいに笑った黒尾さんが好き。

「うぅ……」
「いやいやなんで泣くの」
「泣いてないです……」
「苗字さんは目から汗でも出んの?」
「く、黒尾さんが……」
「俺かい」
「触ってくれないぃ〜」
「はぁ!?」

 違う、触らせてくれない、だ。あれ? そうじゃなくて笑ってる黒尾さんが好き、だっけ? 流石夢の中、あんまり頭が回ってないや。
 私の意思とは関係なく涙が落ちて、シーツにシミが出来ていく。黒尾さんはさっきより落ち着いているみたいだけど、もしかして怒らせてしまったのかもしれない。ベッドサイドに座ったまま、笑うどころか表情が消えジッと私を見下ろしてるだけ。

 でもそれがなんだか良い雰囲気で見つめ合ってるみたいになって、こんなときなのに更にドキドキと心臓の音が加速して。

「……苗字さん、今誰と喋ってるか分かってる?」
「黒尾さんしか、いないじゃないですか……」
「……うん、分かってんのね」
「さっきから名前も呼んでるじゃないですかっ、誤魔化さないでください!」

 勢いだけで動いてる私はグッと黒尾さんに顔を寄せてみると、当たり前に黒尾さんの顔が視界いっぱいに広がった。あ、どうしよう。このままちゅーしても許されるかな、だって嫌がられても夢だもんな、なんて欲望が溢れ出した瞬間。

「……こら」

 黒尾さんに鼻を摘まれ私は制止せざるを得なくて、……黒尾さんはやっぱりちょっと怒ってるみたい。

「付き合ってない男にこういうことしちゃダメでしょ」
「んぅ、くるひいっ」
「もうしない?」
「やれすっ」
「じゃあ離せねえなー」
「んんんなんれれすかぁ〜」
「俺からしたらそれ俺のセリフだからね」
「夢れくらい良いら、らいれすかぁ……」
「は? 夢?」

 パッと離された手は急すぎて、私は前のめりになっていた勢いのまま黒尾さんに雪崩れ込む。しっかりと私を受け止めてくれた黒尾さんはひんやりと冷たくて、火照った肌から伝わるその温度が気持ち良くて。

「現実じゃ、こんなことしたくても絶対出来ないのに……」

 吐いた息が熱い。黒尾さんの背中に手を回してみると今度は嫌がられることなくされるがままの黒尾さんが、さっきの私みたいに喉を鳴らした。

「……現実でもしてくれていーんだけど?」
「ダメですよぉ……現実の黒尾さんは、私なんかには手が届かない……憧れの人ですから……」
「……苗字さんって俺のことそんな風に思ってくれてんだ?」
「そうですよ……だから……夢の中でくらい、好きにさせてください」
「んなこと言われてもなぁ……」

 私を支えてくれる腕の中から見上げた黒尾さんは、ちょっとだけ笑ってて、あ、やっぱりその顔の方が

「好きだなぁ……」
「え……」
「それに先輩と幹事楽しみにしてたのに……」

 きっと私は酔い潰れて眠ってしまったんだ。起きたらもうお開きになって、いつの間にか家に帰って自分のベッドの上かも。
 あー勿体無いなぁ、笑ってる黒尾さんも近くで沢山見れたかもしれないのに、結局碌に話すことすら出来なかった。

「えー……いやでもなぁー……」
「?」
「苗字さん、これ後でちゃんと覚えてる? 忘れたりしない?」
「なんですか……」
「いや、……あー……」
「黒尾さん、……?」

 どくん、と今日一で大きく心臓が跳ねた。視界が暗くなって、あれ? ってなった瞬間に見えた唇。次の瞬間にはおでこに熱いなにかが触れて、……それはすぐに離れていく。
 今、おでこにちゅーされた……?

 黒尾さんは誤魔化すように「今はここまでな」って笑って、いやでも、そんな顔見せられたら私、もっとって思っちゃいますよ。

「なんでおでこ……」
「今はしたくないからです」
「そんな、ひどい……」
「ひどいのはどっちだよって」

 不敵な笑みを浮かべた黒尾さんの色気に私はもう身体中の血液が沸騰してるんじゃないかってくらいに熱くなって、くらくらしてるのに。それなのにこんなお預け、ひどいのは絶対絶対黒尾さんの方です。

「苗字さんが次に起きてまだして欲しかったら、そんときにしてやるから」
「それなら今でも」
「それはダメ」
「どうして、」
「んー……我慢の利かない男だと思われたくないから?」
「なんですか、それ……」

 訳わからないです、私は今続きを望んでいるのに。果たして起きたあとの私が今みたいに黒尾さんに求めることが出来るのだろうか。きっと可能性は果てしなくゼロ、ていうかそんなことしたらもう二度と話せなくなるかもしれないのに。

「絶対……ですか?」
「ん? うん、絶対。約束」
「約束……」
「だからもう早く寝て、俺の心臓が保たない」
「んんー……」

 寝たらダメ、寝たら勿体無いって思っているのに関係なくやって来る眠気に飲み込まれそうになる。
 段々と瞼が重くなって、そのままぱたりとベッドに倒れ込んだ後も黒尾さんを求めて手を動かしていると何かにぎゅっと包まれて、それはきっと私が望んだ黒尾さんの手。

 それが嬉しくて、安心して。あぁもうダメだって意識は闇に片足を突っ込んでる状態。

「絶対、ですよ……」
「ん。おやすみ苗字さん」

 最後に聞こえた黒尾さんの声は私の耳にしっかりと届いていて、それが最後の引き金になり私は完全にまた眠りの世界に落ちていった。


22.04.15.
title by 草臥れた愛で良ければ



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