短編

恋から始まり


「あ、これは?」
「えぇ、こんなに難しそうなの作れるかな?」
「じゃあ私も作るから、一緒に作ろ!」
「それなら……」
「うぇーい」
「黒尾!」
「美味そうなの見てんね」
「……」
「もうすぐバレンタインだからね〜」

 机の上に広げていたレシピ本から顔を上げた私は、話しかけて来たその男を見て固まる。そんな私に気付いたさっちゃんがすかさずフォローしてくれて、それにこの男……鉄朗は気付いてるのかいないのか、多分前者なんだけどなにも言わなかった。

「女子って毎年大量に作んなきゃいけねえから大変だよな」
「これは本命用だから一個しか作んないよ」
「へぇ……本命」
「わ、私の! 私のね!」
「ほぉ、さっちゃん本命いんの?」
「うん、他校に彼氏いるの。黒尾も多分見たことあるよ」
「なにそれ、どこで?」
「えっとねー、」

 一言だけ発した私の言葉に、鉄朗の口元は笑っているけど目は笑っていない。どくん、どくん、って心臓が嫌な音で鳴る。さっちゃんがいなかったら私、どうなってたことか。
 二人の会話には入らず、私はギシギシと締め付けられる胸を押さえた。無理。ほんと無理。どういう神経でここに入ってきてんの、ありえないんだけど。

 さっちゃんには悪いけど、これ以上はもう。椅子を後ろに引いて立ち上がった私に、鉄朗とさっちゃん、二人が揃ってこちらを見上げた。

「トイレ」
「え、あ、名前」
「……」
「いーよさっちゃん、『黒尾』の相手してあげて〜」

 せめてこれ以上空気が悪くならないように笑って言ったけど、もう手遅れなそれに私は心の中でさっちゃんに謝った。
 一人で教室を出て、宣言していたトイレも通り過ぎて、向かうのは屋上。この時期こんな場所なんて寒くて誰も寄り付かないから勿論誰もいないけど、でも今はそれが有難かった。

「はぁ……」

 おっきいため息と共に、私は屋上のフェンスを背もたれにして目を閉じる。ぐつぐつと胸のもっと奥底で煮えたぎる負の感情を必死に抑え込んだ。余計なことを考えると鼻の奥がツンと痛んで、必死に頭の中から追い出そうとするのにこびりついた鉄朗の声が私を責め立てる。

 「へぇ……本命」って。どんな気持ちでそう言ったんだろう。嬉しい? それともバカにしてた? 鉄朗がそんな奴じゃないってわかってるのに……そう思わないと私は今ここに立っていられない。

「元カノのとこに平気で来んな、バカ」

 小さな呟きは、誰にも聞かれることなく冷たい風に乗って飛んでいってしまった。


▽ ▽ ▽


 教室に戻ったとき、もう鉄朗はそこにいなかった。帰ってきたさっちゃんが曖昧に笑って、それから顔の前で手を合わせる。

「ごめんっ、名前」
「え、なんで? さっちゃんが謝ることないよ、むしろ私がごめん」
「黒尾、名前が嫌がるからってすぐ向こう行っちゃったよ」
「……なんでわざわざそういうこと言うかな、ほんとムカつく」
「ねぇ名前、やっぱり黒尾まだ」
「……あっちが別れよって言ったんだもん」

 私と鉄朗は一年の終わりから付き合っていて、今年のバレンタインでちょうど二年だったのだ。だった、って過去形なのはその日を迎えることもなく冬休み前に別れたからで、今はただのクラスメイト。
 別れてから私と鉄朗は前みたいに話さなくなったし、それで友達のさっちゃんにも気まずい思いをさせているのはわかっているけどどうしても無理だった。

 だって話したら、またあの目を真っ直ぐ見てしまったら、気持ちがぶり返してしまいそうで。私ばっかりが鉄朗のことが好きで、私ばっかりが未練たらたらで……そんなの辛いもん。だからこうやって無理にでも強がってるのに、向こうは平気な顔して話しかけてくるからたまったもんじゃない。
 鉄朗は冬休みの間に気持ちも整理してまた普通に友達に戻れるとか思ってるのかもしれないけど私は無理。多分卒業までずっとこのまま、もう付き合う前みたいに仲良くすることも出来ないだろう。

「……黒尾は本気じゃなかったんじゃないかな?」
「冗談でそういうこと言う奴じゃないから」
「でもさ、売り言葉に買い言葉っていうか……喧嘩した勢いでさ? そういうのあるじゃん」
「勢いで言ったことだとしても、ずっと言えなかっただけでそれが鉄朗の本音だったんでしょ」
「名前……」
「ほら、冬休み前からちょっと変だったじゃん? もう限界だったんだよ」

 自分で言ってて悲しくなって、……泣きそうだった。鉄朗の方から別れを告げたことも、その前からちょっとずつ私たちの間の空気がおかしくなっていたのも本当の話だったから。
 
 秋に鉄朗が所属するバレー部の全国行きが決まって、更に鉄朗は部活漬けになった。今までもそうだったけど、それでも今までで一番バレーに染まっていたと思う。
 鉄朗がバレーを大切にしていることは一番わかってるつもり。だから私も鉄朗のバレーを大切にしていたし、私なりに鉄朗の邪魔にならないように気をつけていたつもりだった。
 それの、なにが気に入らなかったんだろう。最終的に私には理解できないことで言い合いになって、「もういい」「俺がいない方がいいんだろ」「ずっと無理させてごめん」「別れよう」――――

 最後に言われた数々の言葉を思い出すだけで、涙が滲んだ。なんだそれ。私、ずっと鉄朗のことを一番に思って、『良い彼女』をしてきたつもりだったんだよ。それなのに鉄朗ってばなにが気に入らなかったの。

「……鉄朗は、そうしたいの」
「お前のためになるんなら」
「はぁ? なにそれ、私に押し付けないでよ」
「……」
「……もういいよ! 別れる! そんなこと言ってどうせ鉄朗が別れたいだけじゃん、バカ!」

 どうして最後まで私は『良い彼女』でいられなかったんだろうって、別れた今もそんな強がり。ほんとはあのとき格好悪くても、『良い彼女』じゃなくても、別れるなんて嫌だと泣いて喚いてやりたかったのに。あの日から私はずっと後悔してる。
 
「……」
「名前……」
「うー……さっちゃん……」
「わ、名前、ハンカチッ」
「ん……ごめん……」

 教室の端の席で、人目を避けるようにして涙を拭いて。何度も啜った鼻はきっと真っ赤に染まっているんだろう。

 早く卒業したいな。鉄朗がいるこの空間は、今の私にとって地獄すぎる。
 相変わらず向こうの方で他の男子と話してる、その声だけが良く聞こえる耳が憎い。顔を上げたらきっと無意識にその姿を目で追ってしまう。

 私はそうやって鉄朗を探してしまう全てをシャットアウトするために、さっちゃんに断りを入れてから机に突っ伏した。
 甘い香りがしたのなんてきっと気のせい。バレンタインなんか、私には関係ない。


▽ ▽ ▽


「名前?」
「……」
「無視しなさんな」
「……なに」
「そんな露骨に嫌な顔するんじゃありません」
「……なんでこんなとこいんの黒尾」
「……この前からなに、その呼び方」
「なにってなに? 黒尾は黒尾でしょ。変なの」
「……」

 今年はチョコレートをあげる人なんていないのに、放課後ついついやって来てしまったデパートの催事場。
 いやこれは自分用だから。可愛いチョコ見て、気に入ったの買って、そうやってバレンタインを過ごす人なんてごまんといるから。
 そんな、心の中で誰に聞かせるわけでもない言い訳を連ねていた私は、……きっと一番その言い訳を聞かせてやりたい張本人に話しかけられたことでわかりやすく狼狽えていた。

 だっからなんで話しかけてくるかなぁ!? え、鉄朗ってもっと空気とか色々読めるタイプじゃん。自分が振った女をそっとしとくぐらい余裕で出来る奴じゃん。なのになんなの、学校外でまで話しかけてくるなんてどうかしてる。
 先日部活を引退したとはいえ、こんなところに男子高校生一人でいるのも変な話だし。なに、もしかして新しい彼女と? ……なんて、考えたくもないけれど。

「……チョコ見に来たんですか」
「……それ以外に見えますか」
「誰かにあげるんですか」
「ほっといてもらっていいですか」
「嫌って言ったら?」
「私だって嫌だ」
「それも嫌で返します」
「は? なにそれ、意味わかんない……」

 鉄朗と、普通に話してる。たったそれだけのことで胸がぎゅうって痛くなる。懐かしい、二人でするどうでもいいやりとりがこんなに切なくなる日が来るだなんて思ってなかった。

 ほんとお願いだから、ほっといてよ。そんな小さな呟きは切実で、……鉄朗に聞こえたのかは定かではない。でもきっと聞こえなかったんだろう、「で、」って続けようとする鉄朗に、私は喉の奥になにかが詰まったみたいに声が出なかった。

「買うの?」
「……それ、黒尾に言わなきゃだめ?」
「……怒ってる?」

 当たり前じゃん! 聞かなくたって私が今一人になりたいことも、黒尾と喋りたくないことも、わかってるはずなのにどうしてそれでも話しかけてくるの。

 周りの女の子たちはみんな、楽しそうに目の前の色とりどりのチョコレートを楽しんでる。好きな人に渡すのかな。それとも彼氏? 旦那さん? 友チョコだって自分チョコだって、楽しいならなんでも良いと思う。
 今の私はそんな周りの人さえ妬ましく思ってしまう、なんにも楽しくない。
 少しでも気を紛らわそうとここに来たはずだったのに、これじゃあ逆効果だった。

「……少し話したいんですけど」
「……嫌だ」
「な、お願い」
「しつこい」
「……ちょっとでいいから」
「鉄朗うざい」
「お、やっと名前呼んだな」
「……」

 ……なんなの。鉄朗の言葉に思わず合わせてしまった視線、……私はそれをすぐに後悔した。
 どうして鉄朗がそんなに悲しそうな顔してるの。笑ってるのに下がり切った眉が情けない。鉄朗のそんな表情、初めて見たかもしれなかった。だからって。

「……ちょっとだけなら」
「ん、ありがと」
「……」
「あー……あっちに座れるとこあるから」

 たったそれだけのことに絆されかけたなんて。
 エスカレーター近くのベンチに促されて、私は黙ってそこに座る。鉄朗もそれに続いて腰掛けたけど、私たちの間に空いた人一人分の距離がなによりも遠く感じて。
 話すことを了承したのを早速後悔しかけた私は、スカートの上に置いた拳をぎゅっと握り込む。

 これで終わりかもしれないって。鉄朗と話すのは本当に最後になるかもしれないから、なにを話すのかは知らないけどその声を、その姿を、出来る限り鮮明に焼き付けてやろうとまた強がってみせた。

「……冬休み、入る前にさ」
「うん」
「駅前の……名前のバイト先の近くで、男といるの見たんだけど」
「……」
「あれ、バイト先の先輩って言ってた人だよな」

 鉄朗の言葉に、私は記憶を掘り起こす。冬休み前。駅前。男。バイト先。それを聞くだけですぐに思い出すことが出来る……あれ、見られてた?

「……知ってたんだ」
「……ん、まぁ」
「そっか……」

 まさか、知られていたなんて。一瞬頭が真っ白になる。

 例えば受験のストレスとか、親との不仲とか、……バイト先で知り合った大学生に言い寄られてるのとか。私の悩みを鉄朗が知るのは、必ずと言って良いほど解決した後のことだった。でもそれは三年の秋になっても部活で忙しい鉄朗になにも言えなくて、余計な心配をしてほしくなかっただけ。

 鉄朗はそれを知る度にいつも「気付けなくてごめん」って悲しそうに謝ってたけど、いつもその前から「最近なんか悩んでます?」「俺に言えないことー?」って目敏く異変に気付いて茶化しながらも私の話を聞こうとしてくれてたし、それでもいつも意地を張って言わなかったのは私だ。

 例えそれで別れることになったって、やっぱり鉄朗に余計な心配はかけたくなかった。それなのにそうやって必死に隠していたことも、……気付いてたんだ。

 もしかして未だ話しかけてくれるのは、別れても私を心配してくれるのは変わらないってこと?
 鉄朗は、無意識に人の世話を焼きたがるところがある。私はそんなところが大好きで……そんな彼の負担になることが、ずっと怖かった。

「……今更俺が言うのもなんだけど、その人大丈夫なわけ」
「……うん」

 ポケットに入ってるスマホには、今もその先輩からの連絡が止まらない。ほんとは全然大丈夫じゃない。でも、いくらもう部活を引退したからって既に別れた鉄朗に頼ることなんて出来るわけがなかった。

「……そっか」
「うん」
「……そんなら、いいけど。それ知りたかっただけ」
「……そっか」
「ん。……じゃ、そろそろ帰るかね」
「うん」

 なにそれ。ほんとにそんなこと確認したかったの? それを聞いてどうしたかったの?

 立ち上がった鉄朗に、一瞬言ってしまおうかと思った。だけど……すぐに考え直して、言いかけた言葉はグッと飲み込む。今更言ってどうするの。鉄朗はそんなつもりで聞いたわけじゃない。

「じゃ、……気をつけてな」
「うん、……」

 私に背を向けた鉄朗にどうしようもなく涙腺が緩む。前までだったら隣を歩いて、手を繋いで、それから家まで送ってくれたのに。もう二度とそうすることはないのだ。
 もしここでもう一度だけ振り向いてくれたら、私はもう少し素直に――――そう願ってみても、鉄朗が振り返ることはなかった。


愛になれに続く
22.02.20.



- ナノ -