短編

二人で飛び越す境界線


※会社員設定

 街中がクリスマスで溢れる今夜、まさか薄暗いオフィスでたった一人残業をする羽目になるとは思わなかった。別に予定があったわけじゃないけど、なにもなくても特別に感じるのが今日という日。たまにはお高めのワインとチョコレートを買って家でゆっくりと楽しもうかとか、それともお気に入りのケーキ屋さんで好きなだけケーキを買って帰っても良いかなとか、……そんなことを思えたのも昼休みまでだった。

「昨日の発注したの誰!?」

 隣の席の同期の声が、地獄の始まりを告げる。大きなミスが見つかり、年末であるにしては比較的穏やかだったフロアの雰囲気が一転した。誰も誰かのせいだとは思っていない、ただただ目の前の作業に追われ、もう今年が終わるというのに今年一忙しい午後だった気がする。

 定時の鐘が鳴っても誰も席を立たない。忙しないタイピング音が響く中で、私は「あのー……」と声を上げた。

「あとちょっとだから、皆さんもう帰って大丈夫ですよ?」
「えっ!?いやいやここまできたら皆でやろうぜ」
「でも……サトウさん、今日は早く帰るってお子さんと約束したんだって言ってましたよね」
「や、それは……」
「タナカちゃんも彼氏さんとデートだし、遅れたら可哀想だよ」
「でも仕事放っていけないですよぉ〜」
「他の皆さんも、もう私一人で終わらせられる量だからお気にせず!せっかくクリスマスなんだから早くあがって楽しんできてください!」
「それなら苗字ちゃんだって、」
「生憎私は今日なんの予定もないんで!」

 最初は渋っていた面々だったが、やはり今日は各々予定があったらしく皆申し訳なさそうに帰っていった。そう、自分でこうなるよう仕向けたのだ。だから仕方ないといっちゃ仕方ないのだけれど。今日はまだイヴだし明日がクリスマスだし……と思う気持ちと、イヴこそ本番って感じは確かにあるよねって気持ちと。

 この日までは散々浮かれた音楽が街を包んでいたのに、明日が終わればきっとガラッと雰囲気を変えて正月を感じさせる曲になるのだろうな。その寂しさというのは大人になっても全く慣れない。
 だから一人でも多少なりともクリスマスというイベントを感じたかったのに、それももう叶えることは無理そうだ。いやいやまだ明日もチャンスが……それに社会人であり帰る家に家族も彼氏もいない私のような人だって世の中にはごまんといるのだから。

「あれっ、誰もいねーじゃん」
「っ、」
「苗字ちゃん一人?」
「黒尾先輩……?」
「お疲れ」
「お、お疲れ様です」

 大袈裟なくらいに肩が跳ねてしまった。誰もいないと思っていた空間に私以外の、しかも私を呼ぶ声が聞こえて勢い良く振り返る。そこには、コートを脱ぎながらこちらにやって来る営業の黒尾先輩がいて。
 ちらりと営業部のホワイトボードを見ると黒尾先輩の欄には『打ち合わせ・16:00帰社』と書いてある。まだ戻ってきていなかったのか。黒尾先輩は私がそう思ったのに気付いたのか、すぐに「いやー長引いてね」とその答えを教えてくれた。

「そのまま帰らなかったんですね」
「まぁちょっと、取りに戻らないといけない資料置きっぱだったから。それ取りに」
「なるほど……」
「で、苗字ちゃんは?一人で寂しく残業?」
「……そうですけど、」

 その通りですけど。黒尾先輩の言い方に少しだけムッとしてしまったのにも、黒尾先輩はきっと気付いている。
 その証拠に、「いやいや偉いなってね?」って苦笑い。それに私も少しだけ頬を緩めて、「今日大変だったんですから〜」と笑った。

「そうなの?俺朝から出てたからなんも知らねえわ」
「今年一の忙しさでした」
「え、それはやべえね。なのに一人ってどゆこと?皆苗字ちゃん残して帰ったの?」
「私が帰ってくださいって言ったんですよ、クリスマスだし」
「あー……」

 ギ、と鈍い音を鳴らして黒尾先輩が私のお隣の席に座る。普段そこに座っているサトウさんは今頃お家で良いパパになっているんだろうか。もしそうだとしたら、やっぱり先に帰ってもらって正解だったなと思える。

「苗字ちゃんは?なにもなかったの?」
「私は仕事が恋人です」
「そういうキャラだっけ?」
「……今日限定で」
「ぶはっ、一日だけの恋人?」
「そうですそうです、私たち割り切ったオツキアイなんで」
「なにそれ、どういうこと?」

 ケラケラと笑う黒尾先輩を見て、さっきまで空っぽだった心の中にまるで蝋燭の火が灯ったような、ほんのりとした暖かさを感じる。やっぱり少し寂しかったから。黒尾先輩が少しでもこうして戻ってきてくれたお陰で、きっと私が思っている以上に救われている。
 もう子供じゃないんだから、クリスマスなんてただの平日なのに。何度も言うが正確には今日はイヴだし。

 なんとなく会話が終わって、それに名残惜しさを感じつつも止まっていた作業を再開する。もうちょっとで終わる。定時はだいぶ過ぎてしまったけど、まだ駅前だったらケーキくらいは買えるかも。最悪コンビニでいっか。
 黒尾先輩は黙り込んでいるから、さっき言ってた資料でも見ているんだろうか。そこで?帰らないのかな。ていうか普通に気になる。……けど。やっぱり早く終わらせたいという気持ちはあるから、とりあえずなるべく黒尾先輩は視界に入らないようにして目の前の仕事に取り掛かった。

 そうして漸く作業に目処がついて、そういえば黒尾先輩どうしたんだろうって隣を見れば「えっ」手元の資料なんかとっくに見ていない、帰ったわけでもない、ただ頬をついてジッとこちらを見つめる黒尾先輩が居て。

「あ、終わった?」
「えっ、あ、はい」
「お疲れ」
「ありがとう……ございます?」
「ふはっ、なんで疑問系?」
「や、どうして黒尾先輩いるのかなって……」
「ひでえ」
「え、や、そうじゃなくて……!」

 そうじゃないってどうじゃないだ。でもだって、普通に吃驚するじゃないか。

 黒尾先輩は入社当時にちょっとだけお世話になったのもあり、なにかと話しかけてくれたり飲み物を奢ってくれたり可愛がってもらっている自覚はあるものの、片方に仕事がないのにこんな、オフィスで二人きりになるような関係では勿論ない。
 同じフロアではあるけど今はもう所属部署も違うし、こんな……近い距離でゆっくり向かい合っているなんていつぶりだろうってぐらいで。

「とりあえず、はい」
「え、あ」
「頑張った苗字ちゃんにセンパイからご褒美です」
「わ、ありがとうございます、」
「ん。あったかいうちにどーぞ」

 手渡されたペットボトルのカフェオレは、机の端にあるもう飲み終わったそれと違いまだ温かい。いつの間にこんなものを、それも気付かなかったな。キャップを開けて一口口に含むと、優しいミルクの味わいが口の中に広がりそれだけでちょっと疲れが和らぐ気がする。

「美味い?」
「え?あ、……はい、美味しいです」
「ふーん……なら良かった」
「?」

 そういえば、結局黒尾先輩はどうして残っていたんだろう。今日なんて日に、ただの後輩とこんなことをしてていいのだろうか。黒尾先輩ともあれば彼女さんの一人や二人……もいたら嫌だけど、でもデートのご予定くらいありそうなものなのに。

「それがねえんだなー。つか彼女もいない」
「え?」
「え?」
「こ、声、出てました?」
「え、無意識?こわ」
「す、いません、」
「ぶっ……ひゃっひゃっひゃっ!いーよ、ぶふっ……くく、」
「そんなに笑わなくても!」
「ぶははは!だって無意識って!んな漫画みたいなっ、」
「私だって吃驚してます……」

 目の前の黒尾先輩は涙目になるくらいに笑い転げていて、正直そんなに面白いことじゃなかったはずなのに私は首を傾げるしかない。
 ひーひー息を吐いて苦しそうな黒尾先輩を横目に私はパソコンをシャットダウンして、デスクの上に転がったペンやら資料やらを片付けていく。それから最後にもう一度、カフェオレを口に含んで。さっきより少しだけ温くなったそれを舌の上に転がして飲み込めば、漸く少し落ち着いた黒尾先輩が「はぁー……笑った」って呟き立ち上がった。

「さて、行きますか」
「え?」
「え?」
「ど、……どこに?」
「飯。行きません?予定ないんでしょ、苗字ちゃん」
「ない、ですけど……」
「もー俺お腹ペコペコよ。昼飯もちゃんと食えなかったし」
「それなら早く帰ってくださって良かったのに、」
「あ。そんなこと言う?」
「え……」

 どきり。その瞬間、大きく胸が高鳴ったのはきっと勘違いじゃない。
 悪戯っ子みたいな顔で甘く睨む先輩に、私は息を詰めて、―――そしてその視線に絡め取られる。

 黒尾先輩が冗談を言うのだって揶揄ってくるのだって、通常運転なのに。きっと今のだって、別に気にするようなことじゃない。なのに、なんの物音もしない二人きりの空間でゆっくりと先輩の手が私に伸びてきて、それに私は思わず身体を硬くしてるなんてバレたくなくて。

「……目瞑られたらなんかしたくなるからやめて?」
「へ、」
「なに?期待した?」
「し、……てないですっ、!」
「ぶはっ……力強い否定」
「先輩のせいです!」
 
 バレたくなかったくせに、……何故か瞑ってしまった瞼をすぐに押し上げた。違う、期待なんかじゃない、今のは反射で。
 先輩に指摘されたのが恥ずかしくて、急激に上がっていく体温。

 一瞬擽ったい感覚がして、先輩の手が私の横髪を耳にかけてすぐに帰っていくから……ほら、先輩だって元々。

「俺は期待したけどネ」
「な、に」

 そうやってフッと息を溢した黒尾先輩は、またさっきみたいに……、さっきも今も、いつもとなにが違うんだろう。わからないけど、でも確かにいつもと違う、そんな表情で。

「ほら、予約してるから早く」
「え!?い、いつの間に?」
「さっき苗字ちゃんが集中モードのとき」
「こんな、直前でも予約って取れるんですか?」
「知り合いの店だけどね。結構いい感じなのよ、クリスマスディナーやってるって言ってたし」
「え、わ、私今日そんなちゃんとした服じゃないですけど……!」
「っくく、流石にそんなの気にしないでいいくらいにはカジュアルです」
「良かった……」
「まだただの後輩なのに、いきなりそんなとこ連れて行かねえよ」
「……まだ」
「そ、まだ」

 そう言って笑った先輩は、……これは確信犯。にやりと上げられた口角、ドッドッドッてさっきより煩い心臓の音。

「……それは期待しても、良いんですか?」
「お?今度は期待してくれんの?」
「……してもいいのなら」
「それは……わざわざこの時間まで苗字ちゃんのこと待ってた時点で、わかってるんじゃない?」
「……さすが営業部のエース、狡い言い方ですね」
「ふはっ、もう業務時間外ですけど?」

 ニヤニヤと笑う黒尾先輩はきっと分かってる。いま私がこんな風に強がって言ってみても隠しきれないくらい頬は真っ赤に染まってるし、先輩を見上げる瞳は既に期待に揺らいでるってことを。そしてそんな私を見つめる黒尾先輩の視線も、私が動揺しちゃうくらいには熱を帯びてるってことを。

 今度こそ、伸びてきた手が私の手を攫う。一歩踏み出せば、街を彩るキラキラの電飾もスキップしちゃうくらい陽気な音楽もまだ間に合う。だってまだ私たちのクリスマスは始まったばかりなのだから。


21.12.24.
title by icca.



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