短編

白い項と細い喉頸



今年も夏が、やってくる。

「……やるか」
「……うん」

私たちは顔を見合わせ、キュッと水道の蛇口を捻った。


普段私とふざけ合ってバカやってる黒尾は、学校生活においては存外真面目な生徒だった。強豪運動部の主将とはそうでないといけないのか、授業態度も成績も良くてよく先生から褒められている。
それがどうして、今日は昼休みを過ぎた後からこくりこくりと船を漕いでいる珍しい黒尾を見た。斜め前の席。右肘をついて、手のひらの上に顎を乗せた黒尾はその大きな身体をゆらゆらと揺らしている。

この角度からだと黒尾の項がチラチラと見えて、何故だかそれが気になって。黒尾って意外に色白いんだ。バレー部って室内競技だから?にしても下手したら女子より綺麗な肌でほんと羨ま…………あ。
先生の丸められた教科書が綺麗に黒尾の頭にクリーンヒットしたのを見た私は思わず盛大に噴き出してしまい、……まさかのとばっちりで、寝ていた黒尾と共に罰掃除を言い渡されるのは予想外だった。

「にしてもプールって。二人で掃除するには無理あるよねぇ」
「だなぁ……これ終わんのかね?」
「テキトーにやろう、バレないよどうせ」
「テキトーに掃除したプールに入りてえの?お前」
「……頑張りましょう」
「おう」

体操服に着替えて、水を抜いたプールへデッキブラシを持って下りる。ホースから飛び出した綺麗な水が私たちの足を撫で、冷たくて気持ち良い。シャッ、シャッ、という音だけが響くこの沈黙に何とも言えない想いを抱え、たまに汗を拭うだけの私は目の前のブラシを見つめた。
暑いとか、どうして私がとか、色々あるけどそれでも今の状況は私にとって役得だった。理由は簡単。私は黒尾のことをいつも一緒にバカやる友達、以上に思っているのだから。そして向こうも私を悪くは思っていないと思う。その距離感に浸かっていつまでもダラダラと踏み出せない私達が二人きりなんてこんなチャンス、生かさないわけにはいかなかった。

「黒尾今日部活は?」

久しぶりに出した声は、少し上擦った。学校のプールで二人きりという非日常が心を浮き立たせて、こんな調子で私はどうしようというのか。現状に満足して、これ以上を望むのが怖くて、今日も進展という進展はしないのかな。
返って来た黒尾の返事のトーンがいつも通りなのがその証拠だった。

「オフ。分かっててこれだろ、ほんっとやられたわ」
「ていうか黒尾寝てたじゃん。私完全とばっちりなんですけど」
「いやぁすみませんねぇ」
「はい思ってないやつ。でも黒尾が寝てるとか珍しくない?」
「んー、昨日はちょっと夜更かししちゃって……あ、苗字、水もっと出して」
「うぃー……あっ!」
「は!?ちょっ……!」
「うわああっ、あぶっ、わっ、!?」
「逆逆!逆に捻れ!」
「っ、!」

ぽたぽたぽたぽた……と高速で私から落ちていく雫。嘘でしょ。
勢い良く蛇口を捻りすぎたせいでホースが耐えきれず取れてしまい、そのまま蛇口から吐き出される大量の水は全部私がかかるなんてどんなギャグよ。
おでこに張り付いた前髪をよけながらくるりと振り返ると、一部始終を見ていた黒尾と目が合って。

「ぶっ……」
「…………」
「っひゃっひゃっひゃっひゃっ!ぬ、濡れすぎっ……くくっ、おま、ドジっ子かよ……っ!」
「…………」
「もーなんなの苗字、やっぱ外さないわぁ、さすが……うお!?う、ちょっ、ばか!」
「ばーかばーか!黒尾も道連れだ!」
「ちょ、かけすぎかけすぎ!終わり!つめ、だあああやめろ!」
「きゃ、っ!」
「あっ!………ぶねっ」

まるで子供の水遊び、一度濡れてしまえば後は何しても同じだと黒尾にもホースでの水攻撃を浴びせる私が足を滑らせて黒尾と共に転げたのは、足首まで水が溜まったプールの中で。

「最悪……パンツまでぐしょぐしょ」
「ちょっと苗字サン、俺の上でそーゆうこと言うのやめてくれます?」
「あっごめん」
「ったく…………ん。どこも打ってねぇ?立てる?」
「立て……、る、」

う、わ……。バチンと合った視線は思ったより近くって、だって今私、黒尾に抱き抱えられてる。転んだという衝撃で意識していなかったその事実に漸く気付いて、途端にバクバクと鳴り出す心臓。
肌に張り付いた体操服が気持ち悪いのに、それよりも私を支えるゴツゴツとした手や乗り上げてしまっている太腿、触れている部分に全力で意識がいって、放課後といえどギラギラと照りつける太陽にくらりと頭が揺れた。

全身ずぶ濡れでいつもの特徴的な髪型を失った黒尾は何処か扇情的で、ぽたりぽたりと落ちる雫は水か汗か、考えてごくりと唾を飲み込む。きっとこの距離だ、黒尾にも私の喉頸がゆっくり動くのが目に入っただろう。
無言でじっと見つめる私に黒尾は一瞬怪訝そうな表情をした後、ニヤリと笑って「なに?」って呟いた声は少し掠れていて、それさえも私の胸を騒つかせる。

「…………」
「頭でも打った?苗字?」
「…………」
「オーイ」
「…………」
「ちょっと見過ぎ」
「ひっ、う、」

ぐっと耳元に寄った唇が、熱い息と共に低く呟いてすぐに離れた。その際にするりと項を指でなぞられて、私の肩は大袈裟に跳ねる。

「なんか変な感じすんね」
「え、」
「こんな近くで苗字見たことないなって」
「やっ……離し、」
「最初に見たのそっちのくせに?」
「ごめ、謝るから、」
「嫌、……つったら?」

カンカンカン――――頭の中で警鐘が鳴り響く。こんな黒尾知らない。こんな空気、私達の間に一度たりとも存在したことがない。そろそろと先程の場所をまた熱い指がなぞる。ちょうど目の前の位置にくる黒尾の喉がゴクリと動いて、それはまるでさっきの私で。
ドッドッドッドッて早すぎる心臓は飛び出してしまうんじゃないかってくらいなのに、私は黒尾の熱っぽい視線から逃れられない。

「ちょっと、」

少しだけ動くと、パシャリと水が跳ねた。項から喉元に移動した黒尾の指が相変わらず掠るようになぞって、ゾワゾワと背中が粟立って。

「ふっ……や、」
「…………」
「黒、尾、ふざけすぎ、」
「、っ……悪ぃ」
「…………」

パチン!って風船が弾けたような。さっきまでの空気感が一気に消えて、黒尾はパッと手を離す。
呆然とそれを見つめる私に、黒尾はちょっとだけ気不味そうに笑って、あぁ、私だって伊達にいつも黒尾の近くにいるわけじゃない。

"攻め過ぎた"って。黒尾が思ってるの、知ってるんだから。
早くもどかしいこの距離感を壊してほしいような、まだもうちょっと待っていて欲しいような。ジリジリ照りつける太陽が、滲む汗が、足を擽るプールの水が、目の奥に焼き付いて離れない白い項が、全力疾走した後のようなこの鼓動を後押ししてくれたらいいのに。


「……続き、やるか」
「……う、ん」

あぁ、今年も踏み出しきれない夏がやって来る。


21.06.25
title by icca
Twitterアンソロ企画/あめぷらす



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