短編

草臥れた愛でよければ



忙しいことは当たり前で別にそれが苦だとはあまり感じたことがない。いつかの日、彼はそんなことを言っていた。好きなことに関われてむしろ幸せだと。それは紛れもなく彼の努力の賜物であり、私にとっても誇らしいこと。それでも、本当にたまに、体力的にも精神的にも疲れたと感じることはあると思う。
上手くいかないってことが重なったり、そんなときにめんどくさい彼女が更にめんどくさくなったり。

「…私の方が先に約束してたよね」
「うん、してた。だからほんとごめん」
「じゃあ、」
「でもほんと、外せねぇの。分かるよな?」
「…うん」

わかる。鉄朗がすっごく大変なお仕事をしていることも、ずっと前からしていた私と出かける予定よりも急に入った仕事の方が絶対に大切なことも、分かってるんだよ。分かってる、つもりなんだよ。

「また埋め合わせすっから」
「…そう言って、その埋め合わせが明日だったじゃん」
「うんー…うん、そう。ごめん」
「…そればっか」
「申し訳ないとは思ってるんです」
「…うん」

鉄朗が私をないがしろにしているなんて思ったことはないのに、でも社会人になった鉄朗はあまりにも忙しすぎた。合わない時間、色んなタイミング。どんどんずれていく私と鉄朗の関係性が、私を苦しくさせた。それで先にギブアップしたのは本人でなく私の方だなんて、おかしいよね。

「…もう、いいよ。お仕事頑張って」
「…ん。また予定空けるから、」
「…もう、いい」
「え?」
「もういい。鉄朗なんか、知らない」
「名前、」
「なんか、鉄朗に私なんかいらない気がするし、この先一緒にいてもよくないと思うよ」
「は?」
「私、こんなんだし。鉄朗今も、疲れてるのに無駄なやりとりしてんなぁって、思ってるでしょ」
「そんなこと言ってねぇじゃん」
「…言ってなくてもわかるもん」
「…なに、じゃあ、名前はどうしたいの」
「…別れる」
「…俺と、名前が?」
「…うん」
「…本気で言ってんの?」
「…うん」
「…お前がそうしたいなら、そうすれば」

それは恐ろしく静かで、冷たい声だった。プツッ、ツー、ツー。スマホの向こうから無機質な音が聞こえて、私はそのまま勢いでベッドにそれを放り投げる。
言っちゃった。思ってもないこと、…でもないけど。こんな我儘言う女なんか、鉄朗のためになんない。鉄朗のしたいことを優先して、応援してあげられる彼女じゃないと鉄朗の負担になるばかりでいずれ終わりがくることなんて分かりきっている。それが、今日だっただけ。私から終わらせただけ。

なのに、どうしてこんなに涙があふれてくるんだろう。
…あんなこと言いたくなかった。それでも鉄朗のそばにいたかった。…あんな風に、冷たい声で、お前、なんて言う鉄朗最後まで知らないままでいたかったよ。

じゃあどうしたら良かったのか、その答えは見つからないまま。私の身体はベッドに沈み、そのまま何もかもから逃げるように目を閉じた。

次に目を開けたときはもう太陽はかなり高い位置まで昇っていて、なのに瞼は重過ぎる。…泣きすぎた。きっと腫れているんだろうそこに手の甲を当てて、するとまたじんわりを熱を持ち始めるから嫌気が差す。
昨日帰ってきてすぐにとった電話でこうなったせいで、帰宅前と何も変わらない部屋がまた私を悲しくさせた。

壁に目を向ければ、まだ一度も着ていないコートがかかっている。今日下ろそうとしてたやつ。
今日は、久し振りに鉄朗と出かけられるはずだった。学生の頃から数えて何度目の記念日だったかなんて鉄朗はもう覚えていないだろうけど。

ふと、スマホから着信を知らせる音が鳴る。私は直前までの怠さなんてなかったくらいの勢いでスマホを手に取り、そして落胆した。着信の相手は、勿論、鉄朗じゃなかった。

「…もしもし」
「うわ、暗。どうしたんだよ寝坊でもした?」
「…ううん、でも今起きた」
「寝坊じゃん」

機械の向こうから聞こえるかつての仲間の声はそれほど久しいわけでもない、なんならつい一昨日も聞いたばかりで。
あの時はうざいくらいのテンションだっただろう私が今どうしてこんなに暗いのか、皆目見当もつかないと思う。

「お前全然連絡出ねぇから今日どうすんのかとか、」
「やっくん」
「ん?」
「あのさ、鉄朗とさ」
「あ、もしかしてバレた?だから言ったじゃん、アイツ変なとこ鋭いからバレるぞって」
「別れた」
「苗字は苗字で分かりやす………は?」
「鉄朗と、別れた」
「はぁ!?!?!?」

何言ってんだ、が存分に詰まったやっくんの声に頭がキーーーンとなる。一瞬離したスマホをまた耳に当てて、息を吸った。なんて言おう、言葉を選ぶためのその行為はしかし私の涙腺をまた決壊させただけだった。

「うぅっ…ひぐ、う、ぅ…や、くんんんん」
「ちょ、おま…はぁ?」
「もうやだ私死ぬうううううう」
「いや待てまじで意味わかんねぇから。なに、別れたの?お前と黒尾が?」
「だからそうっ…い、い、言ってん、じゃん…っ」
「おま、今日どうすんだよ!」
「知らないよ!もうなし!終わり、全部終わり!」

こんなに子供みたいに泣くこともうないと思っていた。一人で泣き明かした昨夜とは違い、気が知れる友人の声を聞いた途端、やるせなさが一気に襲ってきた感じ。
何を言っても会話にならない私にお手上げのやっくんはついに何かを言って通話を切ってしまったんだけど、それすらも私は気付かなかった。一度あふれ出した涙は簡単には止まらなくて、苦しいこの感情の出口を誰か教えて欲しい。
あんなに泣いたのに、まだまだ枯れることもなく出続けるそれを拭ってくれる人はもういないのに。

どれくらいそうしていたか分からないけど、今度は誰かの来訪を告げるチャイムの音がする。もう期待しない。鉄朗じゃ、ない。そう思おうとするのに、私はバタバタと足音をたてて玄関まで走り、そのまま勢いよく扉を開ける。

「おわっ!」
「あっ……」
「危ねぇぞ!」
「…やっくん…」
「…黒尾じゃなくて悪かったな」
「は、はは…」

ほんとにもう、なんなんだ。心臓がキュウウッて痛んで、その場に私は崩れ落ちた。やっくん、どうしよう、私。さっきにまた逆戻り、何度も何度も嗚咽を漏らしながら昨夜の出来事を話す私は、顔も服も言ってることも何もかもぐっちゃぐちゃで、それでもやっくんは何も言わずに静かに聞いてくれる。

あの頃鉄朗と喧嘩する度にやっくんに泣きついていた私にそうしてくれたように。みんなが信頼していたやっくんの手が、私の頭を撫でた。

「…連絡してみればいいじゃん」
「むり、だもん。もう無理、鉄朗、許してくれない」
「んなこと言ったってなぁ」
「私なんか、もういらないんだ。鉄朗、私のこと、もう好きじゃないんだと思う、し」
「なんでそうなんの」
「だって…だ、って、…だってぇ…」
「…はぁ」

ごめん、やっくん。意味わかんないよね、っていうかやっくんこそめんどくさいよね。申し訳ない。そう思う気持ちはあるのに、涙はどうしても止まってくれなくって。
何度も迎えた鉄朗との交際記念日。鉄朗に何かしてあげたくって、できればびっくりさせたくって、企画したサプライズ。社会人になってから中々会えなかったみんなが集まったら鉄朗喜んでくれるんじゃないかと思って、色んな人が今日という日をあけてくれたのに、台無しにしてしまった。
私の意味わかんない企画にノってくれたやっくんも、研磨の家に集まって今も連絡を待っているであろうかつての音駒バレー部のみんなも、ほんと…どうしよう。

何を考えるのももうめんどくさくって頭を抱えるしかない。

「…俺たちに申し訳ないとか思ってねぇだろうな」
「やっくん…」
「んなことどうでもいいから、お前はとりあえず黒尾に連絡しろ!」
「でも……鉄朗、今日仕事になったって言ってたし」
「いいから!俺は研磨ん家にいるから、終わったら来い!」
「………」
「そんで振られたらそん時は慰めてやる!」
「………うん」

やっくんの言葉は、どうしていつも安心させてくれるんだろう。さっきまで沈みまくってた気持ちは戻らないけど、それでも少し落ち着いた。最後にもう一度、クシャッと髪を撫でられて玄関に向かうやっくんを見送って、それでその後は鉄朗に電話するんだ。

「じゃ、後でな」
「うん、やっくんありが…」
「あ」
「は?」
「!…てつ、」
「なんで夜久がいんの?」

…ああ、なんてタイミング。やっくんが玄関から出た瞬間、そこにいたのは鉄朗で。


* * *


ぶっちゃけ、余裕がなかった。仕事は楽しくて、でもそれ以上に大変で、好きなことに関わっているから苦では無いけどだからといってしんどくないかといったら別。
最近はたまたま色んなことが重なって名前との時間が取れなくなって、でもどうしようもないことってやっぱりある。これが高校生の時だったら…いや、あん時も部活ばっかであんま構ってやれなかったな。

そんなでも何とか上手くやってきて早何年、漸く名前を支えてやれるんだって自信もついて、今取り掛かってるデカい案件が終わったらそろそろプロポーズを…と。そう思っていた矢先の出来事。

「…もう、いい」
「え?」
「もういい。鉄朗なんか、知らない」
「名前、」
「なんか、鉄朗に私なんかいらない気がするし、この先一緒にいてもよくないと思うよ」

俺はこの先もずっと、お前といたかったんですけど。待たせすぎた?どこで間違えた?震える声で投げられる言葉が名前の本心じゃないことは分かっているのに、俺の口から飛び出した言葉もやはり本心じゃなくて。

「…お前がそうしたいなら、そうすれば」

思ったより低く出た声で気付いたらそう告げて、通話を切っていた。でもその瞬間から既に生まれる後悔。やっちまった。そして通話画面が消えて戻ったホーム画面の日付を見て、俺はまた大きくため息を吐く。…明日、記念日じゃん。

余裕がなかった。本当は誰よりも、大切にしたいのに。

かなり無理言って午前だけで仕事を切り上げて、もう良い歳なのに全力疾走で向かう名前ん家。途中で花なんか買っちゃったせいでめちゃくちゃ目立ってるけどまぁいいよ、名前が機嫌直してくれるなら。絶対一人で泣いてる気がして、エレベーターを待つのすら煩わしくて階段を駆け上がりやって来た名前の部屋の前で、鞄から合鍵を取り出す。
すると内側からタイミング良く扉が開いて出てきた夜久が……夜久?

「なんで夜久がいんの?」

息切れしながら絞り出した疑問に、名前の肩がびくりと跳ねたのが見える。あぁ、目めちゃくちゃ腫れてんじゃん。やっぱ泣いたんだよな。ドクンと心臓が嫌な音で鳴る。…夜久に慰めてもらってたのか。

無意識に出た舌打ちは、自分に対して。情けない。こんな顔させたいわけじゃねぇのに。でもそれにすらも名前は泣きそうな顔をして、あ、誤解させてる、って分かってんのに言葉は出てこない。夜久を見て、名前を見て、また夜久を見て…

久々に会った夜久はそんな俺に呆れたような表情を作り、学生の頃のように思い切り回し蹴りを食らわした。

「いって!ちょ、何」
「バカなの?んな顔して、苗字に言うことあんだろうが!」
「わ、分かってますぅ!今から言うつもりでしたぁ!」
「ああそうかよ!じゃあ邪魔者はさっさと退散するわ!…苗字、また後で」
「…う、うん」

は?「後で」って何!?何に対してもイライラして思わず夜久を睨んでしまうけど、当の本人は全く気にした風もなく名前にだけ手を振ると行ってしまった。俺がいない間に二人で何を話したのだとか、何があったのだとか、有り得ないと分かっているのに嫌な想像をしてしまう。
万が一ってこともあるかもしれない。名前は嘘でも俺に別れるって言ったんだから。

「…て、鉄朗」
「………」
「と、りあえず中、入る?」
「……ん」

震える名前を早く抱き締めてやりたい。大人しく頷いた俺に少し安堵した様子の名前。中に入った瞬間、俺はそんな名前の手を取った。

「名前」
「…な、に」
「今日約束してたのに、ごめん」
「…仕事だもん、しょうがないよ」
「昨日言ってたやつだけど」

ビクッ。分かりやすく名前が反応して、罪悪感。昨日の俺、まじで勘弁してくれ。

「その…俺は、別れたくないんですけど」

何から伝えればいいか分からなかったけど、まずは絶対に言いたかったこと。すると名前は、びっくりしたように俺を見上げてその目は限界まで涙を堪えている。
ああ、名前にこんな表情させて、俺ほんと最低だな。

「で、も…私、…頑張ってる鉄朗に、我儘言って、負担にしかならないよ」
「…なれるもんなら、なればいいんじゃない。俺はそうは思わないけど」
「でも…」
「そんなんが負担になるならとっくにもう一緒にいねぇし、そんなことくらいでだめになると思います?この俺が?」
「………」
「俺の方がずっと名前といたいし、会えなかったらしんどいし、…離れるとか無理」
「ふっ…ぅく、…」
「…こんな、花とか買ってきちゃうくらいには名前チャンにゾッコンだし、振られたくないって思ってんですけどね?」
「ひっ…てつ、ろ」
「…別れるっていうの、取り消してくんない?」
「んっ…、ぅん…!」

あーあー、泣かせちゃった。繋いだ右手をそのまま引っ張れば、大人しく俺の胸に収まる名前を抱き締める。久しぶりに味わう感触をどうしても手放したくなくて、さらに強く力を込めれば名前もそれに応えて背中に手を回してくれる。

「…てつろ、仕事は?」
「ほっぽって帰って来ちゃった」
「あは…外せないって、言ってたじゃん。嘘つき」
「ふっ…そーね。ごめんね」
「ん…ありがとぉ」

ぐすぐすと鼻を啜りながらそう言う名前が可愛くって早くちゅーでもしてやりたいのに、本人は顔を見られたくないのか頑なに俺の胸から顔を上げようとしない。
俺は仕方なく、まだ気になっていることをここから見えるつむじに投げかけた。

「で。なんで夜久がこっから出て来たわけ?」
「へ?」
「…さっき。まさか昨日の夜から二人でいたの?」
「なっ…!」

おっ、顔上げた。勢いよく見上げられた名前の顔はぐっちゃぐちゃでお世辞にも綺麗とは言えないのに、でも赤くなった頬も、潤んだ瞳も、世界中の誰よりも愛おしい。すり、とその頬に手を添えれば俺から視線を逸らせなくなった名前は、観念したように口を開いた。

「…サプライズだよ」
「えっどんなサプライズ」
「……自分で考えてよ、ばーか」
「…無茶すぎない?……後で、って、言ってたじゃん」
「ふふ、…鉄朗もだよ」
「?」

名前の真意は未だ分からないけれど、でもやっと笑ってくれた表情が本当に可愛いくて。まぁ先にポケットに入っている指輪と既にちょっと草臥れた花束を渡して、その返事を貰ってからまたしっかり聞くとしよう。そう考えながらとりあえずその小さな唇に口づけを落とした。


20.12.31.
title by 草臥れた愛で良ければ



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