短編

優しい瞳の怪物さん



ツン、と肩をつつかれた気がした。反射で後ろに振り向けば、そこにいるのは当たり前だが後ろの席の男の子。黒尾くん。

「苗字サン、髪濡れてんね」
「うん、長いとすぐに乾かなくってさぁ」
「ふーん…プールいいなぁ」
「男子は夏休み終わってからだもんね」
「まじ…あり得ねぇ」

言いながら私の髪を掬う黒尾くんに胸が鳴るけど、それがあまりにも自然すぎて何も言えなかった。黒尾くんとは、この席になってからちょくちょく話すようになった。背が高いバレー部の男子、これだけだった私の中の黒尾くん情報は、この数週間でかなりアップデートされたと思う。

うちの学校は夏休み挟んで男女で水泳の授業が分かれていて、女子は夏休み前、男子は夏休みが終わってから行われる。
この暑さの中、体育館やグランドで体育をする男子はいつも汗だくで、水泳終わりは何となく申し訳ない気持ちになった。
そうは言っても、私のせいではないし仕方ないのだけど。

「男女一緒にしてくれたらいーのに」
「それはそれで…高校生にもなって恥ずかしくない?」
「でも友達の学校は一緒だって言ってたぜ」
「あ、そうなの?じゃあうちの学校はこうだっただけかぁ」

呟きながら、やっぱりこれで良かったと思ってしまった。だって男子と水泳なんか恥ずかしいし。

「男子なんて女子とプール入るってなったらウハウハだけどな」
「えぇ?く、黒尾くんでもそんなこと言うんだね」
「え?そりゃあ俺だって健全な男子高校生ですし?」
「そ、そっか…」
「あ、ちょっと待って、苗字サン引いた?」
「ううん、なんか黒尾くんっていつも大人っぽいから、普通にそういうこと言うんだなぁって思っただけ」
「そりゃーね」

ニヤ、と笑って黒尾くんは「俺だって健全な男子高校生ですから」って、さっきとまんま同じセリフを口にする。そのときの表情に何故か目を奪われて、暫く黒尾くんを見つめてしまっていたことに気付いたのはたっぷり5秒は経ってからだった。

「そんなに見つめられたら照れちゃうんですけど」
「あ、うわ、ぁ、ごめん」
「苗字サンのえっちー」
「く、黒尾くんだって」
「ん?」
「女子とプール入りたいとか、言ってるじゃん」
「だから?」
「えっちだよ」

そう返すと、黒尾くんはまた意地悪く笑った。

「それをえっちだって思う苗字サンがえっちだよね?」
「え?え?」
「ぶふ、ふ、苗字サン揶揄い甲斐あるわー」
「あ、遊ばないでよ!」
「遊びじゃないわ、本気よ!」
「へ、え?」
「くくっ…その顔、か、かわいー」
「えぇ?…黒尾くんってちょっと変な人?」
「ひでぇ」

もしかして、いや、もしかしなくても、黒尾くんは私を揶揄って遊んでいる。いつもはここまで話が続かなかったから知らなかったけど、大人っぽい風貌とは裏腹に意外に男子高校生らしい一面もあるらしい。彼が自称するように。

よくわからないけど、楽しそうな黒尾くんにつられて私も自然に笑みが溢れた。それを見た黒尾くんは「いやでもさ、」と言いながら身を乗り出してきて、急に少し近くなった距離に密かに反応してしまう。わぁ、黒尾くん、男の子なのに肌綺麗。なんて考えたのは気を紛らわすためだったのに、きっと失敗だ。だって改めて見る黒尾くんは、客観的に見たってかっこいいんだから。

「あり、苗字サン?だいじょーぶ?」
「え、あ、はい!大丈夫です!」
「そ?あ、で、続き。プール入りたいっつーのはまじなのよ」
「暑いもんねぇ…」
「だから、夏休み、一緒にプール行きません?」
「えっ」
「部活オフの日ちょっとしかないから、そこに合わせてもらう形になるけど」
「え、あ、私と、黒尾くんで?プール?」
「うん。だって苗字サンの水着姿の見たいし」
「えっ!?」
「じゃ、考えといてな」
「え、黒尾く、」

黒尾くんが机越しに前へ乗り出していた体を戻したのと、先生が入ってきたのは同時だった。そういえば、チャイム、鳴ったかも。
「ほら苗字サン、前向いて」なんて言って笑う黒尾くんときたら、なんて楽しそうなんだろう。まるで悪戯が成功したような、そんな顔。

渋々前を向いた私は、先生の話なんてそっちのけで混乱する頭の中、黒尾くんの言葉の意味を考えていた。

夏休みに、私と黒尾くんで、プール?
今まで遊んだことないのに?
私の水着姿が見たいって、どういうこと?
去年買った水着ってどんなだっけ?
黒尾くんはどんな水着が好きなんだろう?

体育の後の授業はいつも空腹と眠気と戦いながら過ごしているのに、今日は全くそれどころじゃない。後ろから刺さる視線を背中で感じながら、私は必死に頭を働かせるのだった。


title by 草臥れた愛で良ければ
20.8.3.



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