Secret garden(3/5)

「――オヤジいるかい?」
港に浮かぶ白クジラ。
大きな帆船の中でも一際立派な作りを持つ船長室には〈オヤジ〉と皆から呼ばれる船長の姿があった。
ベッドの上で酒を煽るその人物にマルコは静かに歩み寄る
「どうした? マルコ」
表情の冴えないマルコを見て白ひげが声を掛ける。
「……相談があるんだよい」
「相談?」
首を傾げた白ひげにマルコは躊躇いながらも口を開いた。
「……丘の上に行ったんだよい」
その言葉に白ひげは眉根を寄せた。
そしてそんな白ひげの表情を見てマルコもまた意心地悪そうに目を伏せた。
丘の上にあるのは他でもない、あの建物――。
マルコの言葉はそのままマルコが白ひげの忠告を破ったことを示していた。
「……仕方のねぇ野郎だ」
何故約束を破ったのか、とは聞かなかった。
ただ呆れるようにそう言って、白ひげは持っていたビンの残りの酒を一気に飲み干した。空いたビンが床に転がされる。
「……真っ黒い闇ってなんだと思うよい?」
マルコはおもむろに口を開いた。
思い出されるのは昼間の出来事。
「闇?」
怪訝な顔をする白ひげにマルコは頷いてみせる。
「見たんだよい。真っ黒な闇を。霧みたいに漂っていて、その闇が花を呑み込んだらバラバラになったんだよい。それでその闇は人の体から出ていたんだい」
サッチのあの時の姿を有り様に語る。
通常ならば信じられないような話だが、長く海を渡り、数多くの土地を踏んできた白ひげにとってはそんな話は不思議でもなんでも無かった。
そして彼もまたそんな通常ならば考えられないような力を得ている――。
「……悪魔の実か」
「やっぱりオヤジもそう思うかい!?」
白ひげの答えにマルコは顔を輝かせた。
それは自らの考えが間違っていなかったという喜びを示している。
「能力者があそこにいたのか……」
白ひげの言葉にマルコは力を込めて頷く。
「オヤジが俺をあそこに行かせたくなかった訳がわかったよい。そいつから話を聞いたんだい」
「そいつってのはその能力者のことか?」
もう一度マルコは頷いた。
「俺と同じ年頃だったよい。なぁ、オヤジ。なんとかならないのかい? あいつはあそこにいる必要なんて無いんだよい」
マルコの言葉に白ひげは難色を示した。
「なんとか――ってぇのはそいつをお前はそこから出したいってことか?」
白ひげの言葉にまた頷く。
「それは無理だ」
きっぱりと白ひげは言葉を述べた。
「どうしてだい!」
反対されるとは思っていなかったのだろう。マルコはベッド腰掛けているオヤジの膝に縋り付いた。
「あそこにいる連中が特別な理由があってそこに閉じ込められて、出ることができないのは知ってるよい! でもサッチは違うんだい! 至ってまともな、オヤジと同じただの能力者なんだよい!」
――ただの能力者か。
マルコの言葉に対し、白ひげは心の中で呟く。
マルコはその能力の重みを何も感じていない。
能力を得るのにもリスクがあり、能力を得たことでその体は海に嫌われてしまうし、弱いものなら売買の対象ともなる。また、実を食べた当時のその者の持つ身体能力と実の能力が噛み合わなければ暴走だって起こり得る。
――おそらく、その子供もそれが原因であそこに放り込まれたのだろう。
白ひげは自分の足元に縋り付くマルコを見た。
「……そいつはそこから出たいって言っていたのか?」
白ひげの言葉にハッとしたようにマルコは目を見開いて、そして首を振った。
「いいや、言わなかったよい。自分はここから出るべきじゃないって……」
手の平が一層白ひげのズボンを握り締めた。
「なら、諦めるんだな」
「だからなんでだよい!」
告げられた白ひげの言葉がマルコには信じられなかった。
この白ひげ海賊団は大所帯だ。
マルコの乗る、白いクジラがモデルのモビー・ディック号に加え、それよりも一回り小さい黒いクジラの帆船もこの海賊団は率いている。
そしてそこで暮らす船員たち。
元より海賊であり、白ひげに惚れ込み仲間となった者たちも多いが、中には事情を抱え、陸で暮らせなくなった者たちなどもいる。
何を隠そうマルコもそうして拾われたのだ。
悪名高い海賊として世間で知られてはいるものの、その実態は違う。それはマルコがよく知っていた。
白ひげは困っている者たちを無下に見捨てたりなどしない――。
それなのにあの病院で孤独を過ごしているだろうサッチを見捨てておけと、暗にそう言っている。
それがマルコには信じられなかった。
「なんでなんだよい、オヤジ!」
納得出来ないマルコはオヤジに詰め寄る。
そんなマルコにオヤジは静かに言った。
「本人が望んでねぇことを俺はどうすることも出来ねぇ」
「本心で望んでるわけじゃねぇよい! オヤジだってそれくらいわかるだろい?」
訴えるようにマルコは白ひげの目を見つめる。
「あいつは本当は外に出たいはずなんだい。それなのに、あの能力が悪いもんだって思い込んでいるんだ。でも、能力自体が悪いもんだなんてそんなことはねぇだろい?」
そう言ってマルコは白ひげをじっと見つめる。
マルコのこの言葉は白ひげへの信頼から来ている。
同じように能力を持つ白ひげはそれでもマルコにとって尊敬の対象であり、何ものにも代え難い存在だ。
マルコの訴えに白ひげは口を閉ざす。
だが、再び開いた口はマルコの求める答えをくれはしなかった。
「だけどお前のその話じゃそいつをそこから連れ出すのは難しい。説得するにしても俺はそこには行けねぇ。ここにはここの決まりがある」
「なら、俺がするよい!」
「説得出るのか?」
「それは……」
うん、とはとても言えなかった。
サッチの心はあの時の態度で十二分によく分かっていたし、再び会いに行ったとしても受け入れて貰えるかどうかマルコには自信が無かった。
自分はその手を一度振り払ってしまった――。
そんな思いがマルコの胸の中にはある。
敢えてサッチが自分にそうさせたのだろうということはマルコも既に分かっていたがそれでも拒絶してしまったという事実は消えない。
「……せめて俺が能力者だったら――」
黙り込んだマルコが不意に言葉を漏らした。
「そうだよい! 俺もオヤジと同じように、あいつと……あいつと同じように能力があれば受け入れて貰えるかもしれないのに――」
ギリッと歯を食いしばる音がした。
マルコの両の拳が固く握られている。
白ひげは複雑な目でそれを見た。
余りにも幼い発想だった。
同じ立場に身を置くというのは相手を求めることに置いて一つの手段だ。
けれどそれは解釈を間違えればただの同情であり、自己犠牲。自身が満足するための、相手には何のためにもならない行為だ。
そのことを分かっているのだろうか――。
「……友達になりたいんだよい」
ポツリとマルコが呟く。
それは白ひげに言っているわけではなく、自然に零れ落ちたものだった。
「友達になりてぇのか……」
白ひげの言葉にマルコはその顔を見上げてしっかりと首を振った。その青い目は微かに滲んでいる。それ程までにあの初年のことが気に入っているのだろう。白ひげは迷った。
マルコがここまで誰かに執着することは実は珍しいことだった。
良く言えば聞き分けが良く、悪く言えば諦めが良過ぎる。
白ひげの言うこともなんであろうと必ず守るし、それはそれで良いことなのだが、本来のこの年頃の少年には少し物足りないことだと思う。
例え拾われた恩があるにしても自分たちは既に家族なのだ。もっと甘えたって、我が儘を言ったって、構わない。
むしろ、そう在るべきだ――。
もしかしたらマルコが出会ったという能力者である子供は聞き分けの良過ぎるこの息子を変えてくれるかもしれない。
そんな思いが白ひげの中に生まれた。
だが、自らが説得出来ないことも確かだった。
無理やりに少年を連れ出し、時期にそのことを納得させることも可能ではあるだろうがそんなことをすればこの街との関係が崩れてしまう。
自分たちは海賊だ。
けれどそれは決して無差別な他人からの略奪を好むためではなく、ただ海を渡り歩き、自由に生きることを選択した結果だ。様々なきっかけはあれども、そのことはここの船にいる誰もが変わらない。
だからこそ無用な争いは避けたかった。
あの建物自体にも問題はある。
だが、それでもルールというものがこの島にもある。
世の中にはあんな場所よりもひどい場所など数多く存在し、そこで行われていることは見るも無残だ。むしろあの場所はまだその点で言えば良心的だった。
むやみにあそこを開放したとして中の者たちが幸せになれるとも限らない。それこそ精神を病んだ者たちばかりが集められているのだから――。
だが、マルコはあの少年だけは違うと言う。例外で、自分らと何も変わらないと。
確かにそうなのだろう。
精神異常者と悪魔の実の能力者は全くもって別次元の者だ。
能力に取り付かれ頭がおかしくなったなどという話は聞いたことがない。マルコの話からもその少年が誤ってその病院へと身を置くことになったのがわかる。
それでも自分が動くことが出来ないのだ。
「――能力が欲しいのか、マルコ」
重苦しい白ひげの声がマルコの耳に届いた。
白ひげが思いに耽る中、マルコは浮かされたように自らが能力者であったらと執拗に繰り返していた。
自らの過ちを悔いるように何度も何度も――。
言葉を受けてマルコは驚いたように白ひげを見た。その瞳には期待が寄せられている。
白ひげは深く息を吐いた。
「能力者になるって言うのはお前が思っている以上に大変なことだ。お前は海が好きだな、マルコ」
「ああ、好きだよい」
船外から響く波音を思い出したようにその耳が受け取る。
今日は風が穏やかなのかさざめく波はさながら子守唄のようだ。広い大きなこの海は時に厳しいがいつだってマルコの心を癒してくれる。
「能力者は泳げねぇ。それはお前も知ってるな」
白ひげの言葉にマルコは頷く。当然のことだった。
「戦闘に置いちゃ能力者は有利になることが多いが、その分狙われもする。海だけでなく、水のある環境――風呂なんかでも力を消耗することになる」
淡々と語る白ひげの言葉をマルコは黙って聞いていた
「――力を得ればそれだけ危険もある。人が羨む力でもあるが、人が畏怖する力でもあって、能力者なんてもんはおいそれとなるもんじゃねぇ」
「だけどオヤジ――」
それでは自分はどうしたらいいのか。ただの説得ではきっとあの少年は振り向いてくれない。
能力を得て彼が振り向いてくれるかはマルコにもわからなかったがそれでも可能性は上がるかもしれなかった。
「……それでもお前は能力者になりたいのか、マルコ?」
白ひげの最後の言葉にマルコは息を呑んだ。
期待していて、それでも心の底では諦めていた言葉だった。
白ひげは自身の服を握っていたマルコの手を外させた。そしておもむろに立ち上がり、部屋の隅にある棚の奥へと手を伸ばした。
「あっ――」
出てきたのは古い木箱だ。古めかしく格式高い鍵穴はすでに壊されている。その木箱の蓋に白ひげが手をかければ、中から現れたのは奇妙な果実――。
それは他でもない、悪魔の実だった。
「オヤジっ……!」
マルコの声が掠れる。
まさに自分が求めていたものがここにある。
「これは傘下の海賊のやつが送ってきた代物だ。いらねぇとは言ったんだがこの間の借りだからと――。まったく律儀な奴だ」
白ひげは実を得た経緯を話すがマルコはもはや聞いてはいない、ただ目の前にある実を食い入るように見つめていた。
そんなマルコの傍ら、床の上に白ひげもドシリと座り込む。
そしてマルコに向かって言葉を続けた。
「……送り返す旨の手紙を送ったんだが、その必要はねぇと送り返してきやがった。俺ぁ、もう能力を持っているからこれは食えねぇ。それならこの船にいる奴の誰かに食わせるか、然るべき相手に譲り渡すか――。それを迷っていたところだ」
マルコはその実にそっと手を触れた。
不思議な模様が刻まれているにも関わらず、その面はとても滑らかで見事な曲面を描いている。大きさも手の平ほどでこれならばあっという間に食べられそうだ。
期待を込めた眼差しでマルコは白ひげを見た。
「……食べたいか?」
「食べたいよい!」
白ひげの問いにマルコは迷わず答えた。
これこそ待ち望んでいた瞬間だった。
箱を差し出す白ひげにマルコが中の実に手を伸ばす。
「思えばこれも運命かもしれねぇ。だが、マルコ。過剰な期待はするな。その実にも、あの少年にも――」
過剰な期待というのが何を指し示すのかマルコにはよくわからなかった。
――けれどこれで相手をこちらに引き込めるかもしれない。
そんな期待感と共にマルコは白ひげの目の前でその実に齧り付いた。
実は見た目に反し、恐ろしく不味く、マルコは喉を突っかえらせたがそれでも無理やりに飲み込んだ。無理やり押しいった物の感触に喉が咳き込む。その体を白ひげは優しく叩いてやった。
変化が訪れるのはすぐだ。
白ひげもマルコに食わせたその実がなんであるかは知らなかった。
悪魔の実が大様にまとめられたその図鑑にもそれは示されていなかった。
大事な、幼い息子。
そのマルコがどんな実を口にしたのか。
不安げに見つめる白ひげの前に青い光が走った。



「――居た!」
息を切らした、嬉しそうな声が庭園に響いた。
「お前っ――」
目の前に現れたマルコを見て、サッチは今までにない驚いた表情を見せた。
「なんでまた……」
その声には動揺が滲んでいた。
まさか再びマルコがここに訪れるとはサッチは微塵も思ってはなかった。
あの姿を見たものが自分を心の底から受け入れるはずがないと――。
「会えて嬉しいよい」
けれどマルコは訪れた。
そして驚くサッチの目の前で満面の笑を浮かべてみせた。
対するサッチの表情は曇っている。
それも仕方のないことだった。
「――いい加減にしろよ」
心の動揺を押し隠すように、サッチはマルコに言葉を投げ捨てた。
「何がだい?」
サッチの言葉にマルコは平然として聞き返す。
それがさらにサッチを苛立たせる。
「もう来るなって言っただろ!」
その恍けた顔を怒鳴り散らす。
けれどマルコも毅然としていった。
「わかったとは言ってねぇ」
凛とした言葉が響く。
けれどその回答もサッチを煽る原因にしかならない。
「だから迷惑なのがわからねぇのか!」
サッチは声を張り上げた。
目の前の相手を睨み上げる。
「わからねぇ、わかりたくなんかねぇよい!」
マルコもまた声を張り上げる。
「お前が俺を嫌ってようと、突き放したいと思っていようと、俺はお前が好きだ」
マルコの告白にサッチは固まった。
「まだそんなことを言うのか?」
変わったやつだと思っていたがここまでとは。
サッチは心の中で呆れ返った。
なんでこの少年は自分の思う通りにならないのだろう。
「なぁ、俺もお前と同じになったんだよい」
「はぁ?」
マルコの言葉にサッチが顔を顰めた。
何のことを言っているのかわからない。
「――見てくれよい」
そう言ってマルコは言葉と共に両腕を広げた。

「それは……!」
サッチの目が極限まで開く。目の前の光景が信じられないというように。実際信じられなかった。
両腕を広げてみせたマルコのその腕を通常ではありえないものが包んでいる。
それは炎。青く燃え盛る業火だった。
太陽が光を散らす昼間でなければ、今が淡い光しか持たぬ夜であったなら、それは目が眩む程の光に違いない。
それでもキラキラと輝きを放つ炎は実に美しく見えた。
「触ってみてくれよい――」
マルコがサッチへと手を伸ばす。
だがサッチは一歩下がり、その腕を振り払った。
あの時と真逆だ。
けれどマルコは微笑んで逃げた腕を掴み直した。ビクつくサッチの腕の中で炎は燦然と燃えた。
だが、熱くない。
業火のように見えるその炎はその実、何の熱も持ってはいなかった。
「これで同じだよい」
呆然とするサッチにマルコの言葉が響いた。
優しく柔らかく目の前の顔が微笑む。
理解するのには少し時間が掛かった。
目の前の相手が自身の姿を見て、何を考え、何をしてしまったのか。
その事実を理解してサッチの中に何とも言えない思いが込み上げる。
嬉しそうな相手の声とは裏腹に、冷めたものがサッチの胸から腹へと下る――。

「――ふざけんな」
しばしの沈黙の後、空気を揺るがしたのは怒気の滲んだ重い声だった。
「え?」
間の抜けたマルコの声が響く。
「放せよ!」
掴まれた手をサッチが乱暴に振り払う。
急な行動にマルコも反応出来ずにその腕を離してしまう。
そうして一度は離れた相手と再び視線を交わした時、相手の瞳を見てマルコは固まった。
その瞳には思わず息を詰まらせる程の嫌悪が映し出されていた。
「――それで俺と同じになったつもりかよ」
いつもの如く、冷めた態度。
けれどその声色に潜む今までに無い怒りと嫌悪感はマルコにもわかるものだった。
高揚していたマルコの胸が一気に冷え切る。
何故、目の前の少年はそんなにも怒りを露わにしているのだろうか。
予想外の態度に脳は上手く回らない。
そんなマルコにサッチは言葉を続けた。
「――同じようにおかしな力を身に付ければ、俺と同じになれると思ったのか。俺と同じく、化け物になれば、俺と同じになれるって……俺が、同じ化け物の存在を望んでいるとそう思ったわけだ」
サッチの言葉にマルコの体が無意識にフラつく。
その言葉通りだった。
「馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
怒りに満ちた声が飛ぶ。
ざわざわと風に揺られる花々は、まるでその声に怯えているように見えた。
マルコの体がカタカタと震える。
「――そんなつもりじゃ」
辛うじて言葉を吐く。だが、その声は驚くほど小さい。
「俺は別に仲間なんて望んでない」
サッチの声が静かに響く。
「なんでそんな勝手なことをしたんだ」
その声にもはや覇気は無かった。
悲痛さえも滲んだその声にマルコは自分が取り返しのつかないことをしたのだと悟る。
悟ったが、それはもうすでに後悔しても遅いことだった。
自分のした行動は希望を導き出すものではなく、ただ目の前の少年を哀しませるだけに過ぎなかったのだと――。
「……ごめんよい」
誤ってもすむことでないのはわかっていた。それでも、その言葉以外に語るべきものをマルコは思いつけなかった。
「……謝られることじゃねぇ。でも……お前がそうなったのは俺の責任じゃない」
言い訳のような言葉を残し、立ち尽くすマルコを置いて、サッチは自らを囲う建物の中へと帰っていった。
またしてもその背を追うことはマルコには出来なかった。



パタリパタリと足音が鳴る。
固く乾いた地面の上を足が踏んだり、浮いたりと、ゆっくりその歩を進めていた。
俯くマルコの顔には焦燥すら無い。
後悔に満ちた悲しげな表情がその顔を覆っていた。
『聞いたか、あの噂……』
『ああ、なんでも真っ黒な物が丘の上を漂っていたらしい』
『……丘ってあのキチガイ共のいる?』
『そうらしい。全く迷惑な話だ。変人だけでなく、怪奇現象だなんて、いよいよ呪われた場所だぜ――』
不意に街の中でヒソヒソと囁く、不穏な声がマルコの耳に届いた。
「……それは丘の上にある病院のことかよい?」
気がついたら声を掛けていた。
急に話に入ってきた幼いマルコを見て、話していた大人たちは驚いた表情を浮かべたがすぐに話しを続けてくれた。
「あの場所には近づくなよ、坊主」
「ああ、なんせ気味の悪い場所だからな」
「頭のイかれた連中のいるところさ」
「幸い中には閉じ込められているがあんなもんがこの街に或こと自体俺は不愉快だね」
マルコがその場所から戻り、またそこで暮らす少年と会い、言葉を交わした事実をこの人たちは知らない。
「人の話も心もわからないような連中さ」
「それに最近じゃ妙な噂まで加わっちまってなぁ。なんでもそいつらの怨念が渦巻いて現れるんだと」
「どこからともなく真っ黒な霧が立ち込めるらしい。この間なんてそれが下からもはっきり見えたそうだ」
彼らの言葉が一体何を指しているのかマルコにはわかった。
その言葉の内容を理解し、その者たちが抱いている感情を知って、マルコは今までに無い怒りを感じた。
あの少年のことを知っていれば、わかる――。
彼は人の話も心もきちんと理解出来るし、何より人を思う心だってきちんと持っている。
あそこに暮らす他の者たちがどんな存在かはマルコだって知らないが、あの闇は断じてこの者たちが言うような物ではない。
あれは――、
あれはそんな物では無かった――。

「……会ったことも無いくせに何がわかるんだよい」
「は?」
突然言葉を漏らしたマルコを大人たちが見下ろす。
その拳は震え、俯く顔の唇もまた震えていた。
けれど大人たちは気づかない。平然と言葉を続けた。
「会わなくったってわかるさ」
「そうそう、あれは世の中のゴミだ」
「いっそ丸ごと葬り去るべきかもしれないな」
「言えてる。あんなやつら何の役にも立ちやしねぇ」
嘲笑さえ含んだその声に、頭のどこかでプツリと何かが切れた音がした。
「――ふざけるなよい」
冷えた声が響く。
「あいつらだって人間だろうよい」
男たちは笑っているがマルコにはとてもそれを笑えなかった。
マルコの言葉に大人たちの談笑が止まる。驚いたような目で目の前の子供を見つめた。
そしてその唇は今度こそ爆笑して言った。
「人間? 馬鹿、あいつらはもはや人じゃねぇよ」
「そうそう。言うなればそう……きっと化け物だな」
「違いない」
卑下に満ちたその言葉――。
その言葉は決して他人が言っていいものではなかった。
その人物が自身の心情を押し殺し、自分を貶めるために用いた、その言葉。
冗談まがいにでも言ってはならない言葉だった。
その言葉が放たれた瞬間。
それは地面を見つめる青い瞳がその光を熾烈に燃やした瞬間だった――。

[ 4/14 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -