敦くんが、おかしい。
廊下でばったり会った氷室せんぱいに泣きつくようにそう言えば、氷室せんぱいはそれはもういい笑顔で「いつものことじゃないか」とひとこと言ってのけた。氷室せんぱいはいつも優しいのに、その優しさからくる素直さがたまに怖い。そういうことじゃないんです!と思わず声を荒げると、氷室せんぱいはきょとんとした顔でわたしに目線を合わせた。
「どうしたの?」
「…敦くんが、ぜんぜんお菓子を食べてないんです…」
「え?」
「た、誕生日なのにっ!お菓子をひとくちも食べてないんです…うう…っ」
今日は敦くんの誕生日だということで、ファンの女の子たちが挙って美味しそうなお菓子を用意していた。なのに敦くんはすべて受け取らず、最初はわたしのために遠慮してくれているのかと思ったけれど、いつも食べているスナック菓子や甘い物も今日はくちにしていない。ぼろりと零れてしまった涙を制服の袖で拭おうとすると、氷室せんぱいが手で制して薄い空色のハンカチを差し出してくれた。ぎゅっと目に押し当ててなんとか引っ込めようと頑張るけれど、一度決壊してしまった涙腺はなかなかもとには戻らなくて。氷室せんぱいが子供をあやすみたいに頭を撫でてくるから、我慢していたぶん余計に涙が溢れた。氷室せんぱいは何かを考え込むようにして、わたしが持っていた紙袋を取り上げる。
「あっ」
「アツシがお菓子を食べていない理由は…まあ置いておいて、キミが泣いている理由はこれかな?」
にこ、と笑ったせんぱいに小さく頷く。大きすぎない紙袋に入っているのは、敦くんのために焼いたショートケーキだ。今日のためにいっぱいいっぱい練習した、あまーいショートケーキ。氷室せんぱいは美味しそうな匂いがするね、と紙袋を顔に近付けた。
「ショートケーキを作ってきたはいいけど、肝心の紫原がお菓子に興味がなくなってるみたいで不安になった…こんなところ?」
「…はい」
「アツシに限ってそれはないと思うんだけど…。そうだね、じゃあそのケーキ、オレにくれるかな?」
「へっ!?」
突然の提案に流れっぱなしだった涙も止まると、氷室せんぱいは優しい笑顔を崩さないまま ね?、と首を傾げた。
このケーキは敦くんのために作ったもので、でも敦くんは貰ってくれないかもしれなくて…。キョヒ、されるくらいなら、あげちゃった方がいいのかも…
「……あ、の。氷室せんぱい」
「ん?」
「それ…」
どうぞ、と言いかけたところで、あぁーッ!と大きな叫び声が響いた。とっさに振り向くと、そこには見慣れた長身…敦くんがいて。敦くんは普段だるそうに開いている目を珍しく吊り上げていた。
「室ちん、なにやってんの」
「ちょっとなまえと話していただけだよ」
「っじゃあ、それは?」
「それって…ケーキのことかな」
氷室せんぱいがわざとらしくケーキの入った紙袋を揺らすと、敦くんはいまにも泣き出しそうに眉を歪めて、今度はわたしのほうに振り返った。
「なまえちんっ」
「え、え、敦くんどうしたの…?」
「あれ、オレにくれるんじゃないの!?オレ、なまえちんがケーキくれると思って、今日一日お菓子がまんしてたのに…っ!」
「え…っ」
うーっとだだをこねるみたいに抱きつかれて、自然と大きな背中に腕を回してしまう。首元にうずめられた敦くんの顔がくすぐったくて、とりあえずその紫色の髪をとかすように撫でた。
「なまえちん、最近ずっと甘い匂いしてたからケーキ練習してんのかと思って、そしたら今日ずっと待っててもくんねーし…っ」
「ご、ごめんね敦くん…」
「なまえちん、オレのこと嫌いになったの?室ちんのほうが、好きなの?」
「なっ、違うよ!」
首がとれるんじゃないかと思うくらいぶんぶんと横に振ったけれど敦くんの泣きそうな顔はなおらない。すると、氷室せんぱいがさっきの流れを説明するように助け船を出してくれた。敦くんは そっか、と納得したようにうなずいた。…抱きつくのは、止めてくれないみたいだけど。
「オレがお菓子嫌いになるわけないのに」
「ですよねー…」
「つーか、もしもお菓子きらいになってもなまえちんが作ってくれたケーキなら食べるし〜」
だから室ちんそれ返して、と紙袋を奪い取ってその場でケーキを食べ始める敦くんに、わたしは満面の、氷室せんぱいは少し困ったような笑顔を浮かべるのだった。
「あ…忘れてた。敦くん」
「ん〜?」
「誕生日、おめでとう!」
何はともあれ、渡せてよかった!
20121013
遅くなっちゃった…!むっくん誕生日おめでとうございますっ。わたしは当日友人と○まい棒をむさぼっていました。