彼女の髪が鼻先を掠めた瞬間ぐるんと反転した世界。背中から叩きつけられた痛みよりもなによりも、このやわらかな香りを忘れてなるものかということで頭がいっぱいだった。
ぼくのかわいいバンビちゃん
「おはようございますなまえ班長、あなたのニコが本日もさわやかに朝食へお誘いに参りましたよ」
「もう、いきなり背後から飛び掛られたらびっくりするじゃない」
でも投げちゃってごめんと言いながら差し出された手を借りて身体を起こし立ち上がる。班長が投げる途中で気づいて力を抜いてくれたおかげでたいしたことはないのだが、チャンスは最大限に生かすべきだとその手を握った。
それにしてもなんと小さな手だ。剣を振るう者にできる特有の部分的な皮膚の硬化をのぞけば、ごく普通の女の手だった。
手だけではない。俺の胸にも届かないような小さな身体や、笑うと少し幼くなる表情だけを見て、誰が彼女を数多(あまた)の巨人を駆逐してきた歴戦のつわものだと思うだろうか。
数年前初めて出会ったときのことを思い出した。幾度となく頭の中で繰り返される、あの場景。
のろのろと歩くその歩幅に合わせて歩調をゆるめながら、寝癖の立った頭と眠たげな顔をじっくり見つめる。
いつからかはわからない。俺は彼女に羨望と憧憬と恋心を抱いていた。
「今日も一段と素敵ですね、おはようのキスしていいですか」
「そうかな、昨日と同じだと思うけど。あっやべ、髪とかしてねぇや。リヴァイにぶっ飛ばされる」
手ぐしで髪を整えようとするが、よけいくしゃくしゃになっているのが微笑ましい。
俺の台詞の後半をさらっと聞き流すのはきっと恥ずかしいからだ。まったくかわいい人だな。さりげなく肩を抱こうとしたら絶妙のタイミングで班長がしゃがみ込みあえなく未遂に終わる。
「やったー飴拾った。あとでリヴァイにみせようっと」
「よ、よかったですね・・・!」
くっ、笑顔がまぶしすぎて直視できない!あますことなくこの目に焼き付けたいというのに!
それより、さっきからちょいちょい挟まれている不快単語が気になる。班長の言葉はひとつも聞き漏らず記憶する自信があるが、これ以上不快指数が上がる前に早急に話を変えなければ。
「そういや、このあいだ街で新しいカフェ見つけたんです」
「いいねえ、どんな店?」
掴みは完璧。女性はこの手の話題が好きだというのは周知の事実だ。
自然なテンポを意識しつつ追加攻撃に入る。
「まだ入ったことはないんですけど、落ち着いた外観だしオープンテラスもあって結構おしゃれなんですよ。噂じゃお茶もケーキも美味いって女性に人気みたいです」
「ケーキ!ケーキ食べたい!ホールごとがっつくのが夢なんだよね!」
よっしゃ食いついた。店のおしゃれさそっちのけでケーキの部分のみにものすごい反応を見せる班長。ちょっとだけ食い意地の張っているところもキュート極まりない。この笑顔を見るためならホールでもなんでもいくらだって食わせてやるぜ。
身近な女達の会話から地道に情報収集し、店を調べ上げ、近くにバーやら宿があることを条件に絞り込みを行い、練りに練った初デート計画だ。ここはビシっと決めて成功させなければ。
―――俺ならやれる。そう確信していざ口を開く。
「それで今度の休日なんですけどそこに、」
「うん、リヴァイも誘って行こうよ!ケーキ楽しみ!」
「へっ?いやあのはんちょ・・・」
「あ、リヴァイおはよう。今日もいい感じに顔色悪いな」
一瞬にして崩れ去る初デート計画に眩暈(めまい)がした。班長はまぶしい笑顔を振りまいていきなり沸いて出た兵長に挨拶しながら食堂へ入って行く。
「見て見て、さっき廊下で飴拾ったんだ」
「拾い食いするなと何度言えばわかるんだおまえは」
「あー!私の飴がっ!」
ゴミ箱にストライクする剛速球。なんということを!せっかく班長が喜んでるのに!
不意に兵長の鋭い眼光が俺を射抜くが負けじと睨み返す。気に入らない。班長はこんな男のどこがいいんだ。
「フン」
俺をあざ笑うかのように(実際1ミリも笑ってないけど)鼻を鳴らして食堂のドアを閉める兵長。
なにが悲しくてせっかくの休日を奴と過ごさなければならないのか。そんなの絶対にごめんだ。
なのに数日後三人でカフェに来ている俺。女性客で賑わうおしゃれなオープンテラスで浮きまくっている兵長。そしてなぜか四角いテーブルで隣り合って座ってる状態なんだけどこれどんな罰ゲーム?
ちびちびと味の感じられないお茶を飲みながら、向かいの席に座った班長が幸せそうな顔でケーキを口いっぱいに頬張っているのを見た瞬間、でもまあこのひとが喜んでいるならいっかと思えてしまった。
惚れたほうの負けってね。かわいいかわいい女を前にすれば男はいつだってバカなんですよ。