あなたを好きな理由





「好きです」

 そう言って目の前で頬を赤く名前に微笑む。すると嬉しそうに瞳を溶かしてから彼女は小さな声で呟いた。

「私もです」

 ふふ、と笑って愛を返してくれる存在が愛おしい。恥ずかしがり屋な名前は、自分からはなかなか「好き」と言ってくれない。それでも彼女の表情が、仕草が、ジェイドを見つめる瞳が。ジェイドへの愛を叫んでいる。だからジェイドは名前からの言葉がなくてもまあいいかと思えた。その分自分が好きだと言えばいいのだ。そうすれば彼女は愛を返してくれるから、それで充分だ。本当はもう少し、本当にちょっとでいいから名前から想いを伝えてほしいと思わないこともないのだが、それを恥ずかしがり屋な彼女に要求するのは些か酷かと思うので、ジェイドはいつも許してしまう。

 ◇ ◇ ◇

 真っ暗な寝室の扉を開けて、音を立てないようにゆっくりと扉を閉める。大きなダブルベッドの上には、丸まった膨らみがある。それにそっと近づいて耳を澄ませるとすぅすぅと小さな寝息が聞こえてきた。そのことに安心して、ジェイドは眠っている名前を起こさないように気をつけながら空いているスペースに潜り込んだ。

「ん……」

 隣で動きがあったからか、はたまたジェイドがベッドの中に入ったことで冷気が彼女の元まで届いてしまったのか、眠っていた名前が身じろぎするのが気配で分かった。ジェイドは起こしてしまったか、と体を固くしたけれど、またすぐにすぅすぅと寝息が聞こえてきてそれにほっと安堵した。

 帰るのが遅くなるから先に眠っていてほしいと連絡した通り、名前はジェイドの帰りを待つことなく眠りについたらしい。そうしたのは自分だけれど、彼女の声を聞けないのが少しばかり残念だった。一緒に暮らし始めて一年近く経ってやっと毎日を共に過ごし、おはようもおやすみも一番に聞けるようになった。今日みたいに仕事で帰るのが遅くなり、先に寝てもらっている日も多いが、それでも名前の寝顔を見られるのならそれもいいかと思う。結局、彼女がそばに居てくれるのなら何でもいい。

 もともと体温の低い自分と人間の彼女では体感温度も違うため、陸の冬の寒さなんて自分にとっては大したものではなくても、名前にとっては耐えきれない程のものらしい。羽毛布団の更に下で一人用の毛布にまで包まってぬくぬくと眠っている。ジェイドには羽毛布団一枚で充分、毛布まで被ると暑いくらいになってしまうと知っている彼女が、じゃあ一人用のを使うと用意したものだ。そこで二人の体感温度が違うから別々に寝ようと提案してこない彼女が愛おしかった。

 彼女の気遣いのおかげで今日も二人は同じベッドで眠っている。まだベッドの中に入ったばかりで、きっと自分の体は冷たい。今度こそ起こしてしまうかもしれないと理解していながら、ジェイドは隣で眠る愛しい人に近づいて手を伸ばした。

 包まった毛布の上から少しでも距離が縮まるように抱きしめる。自分の低い体温と、彼女の温かい体温が混ざり合ってぬるくなっていく。すん、と彼女の匂いを嗅いで、自分と同じシャンプーの香りに胸の奥が満たされていく。

「ん……、ジェイドさん……?」

 ごそ、と腕の中で動いた気配がした後、寝ぼけた声で名前を呼ばれた。せっかく眠っているところを起こしてしまったという罪悪感よりも、自分を認識してくれた嬉しさの方が勝る。

「すみません。起こしてしまいましたか?」
「だいじょぶ、です……おかえりなさい」

 まだ寝起きの掠れた声で「おかえり」と伝えた名前は、ジェイドが抱きしめた距離を更に詰めるようにジェイドの胸にあたまを擦り寄せてくる。それにジェイドは笑って、「はい、ただいまです」と返した。

 自分の体温と彼女の体温が混ざり合って、自分には熱いくらいなのにこのままでいたいと感じる。ああ、やっぱり自分は名前が好きなのだなと思いながら、ジェイドはまた眠りへと落ちかけている腕の中の彼女に「おやすみなさい、また明日」と呟いた。

 ◇ ◇ ◇

「ジェイドさんのご飯楽しみだったんです」

 平日の夜、いつも通りの時間に帰宅した名前は着替えを済ませるとキッチンで料理をしていたジェイドの元にパタパタと駆けてくる。「何か手伝うことはありますか?」とジェイドを見上げてきたので「では、サラダとパンをお願いします」と声をかけた。

 彼女は冷蔵庫からサラダを、トースターから温め直していたバケットを取り出し籠に盛りつけ食卓の机の上に並べた後、食器棚から二人で一緒に暮らし始めた時に揃えた食器類を取り出した。大皿をコンロ横の調理スペースに置いたのを見て、ジェイドは「ありがとうございます」と言って調理していた肉をその皿に盛りつけた。続いてオーブンからアヒージョを取り出し、それを食卓へと運ぶ。彼女もジェイドが放置していた大皿と片手にワインを持ってこちらへやってきた。

「今日もいっぱいですね! 美味しそう!」

 普段はジェイドの方が帰りが遅く、いつも名前が晩御飯を作って待ってくれているのだが、ジェイドが平日休みの日はジェイドが作るという流れが定番になっていた。飲食店に勤めていることもあり、料理は得意だし彼女も喜んでくれるので苦ではない。寧ろ、人よりも量を食べる自分のために毎日美味しいご飯を作ってくれる彼女の方がありがたい。

「いただきましょうか」
「はい!」

 ニコニコと嬉しそうに自分の席に座った名前を見届けてから、ジェイドも向かいの椅子に座った。二人で「いただきます」と声を揃えて、それぞれが食べたいものに目を向ける。

「アヒージョに入ってるのって、カマンベールチーズですか?」

 キラキラと目を輝かせながらジェイドの一工夫に気づいた彼女にくすりと笑う。SNSで見かけて彼女が好きそうだと試してみたが、どうやら読みは当たったらしい。

「はい。貴女が好きそうだと思いまして」

 ジェイドがそう答えるときょとんとした後、目元を緩めて「ジェイドさんにはお見通しですね」と照れながら笑う。ああ、好きだなとジェイドは思う。

「ふふ。本当にそうなら嬉しいですね」
「ジェイドさんが外したことなんてないけどなあ……」

 そう言いながら、自分の皿に取り分けたアヒージョにカリカリのバケットを浸して頬張る。すぐに「美味しい!」と笑顔で返ってきた言葉にジェイドは微笑んで、自分も同じようにバケットに手を伸ばした。

 自分の作った料理をこんなに美味しそうに食べてくれて、それを伝えてくれる人がいる。それのなんと幸せなことか。何気ない日常も名前といれば幸せなのだとジェイドは改めて気づき、もう手放せないな、と心の中で思いながら同じように、アヒージョに浸したバケットに齧り付いた。

 ◇ ◇ ◇

 普段はお互いの職種の関係でなかなか休みが合わないのだが、月に一度くらいは二人とも同じ日に休みが取れることもある。そういう日はどこかへ出かけたり、一緒に買い物に行ったりと共に過ごすことが多かった。今日のように珍しく重なった休みは、前の日から夜更かしをして朝ゆっくりと起きるが二人の定番だ。

 先に目を覚ましていたジェイドは、冷蔵庫の中がスカスカになっているのを確認して、「ふむ」と口元に手を当てる。さすがにこれでは今日の夜くらいしか保ちそうにない。キッチンの中から、まだ寝ぼけまなこでソファに座っている名前に「今日は買い物に行きましょうか」と話しかけると「はい……」と頷いたのが見えた。

 朝が弱いのだと知ったのは一緒に暮らし始めてからだ。どれだけ付き合った期間が長くても相手の全てを知ることは出来ないのだと気づいた時が懐かしい。きっと今でも彼女の全てを知ることは出来なくて、これからも彼女の新しい一面を見るたびに驚き、嬉しく思うのだろう。

 ジェイドは名前のために淹れたアメリカンコーヒーと自分用の紅茶、それから簡単に用意した軽食をトレーに乗せてから「ブランチにしましょう」と、まだぼーっとしている彼女に声をかけた。

 ◇ ◇ ◇

「準備は出来ましたか?」

 朝ごはんを食べている間に目を覚ましたらしい名前は、「買い物が終わったらいつもの植物園にも行きたいです」と今日の予定をリクエストしてきた。それにもちろんと頷いて、それぞれ出かける準備に取り掛かる。自分よりも準備に時間のかかるであろう彼女を待っている間に洗い物を済ませ、買う物のメモやエコバッグ、車のキーなんかをバッグの中に詰め込んだ頃、彼女の部屋の扉が開く。

「はい。お待たせしました」

 細身のパンツにビッグシルエットのワンピース、それからキャップを被ったラフな格好は細い彼女によく似合っている。手にはマフラーとダウンジャケットを持っていて、完全重装だ。

「では行きましょうか」
「はい」

 先に玄関へと向かう背中を追いながら、なんとなく名前を呼んでみる。

「はい?」

 どうしたんですか? と後ろを振り向いた彼女が予想通り嬉しそうな顔をしていて、ジェイドは「何でもありません」と少し笑いながら答える。「? そうですか」と前を向いてしまった顔がまた見たくてもう一度名前を呼びそうになるがさすがに我慢した。これ以上は怒られてしまう。

 自分が名前を呼ぶ度に目元を緩ませてに「どうしたんですか?」と自分に目を向けてくれるのが嬉しくて、ジェイドはたまに用もないのに彼女の名前を呼んでしまう。それを何度も繰り返して「もう! 何なんですか!」と頬を膨らませて怒る姿も可愛かったのだが、その後拗ねて不機嫌になってしまったので、あれ以降は何度も呼ぶことは控えている。

 名前を呼ぶことも、ただ名前を呼ぶだけで何もしなくても、それを許される関係が嬉しかった。ずっと好きでやっと手に入れた存在は、もう手放してあげることなんて出来ない。

「ジェイドさん」

 玄関で靴を履き終わった彼女が扉を開けてジェイドを待っている。彼女に名前を呼ばれた自分も、きっとさっきの彼女と同じような表情をしているんだろう。だって彼女が自分の名前を呼ぶ度にジェイドは嬉しくなるのだから。

 ◇ ◇ ◇

 買い物を終えて一度家に帰った後、冷蔵庫に買ったものを片っ端から詰め込む。たくさん食べるジェイドのために二人暮らしにしては大きな冷蔵庫を買ったが、それでもジェイドの食べる量を考えるとちょうど良いくらいだった。冷蔵庫がパンパンになったのを見て名前は、今日のご飯が楽しみですねと笑った。二人が休みの今日、夜ご飯を作るのはジェイドの役目でそれを分かっている彼女は今から夜に思いを馳せているらしい。こんなに楽しみにしてくれているのなら今日は彼女の好きなアクアパッツァのパスタでも作ろうかと算段をつける。

「それじゃあ行きましょうか」

 ジェイドが冷蔵庫の扉をパタン、と閉めたのを確認してから彼女はジェイドに呼びかけた。この後は名前のリクエスト通り、近所にある植物園へと向かう予定だ。都心から少し離れたこの場所は自然もそれなりにあり、スーパーやコンビニなどの店舗も程よくある。都会すぎても落ち着かないからなあという彼女の意見を汲んで郊外のこのマンションを選んだが、今ではジェイドもこの場所を気に入っている。そもそも車を所持しているので、通勤や買い物は困らないし、自然が近いこの場所は植物採取もし易かった。

 そんな場所にあるマンションから、十五分ほど歩いたところに植物園がある。ここに引っ越してきた当初からたまに訪れる場所で、あまり植物に詳しくない名前も事あるごとにここに行きたがっていた。珍しい植物があること、それから同じ植物でも季節ごとに姿を変えるため、ジェイドは何度行っても楽しいのだが、果たして彼女は楽しいのだろうかと思うことはある。何度も行きたがるので好んでいるとは思うのだが、それでも彼女がジェイド程の興奮を所持しているかは怪しい。不思議に思いながら、何の気なしに言葉を発した。

「名前はあの植物園がお好きなんですね」

 隣の彼女にそう言うと、彼女はきょとんとしたあと笑った。

「はい。好きですよ。ジェイドさんが楽しそうなので」

 今度はジェイドがきょとんとする番だった。それからすぐに顔が熱くなる。予想だにしていなかった答えに動揺するなという方が無理で。自分を見つめる表情も、瞳も、仕草も、全てがジェイドを好きだと叫んでいる。そんなことは知っていた。いつもジェイドから「好き」だと言って、それに彼女が愛を返してくれていたのに。不意打ちで食った愛は、処理しきれないほどにジェイドの心の中を乱してくる。赤くなった頬を見られたくなくて隠すように大きな手で自分の顔を覆い、隣の小さな彼女に向き直る。

「貴女、僕のこと大好きですよね……」
「ふふ。そんなの当たり前です」

 自分からは好きだと言ってくれない癖に、自分を弄ぶようにこうやって突然好意を伝えてくる。ジェイドが楽しそうだから好きなんて、そんなの愛以外の何ものでもない。今だって「好き」という言葉を面と向かって言われたわけではないのに、それでも許してしまうくらいには彼女から渡される愛が嬉しい。

 このまま抱きしめて、数時間前に抜け出したばかりのベッドに戻ったら怒られるだろうか。この人を抱きながら、二人の体温が混ざり合って一つの温もりになっては駄目だろうか。もしかしたらそれだけでは済まないかもしれないけれど。

「ジェイドさん? 行きましょう?」

 目の前で何も分かっていない愛しい人がジェイドの名前を呼ぶ。ジェイドのために選んだ場所に行くことを心待ちにしているのはきっと本当で、それを裏切るわけにはいかない。でもこの熱をどうしたらいいか分からなくて、少しくらいならいいかなと背中を丸めて一瞬触れるだけのキスをする。少しの間のあと、ジェイドと同じように顔を赤くした名前が「急にどうしたんですか」と照れながら笑っている姿を見て、ジェイドはやっぱりベッドに戻っては駄目だろうかともう一度思案した。


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