論理的に考えて



「フロイド・リーチ!!」

 室内に響き渡った私の声に、周りは「またか」という顔をしている。一年以上も同じようなやりとりを繰り返していれば当然だろう。私だって朝からこんなことしたくないに決まっている。けれど、他クラスにわざわざ足を運んでまで声を荒らげるような理由があるのだから仕方がない。そして、その理由の発端が今名前を呼んだ人物というわけだ。

「何度言えば分かるの! 私の教科書を! 勝手に持っていかないで!」
「あ、アネモネちゃんだ。おはよー」
「あ、おはよう……ってそうじゃない!」
「あはは、今日も怒ってんの? 元気だね」
「話を聞け!」

 私の怒りなんて毛ほども届いていないのか、今日もだらりと着崩された制服を身に纏ったフロイドが、呑気に朝の挨拶をしてきた。それに普通に返してしまったが、すぐに当初の目的を思い出して、ケラケラ笑うフロイドに向かって再び声を荒らげた。

「私の魔法解析学の教科書返して。どこにやったの」
「えー、どこだっけ。忘れちゃった」
「は!? 私一時間目から魔法解析学なんだけど」
「ドンマイ」
「ドンマイじゃないわ。誰のせいだと思ってんの」

 D組の教室入り口にて繰り広げられるやりとりに、このクラスの生徒達はいつものことだと慣れきってしまったのか、我関せずとばかりに無視を決め込んでいる。少しは同情してくれても良いのではないだろうか。なんならフロイドに教科書を貸す役割を全力で押し付けて差し上げても良いのだが。

「覚えてたら探しとく。とりあえずジェイドに見させてもらえば?」
「はー……絶対忘れないように脳に刻んどけよ」
「ガラ悪ぅ」
「あんた程じゃないから安心して」

 これが教科書を勝手に持っていた奴の態度なのだろうか。もう少し殊勝な態度を見せるべきだろうとまた怒りそうになったが、フロイドには一番縁の遠い言葉すぎて、言っても無駄なことは瞬時に理解できた。これ以上イライラして疲れるのも嫌で、渋々口を噤む。結局、割を食うのは私ばかりなのだ。

「明日までに返さなかったら、アズールに請求するから」
「うげ、アズールは関係ねぇじゃん」
「監督責任。じゃあね」

 最後にフロイドを一睨みだけして、D組から立ち去る。これ以上ここに居たら一時間目の授業に遅刻してしまいそうだ。魔法解析学の教室は同じ校舎内だけど、授業が始まる前にジェイドに事情を説明して教科書を見せてもらわなければならない。と言っても、もう何度目か分からないくらい同じことをやっているので、事細かに説明する必要はないのだろうが。

「ジェイド、教科書見せて」

 D組から直行で魔法解析学の教室に向かい、中段あたりの席に先ほど会っていた人物と全く同じ顔を見つけると、一直線にその人物の元へと向かう。ちょうど空いていた隣の席に腰掛けながら、用件だけを伝えると、何かノートに書いていたらしいジェイドが顔を上げた。その際、ノートの中身がチラリと見えたけれど、私には違いがあるのかさえ分からないキノコのイラストとメモがぎっしりと書かれていたので、見なかったことにしてスルーした。

「おや、またですか」
「そう。請求は自分の片割れによろしく」

 簡潔な説明だけでジェイドは状況を把握したらしく、快く自身の教科書を私達の中間地点に置いてくれた。このやりとり自体も何度目か分からない。もはや自分の教科書よりも、ジェイドの教科書の方へ愛着が湧いている可能性すらある。

「ありがとう」
「いえいえ、身内のしでかしたことですから」

 フロイドの尻拭いなんてジェイドも大変だなあ、と思っていたのは入学して一ヶ月くらいまでだ。こいつも大概良い性格をしているので、なんやかんやでフロイドには尻拭い分の「対価」を払わせているらしい。それも強制的に。柔らかく謙虚な物腰とは裏腹に、強かな内面も隠しもっているので、今となっては同情するような場面はなくなった。

「フロイドも悪気があるわけじゃないんですよ」
「知ってる。だからこそタチが悪いって言ってんの」

 ギロリと睨みながら返した言葉に、ジェイドはニコリと微笑むだけだ。自分がフロイドに忠告するつもりは、さらさらないらしい。まあ、ジェイドが注意したところでフロイドは聞かないだろうし、そもそもジェイドにとってのメリットがない。損得で動くのは賛成するけれど、迷惑を被っている私の身にもなってほしいものだ。本当にそろそろ、アズールへ本気のクレームを入れた方が良いかもしれない。

「最初からジェイドの借りればいいのに」

 恨み言とため息は、授業開始のチャイムにかき消された。


 ◇ ◇ ◇


「リドル君。ここ教えてほしいんだけど、いいかな」

 授業終わり、先程の授業で分からなかったところをクラスメイトであるリドル君に尋ねようと、前の方の席に座っていた彼に声をかけた。先生に聞こうとしたのだが、どうやら用事があるらしくチャイムが鳴るや否や、すぐに教室を出て行ってしまったのだ。放課後に職員室まで聞きに行くのも面倒だし、分からないところは今解決しておきたい。ならば学年一の秀才に聞こう、という話だ。因みに、ジェイドに聞くと後から対価を請求されるので滅多なことがなければやりたくない。

 授業中に配られた演習プリントとペンを片手にリドル君の席に向かうと、名前を呼ばれたリドル君が私の方へと振り返った。彼の手元には予想通り、全ての設問に丸が付けられたプリントがある。リドル君は私の姿を視界に入れると、「いいよ。どこだい?」と嫌がるそぶりもなく受け入れてくれた。彼が拒むとは思えなかったけれど、ありがたく教えを乞おうと空いていた隣の席に滑り込むように腰を下ろした。

「ここ。推測使用魔法の順番についての設問。なんで一個目は水じゃなくて氷魔法が正解なの?」
「ああ、この事例か。ここでは、魔力残滓から炎、水、無属性の残留物が確認されているけれど、まずは推測使用魔法の残滓量から使用されたであろう順番を、それから使用対象者の推測を見てごらん」
「えーと……残留物の量から計算すると、使われた順番は古い順に水、炎、無だよね? 使用推測者は、魔法が撃たれた場所や実際に衝突した地点、角度から割り出して身長は大体一.七メートル程度……てことは人型がもっとも有力。同時に防衛魔法の残滓も確認されているから、防衛魔法を展開しながら攻撃魔法を放っていたことになる。そんなこと、野生の幻想生物には思いつかない。ここから推測すると、人属、あるいは知性のある生き物……つまりは魔法士が考えられる。それか妖精属に準ずる者」

 私が、問題文である事例の詳細を読み上げ仮説を立てていくと、リドル君は私の顔を見たまま頷いた。

「そこまでは理解出来ているんだね。だったら話がはやい。この事例において考慮すべき箇所はここだ。推測使用者について。魔法士や魔法に詳しい妖精属が、水魔法にわざわざ不利な炎魔法を使用するとお思いかい?」
「あ……」
「ふふ、気づいたかい?」
「あー、そういうことか……なるほど……炎魔法で氷魔法を溶かしたのか……だから水に……」
「正解だ。氷魔法は水魔法と構成式が同じだから分かりにくいけれど、ここでは推測使用者も視野に入れて想定することが大事なんだ」
「うー、悔しい……見事に引っ掛かっちゃったなあ」
「あくまで推測だから、水魔法の可能性がゼロなわけじゃない。けれど、『魔法解析学』では氷魔法が使われたと考えるのが順当だ。次からは気をつけるんだね」
「ありがとうリドル君。助かったよ」

 私がうんうんと頭を悩ませていた箇所をあっさりと解いてしまったリドル君に舌を巻く。さすがは入学時から学年一位をキープしているだけはある。私も見習わなければ、とこっそり尊敬の念を抱いていると、机の上に影が落ちてきたことに気がつく。ジェイドだろうかと顔を上げて、その人物が誰なのかを認識した後すぐに私は顔を顰めてしまった。

「金魚ちゃんにアネモネちゃんだー! ねえねえ、何してるの? それ面白い? オレも混ぜて?」
「げっ……」
「うわっ、フロイド……!」

 顔を上げた先にいたのはジェイドと同じ顔、されど出来れば避けたい人物だった。というかなんでここにという疑問を浮かべてしまったのがいけなかったのか、逃げる隙を逃してしまった。私とリドル君の間に押し入り、私達に覆いかぶさるように肩を組んできたフロイドに、自分の眉間に皺が寄るのが分かる。

「ちょっと、重いんだけど」
「うぎぎ……離さないか!」
「金魚ちゃんとアネモネちゃん、ちょうど良い高さなんだよね」
「僕はお前の腕置きなんかじゃない!」

 私以上に不機嫌を露わにしたリドル君は、のしかかってきたフロイドに真っ赤な顔で憤慨している。そこは「僕達」と言ってほしかったところだが、これ以上話をややこしくしてリドル君を怒らせたくないので、さすがに言葉にはしなかった。我ながら懸命な判断だ。

「なーんだ、解析学のベンキョーかぁ」

 私達が覗きこんでいたプリントをチラリと一瞥したフロイドは、先ほどのハイテンションが嘘かのようにつまらなさそうに呟いた。

「そうだよ。分からないところがあったから、リドル君に聞いてただけ。分かったらさっさとどいてくれないかな?」
「アネモネちゃんって本当に解析学苦手だよね。そんなんで魔法士になれんの?」
「うぐ……!」

 どうにも痛いところを突いてくるフロイドに、咄嗟に言い返せなかった。魔法解析学が苦手なことは自分でも自覚があるから悔しい。そして何が一番腹立たしいかと言うと、気分の波に影響されるためばらつきはあれど、魔法解析学においてはフロイドの方が成績が良いことが多いのだ。予習復習だってかかさないようにしているのに、私の努力なんてひょいと飛び越えていくこの男が妬ましい。

「特待生って、成績上位をキープしないといけないんでしょ? そんなんで大丈夫?」
「あーもう! うるさい! あんたが心配しなくともキープしてるわ!」

 私が苛立っていると分かっていながら、更に神経を逆撫でするような言葉と態度で接してくるフロイドに、噛み付くように言葉を返した。女性でも好成績をキープ出来るのであれば、特待生制度を使ってこの学園に通うことが出来る。入学時から学年十位以内をキープし、なんとかここまで退学することなくやってこれた。三位を取ったことだってある。リドル君とアズールという高い高い壁はどうしても超えられないのだが。

 それを分かっていながら聞いてくるこいつは、ジェイドとは違った意味で嫌な奴だ。出来れば関わりたくないのになぜか向こうからやってくる。本当に勘弁してほしい。

「フロイド、揶揄うのはその辺にして、そろそろ次の授業に向かいましょう」

 フロイドに対してガルル、とまるで獣のように威嚇をしていると、傍で見守っていたのであろうジェイドが、漸く助け舟を出してくれた。出来れば声を掛けられる前に止めてほしかったのだが、面白いことが大好きなこの男は、真っ先に「傍観者」の選択肢を選んだに違いない。

 フロイドはジェイドの呼びかけに振り返りながら、やっと私達から離れてくれた。肩の重みがなくなって、ほっとしたところで、フロイドがジェイドに問いかける。

「次の授業なんだっけ」
「占星術です。特別講師を招いているそうですよ。因みに二年生は全員参加です」
「え、ってことは……」

 ジェイドの言葉に思わず声を漏らしてしまった。全員参加、ということは。

「クラスメイトの僕達はもちろんのこと、フロイドも同じ授業を受けることになりますね」
「やったぁ。ジェイドの隣座ろっと」
「それじゃあ私達はこれで。行こうリドル君」
「ああ、そうだね。はやく行こう」
「金魚ちゃんとアネモネちゃんも隣座んなよ」
「断る」
「遠慮しとく」

 言うや否や、私とリドル君はすっと立ち上がって足早に教室から立ち去る。学年全員ということは、きっと講堂での授業だ。あれだけの大人数で授業が出来る場所なんてそこしかない。リドル君と共に講堂の方向へ歩いていると、すぐさま追いついてきた双子が、私達に肩を並べるように隣を歩いてくる。どれだけ私達が早足で歩いても足の長い二人からすれば、寧ろちょうど良い速さらしい。それにまた腹が立って、リドル君と一緒に双子を睨んでおいた。

 講堂の入り口で先生方に名前とクラスを確認され、講堂内に足を踏み入れると、一瞬にしてざわざわと騒がしい雑音に包まれた。リドル君に質問をしていたから出遅れてしまったのか、既にほとんどの席が埋まっている。きょろきょろと空いている席を探してみたけれど、一つだけだったり、隣の席がサバナクロー寮の騒がしくて苦手な生徒だったりと、出来れば避けたい席ばかりだ。

 どこに座ろう、とリドル君と並んで悩んでいると、連続して空いている席を見つけた。だがしかし、リドル君も私もお互い何も言わなかったが、心の中で「あそこはやめておこう」と思ったはずだ。だって、空いている席はアズールの隣だったのだ。間違いなくジェイドとフロイドはあそこを選ぶ。この三人、というか主にフロイドの隣に座ったら、平穏に授業を受けることは不可能だろう。あそこに座ることだけは避けたい。しかし、私達が気づいたということは、近くにいる双子もすぐに気がつくということ。同じように出席確認を受けたフロイドが、私達の後ろで「あ、あそこ」と声を漏らすのが聞こえた。

「ほら。アズールの隣、ちょうど四つ空いてるじゃん」
「それでは行きましょか」
「あ、ちょっと……!」
「こら! 押すんじゃない!」

 あそこに座ろうと提案してきた二人が、私達が逃げられないように、後ろからぐいぐいと押してくる。自分よりも大きな男の力に逆らえずはずもなく、結局アズールの隣に座るしかなくなってしまった。他に空いている席もないので仕方なく、本当に仕方なく、勧められた席に腰を下ろす。

 因みに押し込まれるように座らされたので、アズールの隣にリドル君、次に私、その次にフロイド、最後にジェイド、という順になった。気づいた時にはもう遅く、結局一番被害を受けるのは私だということが決定してしまった。まさかリドル君が先に行ったのはフロイドの隣を避けるために……? と疑いの目を向けてしまうのも無理はないだろう。

「静かに。二年生の皆さん、全員揃ったようですので、本日の特別授業について説明します」

 私が遠い目で平穏な授業を諦めている最中、あと少しで授業開始のチャイムが鳴る段階になって、教卓に出てきた学園長がゴホンとひとつ咳払いをした。学園長がわざわざ顔を出すとは珍しい。授業を覗きに来ることは多々あるけれど、自ら教えるようなことは今までなかったのに。よっぽど今日の特別授業に力を入れているようだ。

「今日お招きしたのは、世界的にも有名なあの……って、ちょっと! いま私が話しているんですよ!」
 学園長が話し始めても全く静まることのない講堂内に、学園長が「少しは静かにしなさい!」と生徒達を咎める。チラリと右隣を窺うと、リドル君がこの騒がしさに眉を顰めているのが見えた。

「ゴホン! まったく……それでは仕切り直して……本日お招きしたのは、占星術士として世界的にも有名な、『クロエ・マクリス』さんです。この中にも名前を聞いたことのある人はいるんじゃないですか? 占星術界での権威はもちろん、各国のメディアやセレブからも引っ張りだこのお方です。無理を言って特別講師として来ていただきました。この学園では、占星術は選択科目なので全員が受ける必要はないのですが……せっかくの機会です。皆さんぜひ、マクリスさんのお話を聞いて、学ぶべきことを学んでください。それではマクリスさん、よろしくお願いします」

 学園長の紹介とともに、一人の老年女性が舞台袖から壇上へと上がってきた。頭から足まで、黒いローブに身を包んだ彼女は、無表情のまま教卓からぐるりと室内を見渡し、生徒全員を品定めするように目を配る。

「あんた達は、占星術を単なる占いや、迷信じみた風習の名残だとでも思っているんだろう」

 凛とした声が講堂に響き渡った。先ほどまで所々で聞こえていた話し声が、一瞬にして消える。誰もが口を噤んで、教壇に立った一人の女性へ視線を注いでいた。

「科学が発達したこの時代で、未だに占星術が一つの『学問』として残っている理由を理解しているかい? 占星術、もとい占星学は元々国家の吉凶を占う一つの手段として生まれ、のちに個人の運勢を占う娯楽として発展した。占星学は文字通り、『星』をもって占う、つまり天体の動きと人の動向とを結びつけて考える学問だ。天文学から受け継いだ、星の動きを観測する『科学』的な側面と、人の運勢を判断する『非科学的』な側面、両方を兼ね備えている学問が占星学だ」

 左隣からコトリと音がする。チラリと横目で窺うと、どうやらフロイドがマジカルペンを机の上に投げ出した音だったらしい。既に授業に飽きているようで、大きなあくびを一つ零した。それに若干呆れながら、また壇上の女性へと視線を戻す。

「では、最初の問いに戻ろう。なぜ、占星学は科学が発達したこの時代に、未だに学問として残り、それどころか発展し続けているのか」

 マクリスと呼ばれた女性は、一つ間を置いてから表情を変えることなく口にした。

「答えは簡単だ。『魔法』の存在があったから」
 魔法、と近くの誰かが呟いた。この学園に通う者ならば、誰もが実感している理の一つ。

「星の動きの観測に加え、魔法の出現によって星の持つ魔力を観測できるようになった人類は、この二つを組み合わせて吉凶を『予測』出来るまでになった。もちろん予測するには、私のようにそれなりの知識と魔力が必要であり、更には人生において選択肢は一つではなく、数多ある選択肢から選びとった一つを『観る』に過ぎない。しかし、あんた達にももう分かるだろう。占星学は、ただの占いではない。科学と魔法の融合が生み出した、歴とした学問の一つなのだと」

 彼女以外、誰も言葉を発することはなかった。きっとここにいる全員が彼女の言葉に納得している。

 この学園で占星術を選択している生徒はきっと少ない。将来役に立つ科目でもなければ、大半が興味を持てる科目でもないからだ。かくいう私も、授業選択の際には端から除外して考えていたので、何も言えない。

 ものの五分でここにいる生徒全員の関心を集めた彼女は、静かになった室内を見て、被っていたローブのフードのみを外し、それまで無表情だった顔を一変させてニコリと笑みを浮かばせた。それに内心驚いていると、先程までの平坦な声色がまるで嘘だったかのように、明るい声が響き渡る。

「さて、面白くない話はここまでにして、次はさっそく実技……デモンストレーションにいってみようかね」

 長いグレーの髪を揺らして、至極楽しそうに言った彼女は、きょろきょろと教室内を見渡した。デモンストレーションって、いったい何をするんだろうと他人事のように考えていると、教卓の真ん中にいるバチっと目が合ってしまった。あ、と思った時にはもう遅く、彼女は私を見据えたままにっこり笑って「そこの女の子」と声をかけた。できれば面倒ごとは避けたいので選ばれたくなかったのだが、この学園にいる女性なんて絵画のロザリアちゃんを除けば私しかおらず、「女の子」と言われてしまえば必然的に選択肢は私しかなくなる。

「呼ばれてるよ、アネモネちゃん」
「分かってる……」

 隣に座っていたフロイドが揶揄うように私に声をかけた。自分は選ばれていないからといって、まるで他人事のようにニヤニヤした顔を向けてくるので腹が立つ。まあ実際他人事ではあるのだが。

 先ほど言ったように占星術なんて取っていないし、専門知識があるはずもないからこれから何をされるのかも分からない。恐れ半分、注目を集めたくない気持ち半分で渋々席を立ち、マクリスさんのいる教卓へと足を運んだ。

「よろしくお願いします……」
「はい、よろしく。今日はどんなことを知りたい?」
「え? えーと……」

 まさか自分が選ばれるとは思ってもみなかったので、咄嗟に聞かれても何も思いつかない。こういう時、どんなことを聞くのが無難なんだろう。普通の占いでよく聞く分野は、仕事とか恋愛だろうか。あとは金運? 別にどれもこれも興味がない。というか、まだ学生なので仕事運を聞いても仕方がない気がする。私がうんうんと頭を悩ませていると、マクリスさんはそんな私を見て迷っていることの気がついたのか、助け舟を出すかのように言葉を続けた。

「特に希望がないなら、全体的なものでも良いよ。一つの分野に絞るわけじゃないから、あまり具体的な啓示は出来ないけどね」
「あ、それで大丈夫です。お願いします」

 ほっとした私は、マクリスさんに促されるままに用意されていた椅子に座った。これからどうやって占うんだろうと思っていると、マクリスさんは間にある机越しにまじまじと観察でもするように私の顔を眺める。その瞳に全てを見透かされているような心地になって、無意識のうちに体を強張らせてしまった。そんな私を安心させるためか、マクリスさんはまたニコリと笑って話かけた。

「そんなに緊張しなくて大丈夫。何も怖いことなんてないよ。占星学が予測をする学問だとしても、あくまで予測は予測。必ずそうなると確約出来るものではないし、ほんの小さな出来事で未来は変わってしまう。運命は運命でしかなく、宿命ではない」
「は、はあ……」

 緊張した私を前にマクリスさんが話を続けたけれど、運命だとか宿命だとか、そんな大それたことを言われてもピンと来ず、気の抜けた返事しか返せなかった。そもそも、私自身が占いを信じるタイプでもないのだ。私なんかよりも占星術を選択しているような、それこそ学年は違うけれどダイヤモンド先輩のような意欲のある生徒こそ、この役に選ばれるべきなんじゃないだろうか。目の前の人物に大丈夫だと言われても私のモヤモヤは晴れず、むしと訝しげな顔を隠せなかった。そんな私の心境なんて露知らず、彼女はパチリとウインクをして最後に爆弾のような言葉を残していく。

「まあ、私の占い・・は当たることで有名なんだけどね」
「え」

 さっきと言っていることが違う。ただの予測だと言っていたのに。もしかして安心させようと言った言葉ではなかったのだろうか。学園長が世界的にも有名だとは言っていたけれど、どうやら本人にもその自覚はあるらしい。じゃないと、自ら「当たる」なんて言えるはずがない。

 私の中に不安を残したまま、彼女は話はこれでお仕舞いだと言わんばかりに、机の上に何やら丸くて透明な水晶のようなものを取り出して、水晶に翳した手をゆらゆらと手を揺らし始めた。同時になにやらぶつぶつと言葉を口にしている。よく聞き取れないが、おそらく呪文の類いだろう。抑揚のない声色にどこか不気味ささえ感じながら、目の前の人物から机上の水晶へと目を落とした。想像していた通りの占いの様子に少し拍子抜けする。占星術というくらいだから、もっと特別なことをやるのだと思っていた。

「さて」

 仕切り直すようにそう言葉にしたマクリスさんは、目の前の水晶をじっと凝視している。これだけで「予測」をするなんて本当に可能なのだろうか。やはり非科学的な側面が強くて、どうにも信じきれない。私には先ほどから何も変わっていないように見える透明な球体をぼんやりと眺めていると、目の前の彼女は「おや」と呟いて、私と同じように水晶を見つめたまましばらく静止した。その反応にぎょっとする。何か良くないことでも表しているんだろうか。

 また不安が増してしまった私をよそに、漸く顔を上げて私と視線を交えたマクリスさんは口元を緩ませて笑いかけている。なに、その意味深な笑みは。突き落とすならいっそ一思いにやってほしい。というか、むしろ聞きたくない。良いことだけ教えてほしい。

「ふーん、なるほどねぇ」
「あの、一体なにが……」
「ああ、すまないね。別に何か悪い結果が出たわけじゃない。ただ、若いって良いねぇと思っただけで」
「は?」
「まあまあ、そう焦らない。ちゃんと一つずつ解説してあげるよ」
「は、はい」

 いよいよだ。悪い結果じゃないとは言っていたが、やっぱりドキドキしてしまう。占いを信じるタイプではないけれど、ここまで引っ張られると気になるものは気になる。心なしかいつもよりはやい心臓を抑え、まるで医師から宣告を受ける患者のように今か今かと彼女の言葉の続きを待った。

「まず、全体的な流れとしては悪くない。大きな諍いもないし、あんたは元々が努力家な部分があるから、油断や怠惰といった壁もないだろう。このまましっかりと勉強していれば、将来やりたいことが決まっても、今までの努力が選択肢を与えてくれる」
「はい」
「ただ、普段から怒りをすぐにその場で発散させるきらいがあるから、それは抑えた方が良い。怒りのエネルギーを露わにするのは、もちろん良い面もあるが損することも多い。数秒だけで良いから、抑えることを意識しなさい」
「うぐ」

 座席の方から「ぎゃはは!」とい笑い声が聞こえた。間違いなくフロイドだ。思わずそちらに視線を移して睨みそうになるのをなんとか抑えて、マクリスさんの瞳を見つめる。なんせ今言われたばかりなのである。むしろ今日の朝、フロイドに怒ったばかりだったので後ろめたささえ感じてしまった。会って数分しか経っていないのに、まるで普段の自分を見ているかのような言い草にドキリとする。こわい。占星術って、性格まで当てられるものなのだろうか。

「それじゃあ、次は恋愛運にいこうか」
「え、それもやるんですか」
「当たり前だろう。年頃なら気になるだろう?」
「いや別に、」
「まず、こちらもこれといって大きな波乱はない。ドラマのような恋愛を夢見ているなら残念だが諦めた方が良いよ」

 私の言葉を遮って話を続ける彼女の言葉に、周りがくすくすと小さな笑い声をあげた。同級生に自分の恋愛事情を聞かれるのはさすがに恥ずかしく、出来ればこれ以上はやめてもらいたい。そう思って慌ててマクリスさんを止めようとする。

「夢見てないので大丈夫です。あとあんまり興味ないので聞かなくてもだいじょ、」
「でも、数年後のあんたは運命の相手と結ばれて幸せそうだからそこは安心して良いよ」
「……えっ!?」

 この人全然人の話を聞いてくれないなと思いつつ話半分に耳を傾けていたら、聞き捨てならない言葉が聞こえた気がして、思わず反応してしまう。マクリスさんの言葉に、私だけでなくこの講堂に集まった生徒達が少しばかり騒めきを見せた。気持ちは分かるが、大袈裟な反応はやめてほしい。この授業が終わった後に好奇の目に晒されることが確定した瞬間だった。

「うんめいのあいて」
「そう、運命の相手」

 そんなの、漫画や小説でしか聞いたことがない。聞き間違いであってくれと聞き返してみると、マクリスさんはもう一度肯定するように同じ言葉を繰り返した。揶揄われているのだろうかとまた訝しげな目を向けてしまうが、目の前の彼女はニッコリ笑ったままでその表情から嘘か真かを見抜くのは難しい。これは、マジのやつなのだろうか。

 真偽を探ろうとしている私と、一切撤回しようとしないマクリスさんの睨み合いが数秒続き、先に折れたのは私の方だった。

「……マジですか?」
「マジだねぇ。それも五年以内に」
「ご、ごねん……」

 思っていたよりもはやい展開に復唱するように呟くことしか出来ない。この学園では卒業後すぐに就職する人が多く、大学など他の専門機関に進学する人は少ないのだが、一般的には大学を卒業するかしないかの年齢だ。その頃にはもう既に相手がいるだなんて想像がつかず、訝しむような様子が隠せない。

「本当に、運命の相手が……?」
「相手が誰か、気になるかい?」
「……えーと」

 マクリスさんの問いかけに、言葉を濁しながら目を逸らした。そりゃあ、気にならないと言えば嘘になる。だが、知りたいという好奇心と同じくらい、本当なのだろうかという懐疑心がまだ残っている。だって、にわかには信じ難いだろう。運命の相手という言葉自体も、自分にその相手がいるということも。聞いてしまったら何か変わるのだろうか。知らないままの方が良いこともあるんじゃないだろうか。どうしてもその考えは消えない。
 暫く考えた後、やっぱり聞くのは辞退しようと口を開こうとした時、にんまりと弧を描いた口からまたもや爆弾が落とされた。

「まあ、あんたはもうその相手に出会っているみたいだけどね」
「え」

 年頃の男子高校生達が揶揄いのネタを目の前に大人しくしているはずもなく、マクリスさんの発言にまたもや周りから騒めきが起きた。しかも今度は声を抑えようという気もないのか、さっきよりも声量が増している気がする。

 騒がしくなった講堂内の中心にいる私はというと、今言われた言葉をうまく処理できず、反芻するかのように頭の中で何度も言葉をなぞって理解しようと試みている真っ最中だ。しかしその努力も虚しく、頭はまるで理解を拒むかのように働かないし、ずっと同じ言葉がぐるぐると脳内を回るだけだ。

 言葉を発さなくなった私を相変わらずにまにまとした笑みで見つめているマクリスさんは、最後の一手だとでも言うかのように、誘惑の言葉を口にする。

「どうだい? そろそろ気になってきただろう」
「う……」

 もう嘘はつけない。気になることは気になるし、知りたいという好奇心は消えない。うろうろと視線を彷徨わせた後、観念するかのようにこくんと頷いた。苦渋の選択だった。

「ふふふ、素直でよろしい。私もここまでハッキリ見えてしまうと、言いたくて堪らないんだよ」
「あの」
「ああ、悪いね。焦らしているつもりはないんだけどね。これも年老いたせいかねえ」
「もういっそ一思いにやってください……」
「ああ、ごめんごめん」

 マクリスさんは他人事だと思って私を弄んでいるらしく、恨めしそうな視線をなげかける私の抗議は全く効いていないようで、彼女はごめんと謝罪を口にするもその声色には反省の色がちっとも感じられなかった。先ほどから不安と期待で大きく鼓動を刻んでいる心臓は収まる気配がなく、なんとか落ち着こうと深呼吸してみたけれど全く効果はない。はあ、と深く息を吐き出したところではやく教えてほしいという気持ちを隠すことなくマクリスさんと目を合わせる。

「覚悟はいいかい?」
「……はい」
「あんたの運命の相手はね、あそこに座ってるぼうやだよ」
「え!?」

 思っていたよりもあっさり出た結果に驚愕しつつ、あそこってどこ!? とマクリスさんの指差し方へ勢いよく首を向けた。指された先を順繰りに追い、その延長線上にいる「運命の相手」とやらに緊張の面持ちのまま目を向ける。その先にいたのは、

「…………赤髪ですよね?」
「いや、ターコイズの髪の子だよ」

 真っ直ぐと指さされた場所は私が先ほどまで座っていたあたりだ。もちろんそこには見知った顔が数名座っていて、四人が四人ともきょとんとした顔を浮かべている。まさか、とマクリスさんの方へゆっくり顔を戻してみたけれど、冗談を言っている雰囲気ではない。ないのだが。引き攣った頬をそのままに、どうか嘘であってくれと心の中で願いながら目の前の彼女に話しかける。

「ははは、光の当たり方によったら見える色が変わるって話がありますよね。あれは赤髪です」
「どう見てもターコイズだね」

 正直リドル君のことをそういう意味で好きなわけじゃない。けれど、あの四人の中だったら一番マトモなのはどう考えても彼だ。だったら運命の相手はリドル君と言われた方がまだ良い。今自分が措定している相手だけは絶対に嫌なのだ。縋るような、むしろ掴みかかるような勢いで再びマクリスさんに問いかける。

「あ、アクセサリー類を何もつけていない人ですよね!?」
「あれはピアスかい? 片耳だけなんて粋だね」
「姿勢が良い」
「机の上に猫みたいに伸びてるよ。腕なんて前の席の方まで飛び出してるじゃないか」
「真面目にノートをとっている」
「ノートどころか何も持ってきていないみたいだけど」
「きっちりと制服を着ている」
「随分と着崩してるねえ」
「お願いです嘘だと言ってくださいせめて赤髪、いや贅沢は言わないですその隣の銀髪でも良いです。本当にお願いしますこれからの人生に絶望したくない」
「残念ながらターコイズ色した髪でピアスを付けていて猫みたいに伸びて授業も真面目に受けていない制服を着ているのかも怪しい子だよ。諦めな」
「いやだ~~~~~~~~!!」

 違うそんなはずないと思いながら質問を重ねてみたけれど、願い虚しく私の想定は当たったらしい。非情にも一番最悪の解に行き着いてしまった。叫びながら両手で顔を覆い、そのまま机に突っ伏すように頭を打ち付ける。講堂内に私の悲痛な叫びがぐわんと響き渡った。普段であれば絶対にしない恥辱的な言動を気にすることも出来ず、今にも泣きそうな声でもう一度「嫌だ」と呟く。

「そんなに言うほどなのかい?」
「一番最悪の可能性です」
「あの子はまんざらでもないみたいだけど」
「は?」

 マクリスさんの言葉に思わず顔を上げ、もう一度(絶対に認めたくないが)運命の相手とやらのいた方に目を向ける。視界に映ったフロイドは、先程の驚いた顔をすっかり潜めてしまって、今度はにんまりとした笑みを浮かべながらこちらを見下ろしている。そのどこか楽しそうな表情に、マクリスさんの言った「まんざらでもない」という言葉が嘘ではないことを知る。

 けれど、あれはマクリスさんの言うような「まんざら」ではない。選択を間違えたことにそこで漸く気がついた私は、思わず頬が引き攣った。うっかりして失念していた。フロイドは嫌がるそぶりを見せるほど絡んでくるということを。

「最悪だ。私の人生はバッドエンド決定です」

 あれはオモチャを見つけた顔だ。嫌がる私にこれでもかと絡もうという意思が簡単に読み取れる。また叫び出したい気持ちになって、でもこれ以上嫌がるそぶりを見せればフロイドからの更なる嫌がらせが増えるだろうことも分かってしまって、なんとかぐっと言葉を堪える。
 周りも流石に私が可哀想に見えたのか、最初程の盛り上がりは見られない。寧ろ可哀想なものを見るかのような視線を向けられている。なんせ「あの」フロイド・リーチが運命の相手だと言われたのだ。誰も喜ばないことを誰しもが知っていた。

 そんな哀れみの視線を投げかけられてもなんの慰みにもならないし、寧ろ更に哀れになるだけだ。私のあまりの落ち込みようを見たマクリスさんは、まるで励ますように声をかけてきた。

「まだ十数年しか生きていないんだからそう後ろ向きにならなくても大丈夫だよ」
「そうは言っても……うう……」
「それに、あくまで運命・・だ。宿命ではない」
「宿命……?」
「そう、宿命。占星術は天文と魔力によって可能性のある出来事を視る学問だ。もちろん可能性は一つとは限らない。ほんの小さな出来事で未来は変わる。私の占星術は一番高い可能性を視るものだから、そうそう外れることもないが、確約が出来るわけでもない。だから、あんた達は運命であって宿命ではない。それをよく覚えておきな」
「それはつまり私が他の人と結ばれる未来もあるってことですよね!? ね!?」
「ま、そういうことだね」

 その言葉に一筋に希望が見える。まだ諦めるには早いらしい。どう間違っても私があの忌まわしき男と結婚するなんて有り得ないに決まっているのだ。大丈夫。ここから未来を変えてみせる。なんせ猶予までには約五年あるらしいし、それまでに何とかすれば良いだけだ。やるしかない。

 そうやって私が一人で決意を固めていると、そろそろ授業が終わる時間が近づいているらしく、舞台下の脇に控えていた学園長が「そろそろ時間ですね」と講堂内にいる生徒達の方を向き直るのが見えた。

「それでは、今日の特別授業の感想をレポートにまとめて、後日担任の先生に各自提出してください。そこ! ダルいとか言わない!」

 講堂の各所から「えー!」という不満気な声が上がったのに対し、学園長がそれを咎めるように「提出しないとマイナス点ですよ。良いですね!」と更なる追撃をしている。もちろん例に漏れず私も提出をしなくてはならない身なのだが、感想文には何を書けば良いのだろうか。絶対に未来を覆してみせるとでも書こうかと思ったところで、どこの少年漫画の主人公だよと自分で自分に茶々を入れた。

 兎にも角にも、とりあえずフロイドから逃げるのが先決だろうと頭の中でこれからの三段を立てている私の横で、ちょうど良く鳴り始めた授業終了を知らせるチャイムを背に、私だけに届くような声で「まあ、」とマクリスさんが言葉を続けるのが聞こえた。まだ何か? と思いながらきょとりと目を向けると、私の方をじっと見つめていたらしい彼女の瞳が真っ直ぐを私を射抜く。それに一瞬気を取られてしまって、次の言葉を把握するが遅れてしまった。

「私の占いは当たることで有名だけどね。ここ十数年は外れたこともないし」
「……え?」
「ま、精一杯気張りなさい」

 そう言ってニコリと笑ったマクリスさんの笑顔は、今日一番と言っていいほど輝いていた。


 ◇ ◇ ◇


「これはこれは。フロイドの将来のお嫁さんではないですか」
「来るな。寄るな。近づくな。金輪際私に顔を見せるな」
「そんなひどいことを仰らないで。僕達、将来は兄妹になるんですから」
「絶対にならないから安心して」

 授業終了後、これからどうやってフロイドの嫌がらせを回避しようかばかり考えていた私は、すっかり忘れていた。もう一人厄介な男がいることを。

「よろしければ泳ぎ方も教えて差し上げましょうか?」
「一生陸地で過ごすので結構です」

 最悪も最悪だ。さっさとこの講堂を離れたかったのに、私の筆記用具は元いた席、つまりは某双子の隣に置きっぱなしだった。ニヤニヤとした笑みを浮かべたまま私のペンケースとノートを拉致したジェイドは、舞台上にいる私の元までやってくると揶揄い百パーセントの笑顔で絡んできたのである。ジェイドに言わせれば拉致された私の筆記用具達は、私が置き忘れていかないよう持ってきてあげた「優しさ」らしい。

「それよりはやく私のペンケースとノート返してよ」
「まあまあ。そう遠慮しないでください」
「どこをどう見たら遠慮してるように見えるの??」

 全く会話のキャッチボールがで出来ない状態に、混乱して宇宙猫状態になりかけた。いけない、向こうのペースにのせられてはダメだ。この双子にはマトモに相手するだけ無駄なのだ。思わず出そうになったため息をぐっと飲み込んで、もう一度毅然とした態度で「返して」と手を差し出すと、ジェイドはやっと返す気になったらしい。ニコリと笑ったまま差し出されたそれを素早く回収し、一言「ありがとう」とだけ返して一目散にこの場を離れようとする。

「ねぇ、アネモネちゃん?」

 瞬間、後ろからどさりと私に覆いかぶさってきた何かによって動きを制限されてしまった。「何か」なんて間近で聞こえてきた声を考えれば答えは明白だ。私は拒否反応のように「うげぇ」と顔を顰めてしまい、それを真正面から見ていたジェイドが「ふっ」と笑うのが微かに聞こえた。

「重いからどいて」
「やだ」

 即答された言葉にイラッとして、それを見ていたジェイドがまたふっと息だけで笑った。私に覆いかぶさってきたフロイドは、逃すつもりはないとでも言うように、更に拘束を強めてくる。普通ならときめくような状況なのに、相手が相手だけにそんな感情は微塵も湧いてこなかった。というかフロイドの抱きしめ方もそんな可愛いもんじゃない。逃げられないように思いっきり体重をかけてきている。これ以上事態が悪化する前になんとか抜け出そうと試みるも、無駄に長い腕はがっちりと私を抑え込んでいて、力では勝てそうになかった。

「やだじゃないし今後私に構わなくていいから。それじゃあ私はこれで」
「そんなこと言わずにさ。もうちょっと仲良くしようよ。オレら運命の相手なんでしょ?」
「オエ……」
「は? なに吐きそうになってんだよ」
「ふふふ」
「ジェイドは何に笑ってんの?」

 私に絡んでくるフロイド。「運命」という言葉に拒否反応を示し吐き気を催す私。それに笑うジェイド。まさに地獄絵図だった。

「マジでない。何かの間違いに決まってる。コイツとなんて絶対にあり得ない」
「それはフラグというものですか?」
「違う!!」

 ああ言えばこう言う。話の通じない相手に会話をすることがこんなに苦痛だなんて思わなかった。誰か助けてと周りに視線を投げかけてみたけれど、他の生徒は私達には近づきたくないのか、まるでこちらに惨状には気づいていないかのように、ちらりとも視線を寄越さなかった。分かってはいたがどいつもこいつも薄情者である。

「君達。騒がしいぞ」

 そんな中、唯一声をかけてきたのがリドル君だった。残念ながら内容自体は私達を咎めるものだったが、今この状態ではそれすらもありがたい。その後ろにはアズールもいるが、こいつもニコニコとにこやかな笑みを浮かべていたので今私を苦しめている双子と同罪だ。

 縋るように顔だけでリドル君の方を振り向くと、私と目が合うや否や哀れみの目を向けられた。言わずもなが、今の現状はもちろんのこと、先程の占星術の結果からくる感情だろうことは簡単に読み取れた。いや分かる。分かるんだけども、そんなにも可哀想なものを見る目で見ないでほしい。また惨めになってしまうから。

「リドル君助けて」
「諦めた方が良いんじゃないか?」
「そんなこと言わずに。せめて今この最悪の状態から抜け出すだけでも手伝ってほしい」
「代わりに僕が助けて差し上げてましょうか? もちろんタダではありませんが」
「アズールは黙ってて」
「ねぇねぇ何が最悪なの?」
「あんたという存在以外に何があるの??」
「えー? オレちょー優しいじゃんか」
「フロイドが優しいならこの世にいる生き物の八割は優しいに該当するわ」

 リドル君に話しかけていたはずなのにアズールが横から茶々を入れてきたり、巨悪の根源であるフロイドがまた絡んできたりと全く話が進まない。この中で味方はリドル君しかおらず、もう一度「お願いします助けてください」と誠心誠意お願いすると、「はあ」と一つため息を吐いて自らのマジカルペンをさっと一振りした。

「うわ」

 次の瞬間、背中に重たくのしかかっていた重みが消え去った。それと同時にフロイドの驚いた声が聞こえてきて、魔法でフロイドを離してくれたのだと理解する。私はこれ幸いとばかりにフロイドからびゃっと逃げ出すように距離をとった。

「リドル君ありがとう!!」
「どういたしまして。次の授業があるから僕はもう行くよ」
「待って置いていかないで! 私も行く!」

 今ここに取り残されたらさっきの二の舞になってしまうことは簡単に想像できた。さっさと講堂を出て行こうとするリドル君の背中を追って、私も慌てて講堂から飛び出した。少し歩いたところで他の三人は追いかけてくる様子もなく、やっと解放されたと肩の力を抜く。

 二年生全員が一緒の授業を受けていたから、廊下には同級生らしき顔ばかりだ。中には見知った顔もいて、私を認識するや否やまた哀れみの視線を向けられてしまった。だからそれをやめろと叫びたくて仕方ない。はあ、と無意識にため息を吐いたことにも気がつかず、これからどうしたら良いんだろうという思いばかりが、ぐるぐるといったりきたりを繰り返す。不安と言ってしまえばそれまでで、今度こそ意識的にため息を吐いた。

「大丈夫かい?」

 私のあまりの落ち込みように流石に少しは心配になったのか、隣を並んで歩いていたリドル君が声をかけてきた。その声は相変わらず凛としていて揺るぎがない。彼は話し方といい普段の行動といい、厳格なイメージばかりを持たれているけれど、案外友達思いで優しいのだ。あの場で私を助けてくれたのも、こうやって声をかけてくれるのも、彼の本来の人となりを表している。

「大丈夫だよ。ありがとうリドル君」
「あまり無理をしない方が良い。フロイドと距離を置くのには賛成するけれど」
「あはは」

 やっぱりリドル君もそれが一番だと思ってるんだ。まあそれが一番手っ取り早くて確実だろう。フロイド相手にどこまで逃げられるかが肝なのだが、果たして嫌がらせモードのフロイドはいつ飽きてくれるんだろう。飽きるのがはやいフロイドは、その代わりに飽きるまではとことんやる。その「飽きるまで」がいつまで続くのか分からないから怖いのだ。

「リドル君、今から髪を染めたりしてみない? 因みに私のオススメはターコイズだよ」
「無理やり運命を捻じ曲げようとするんじゃない」

 もういっそのこと、他の相手を見つけてしまった方がはやいんじゃないかという気すらしてきて、半分冗談、半分本気でリドル君に提案してみたものの、にべもなく断られてしまった。当たり前である。私だってあいつと同じ色に染めるなんて絶対に嫌だ。

「遠慮しておくよ。というか、僕は今後も髪を染めるつもりは一切ないから諦めてくれ」
「まあそうだよね。はあ……面倒なことになっちゃったな」

 平穏な学園生活をおくるはずだったのに、あの一時間弱の出来事で一変してしまった。今は哀れみの視線を向けられているけれど、これから揶揄われたりするのだろうか。学生にとってこういうゴシップは恰好の餌ネタだ。今後どうなるのかは分からない。

「君はあいつが嫌いなのかい?」
「むしろ好きなように見えて……?」
「それはまあ……そうだが……そうではなくて、君とフロイドは仲は良いだろう?」
「は?」

 リドル君の言葉に、きょとりと目を瞬かせる。数秒言葉の意味を理解するのが遅れ、言われたことを理解した後も混乱が解けずに戸惑ったまま言葉を返した。

「え、いやあの何を言ってるの……? 私とフロイドが仲が良……?」
「違うのかい?」
「一から百まで違うよ」

 何を見たらそうなるんだ。今日だってフロイドに向ける感情は負のものばかりだったのに。むしろフロイドに笑顔で接したことの方が少ないのに。それくらい私達の関係は殺伐としたものだったはず。

「そうなのか。君達はよく一緒に話しているし、お昼だって一緒に食べているからてっきり仲が良いのだと思っていたよ」
「は……」

 確かにフロイドと話すことはあるし(大抵が文句を言うためだけど)、お昼を一緒に食べることもある(向こうが勝手にやってくるのだけど)。けれどそれだけで仲良しと判断するには早計すぎやしないだろうか。

「あの、私はフロイドのことがめちゃくちゃ苦手だと思っているんですが……」
「それは分かるけれど」
「分かるのになぜ」
「なぜ、と言われたら困るけれど……そうだな。君は別に、フロイドのことを嫌っているようには見えないから」
「う、うーん」

 リドル君の言葉に、苦手って嫌いと同じことじゃないの? という疑問が浮かび上がりつつも、確かに嫌いというわけでもない気もする。いやどちらかというと嫌い寄りではあるのだが。別にフロイドと話すこと自体が嫌なわけではない。面白い時は面白いし、リドル君が言ったように(無理やり)お昼を一緒に取ることだってある。本当に嫌いなら同じ空間にいるのも嫌なはずなのだ。

「まあ、確かに嫌いってわけではないかも? 今までの所業に腹が立ってるだけで」
「それは僕も同じだよ」
「だよね」

 むしろ教科書借りパク事件に起こらない人がいたら教えてほしい。次からその人に頼むように言うから。

「うーん。フロイドって確かにあんなだけど、やることはちゃんとやるじゃん」
「そう……なのか……?」
「自分が好きなものにはちゃんと接してるっていうか。そもそもポテンシャル自体は高いし、あいつ。いわゆる天才型。そういうところは素直にすごいと思ってるよ」
「天才型なのは認めるけれど、前半はよく分からないな。部活はよく休んでるし、靴だってバラバラのものを履いてきたこともあるじゃないか」
「別に百パーセント好きでなくちゃいけないわけではないから、そこは本人のやる気次第ということで。それに毎日休んでるわけじゃないでしょ? 好きな時に行って、好きな時に楽しむ。そういう自由さは羨ましいかも……?」
「僕にはよく理解できない」
「私も言っててよく分からなくなってきた。結局、苦手と嫌いは違うって話?」
「僕はどっちも同じだけどね」
「あ、ひどい! 自分だけ逃げた!」

 リドル君の突然の裏切りにショックを受ける。私にはフロイドを嫌っているわけではない思うようにと誘導したのに。やっぱりこの学園に通う生徒なんて碌でもない奴ばかりだ。将来結婚するならNRC出身者以外の人を選ぼう。そう心の中で決意して、私はもう一度れからのことを考えた。

「やっぱり占いの結果を変えようとするなら、双子に近づかないのが一番楽だよね」
「一番難しいことでもあるだろうけどね」
「ねえ、リドル君。さっきと言ってることが違うんだけど」
「事実だろう?」
「そうだけどさあ……」
「君が無事逃げ切れるよう、応援しているよ」
「逃げ切ったらお祝いにケーキでも贈ってね」
「ははは、良いだろう。トレイにお願いしておくよ」

 リドル君の応援を背に、私はもう一度決意した。必ずマクリスさんの予測を覆してみせると。私のこれからの人生とあのトレイ先輩のケーキは今の私にかかっている。ここで諦めるわけにはいかない。マクリスさんも「宿命」ではないと言っていたし、変えようと思えば変えられるはずなのだ。まあ、今この現状も彼女のせいではあるのだが。

「まあ、論理的に考えても私がフロイドを好きになるなんて、絶対にあり得ないよね!」


 ◇ ◇ ◇


「やはりあれはフラグでしたね」
「フラグというものはよく知らないけれど、結果的にあの占星術師の予測は当たったことになるね」

 初夏の、よく晴れた日だ。澄み渡る空と白い建物、更には建物越しに青々とした海が広がっているのが見える。海に近く美しい景色が一望できることを謳い文句にしたこの式場は、確かに人気なのも頷ける。自分の兄弟が「空きがなさすぎて日程調整するだけで一ヶ月くらいかっかたんだけど」と愚痴をこぼしていたが、それでも他の会場を選ぼうとしなかったのは、やはりここの謳い文句に負けたからであろう。

「リドルさんはお元気でしたか?」

 久々に集った同級生の顔ぶりに、ジェイドは青春時代を懐かしく思う気持ちが湧き上がるのを感じた。卒業後はSNSや人伝の噂でしか息災を知るしかない者もおり、その一人がリドルであった。学生時代から魔法医術師になると宣言していた通り、専門の大学を出て今は研修医として働いているらしい。稀に見る天才と業界では既に有名であり、今後は彼の両親以上に優秀な医師になることだろう。

「それなりにね。君も元気そうでなによりだよ、ジェイド。噂ではアズールとフロイドと一緒に事業をしていると聞いたけれど」
「ええ。今は飲食業だけでなく色々な分野を手がけています。医療の分野にも興味があるのですが、なにせ素人でして。ぜひともリドルさんのような専門職の方にお話を伺いたいと思っていたんです。持つべきものはお友達ですね」
「君達は相変わらず商売の機会を逃さないね」

 ため息混じりの呆れ声にジェイドはニコリと微笑んだ顔を崩すことなく、「楽しいですからね」とだけ返した。呆れつつも、お友達、という言葉に否定しなかったということはそういうことだろう。あの頃と比べると彼も随分と丸くなったものだ。

「あの頃はまさかあの占星術が本当になるとは思っていなかったけど、今となっては収まるところに収まった気もするよ」

 暫く談笑した後、リドルがぽつりと呟いた言葉に、ジェイドはきょとりと目を瞬かせた。その後「そうですね」と心にも思っていない返事をする。何か、なんて聞かなくても分かる。フロイドと彼女の関係は、彼女の願いが叶うことなくあの占星術師の予測通りになってしまったのだ。

「随分と長い五年でしたね」
「プラスで三年もかかったみたいだしね」

 ジェイドの言葉にリドルはクスクスと笑って返した。当時「五年以内に結ばれる」と言われた占い・・は、結果的に言うと嘘にはならなかった。ただし、その五年は「彼女が諦めるまでの期間」だったわけだが。彼女がフロイドの番になることを承諾するまでに五年、そこから今日に至るまでが三年だ。「付き合ってから即結婚だけは絶対に嫌だ。必ず後悔する気がする」という彼女の懸命な判断、もといフロイドからすればワガママのもと、三年の交際を経てゴールインというわけだ。

 人魚である自分達と人間である彼女の「番」の認識の差に、ジェイドは笑いを禁じ得なかったが、ジェイドはあえて何も教えてやらなかった。「交際」を承諾した時点で「結婚」が決まっているようなものだなんて、彼女が知ればまた逃げ出すに決まっている。それはさすがに兄弟が可哀想だった。ジェイドにとってはフロイドが一番優先順位が高いので、正直彼女のことはどうでも良いのである。

「僕は、あの二人は必ず結ばれると思っていましたよ」
「そうなのかい?」
「ええ」
「それは、兄弟の絆か何かで?」
「あはは! リドルさんも面白いことを仰いますね。そんな大層なものではありません。ただ、フロイドは諦めが悪いというだけです」
「は?」

 まるで意味が分からないとでも言うような顔をしたリドルに、ジェイドは「ふふ」と笑うだけでその先を教えようとはしなかった。別に話したところで何かが変わるわけでもなし。自分だけが知っていれば良いのである。
 フロイドは、自分を認めてくれる相手には優しいし、気に入った相手にも優しい。好きなものはとことん遊び尽くすし、真摯に向き合いもする。真面目で一途な人魚なのだ。

「まあ、好きと嫌いは紙一重とも言いますしね」

 あの日、たとえフロイドがそれまで彼女のことを何とも思っていなかったとしても、たとえ最初は暇つぶし程度に揶揄って遊んでやろうと思っていただけなのだとしても。たまたま、彼女が自分のことを苦手だと思いながらも認めてくれているのを聞いてしまい、彼女自身に興味が湧いてしまったのだとしても。今こうなっているのは、フロイドの諦めの悪さがもたらした結果だ。

 ただそれだけの、かわいいかわいい初恋の話に過ぎないのだ。


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