貴女は気づいていないけど




※ネームレス、卒業後成人設定

 学生時代から付き合っていて。同じ会社で。共通の趣味があって。世のカップルに馴れ初めを聞くと、こんな感じの答えが返ってくるんだろう。

 一方、私はと言えば、既に二十台の半ばを過ぎたにもかかわらず、学生時代の知り合いどころか、同じ会社の同僚にさえそれらしい話はない。むしろ会社にいたっては、一番年の近い先輩でさえ一回り近くは離れている。チャンスどころか、まず望み自体ないのである。

 よって私がチャンスをものにするには、友人達から誰かを紹介してもらうか、自ら行動するしかないのだ。

「それで? 今回は何がダメだったんですか?」

 休日の昼下がり。カフェのテラス席から往来の道行く人をぼんやりと眺めていると、私の向かいに座った男が問いかけてくる。声のトーンから、これから話す内容について大して興味がないことは優に窺えた。それに気づいてはいるものの、このままもやもやとした気持ちを抱えていたくなくて、私はメインストリートに向けていた視線を男の方へ戻し、口を開く。

「なんか違った」
「ほう?」

 ティーカップをテーブルへと戻しながら相槌を打った男――ジェイドに、さてどう話そうかと少し考えたのち、もう会わない相手のことを気遣う必要もないかと思い、「なんか違った」ことを、つらつらと羅列するように話す。

「店員さんに礼儀正しくない。食べ方が気になる。会話が続かない」

 マッチングアプリで出会った男性と、互いに予定が空いているならすぐに会おうという話になった。メッセージでのやり取りなんてほぼないに等しい。それでも何日もかけて互いの性格を知るよりも、一度会ってさっさと見極めた方が楽だと思い、二言目には了承の返事を返したのだ。もしかしたら意外と気が合うかもしれないし、という期待もなくはなかった。

 結果はご覧のとおり。数十分前に別れたばかりの人を思い出しながら、目についてしまったことを一つずつ言葉にしていく。一時間にも満たない「デート」だったが、すらすらと出てくる悪態に、自分で思っていたよりも「ない」と感じていたことが分かってしまった。やっぱり妥協しなくて正解だったと再確認する。最後に、私が速攻で「ない」と判断した一番の出来事を吐き出した。

「私の好きなものを否定する」

 そう。あの瞬間、私は心を閉ざすことを決めたのである。もうこれ以上の親交は不可能。今すぐにでも帰りたい気持ちを隠すこともせず、能面のごとく無表情になってしまった。

 私の表情を見て、さすがに相手の男も失敗したと気が付いたのか、その後は会話が弾むどころか更に沈む始末だ。互いに楽しめるはずもなく、ランチタイムのピーク時にお店を出て、早々に別れてきたのだ。

 別れた途端、アプリを開いて相手をブロックしたことは記憶に新しい。なんせ、つい一時間ほど前のことなので。

「やっぱりまずはメッセージで気が合うかどうかを確認しなきゃだよね……マッチングしてすぐに会うのはダメだわ」
「その方がよろしいかと」
「……マジで興味ないじゃん」
「そんなことはないですよ」
「その割には相槌がテキトー過ぎない?」
「貴女の中で結果は出ているようですし、僕から申し上げることは何もない、というだけですよ。それにこれが初めてではないじゃないですか」
「そうなんだけどさあ」

 ジェイドの言う通り、私がこうやってジェイドに愚痴るのは初めてではないし、もう既に「ナシ」と判断しているのだから、ここで更にアドバイスされることなんて望んでいない。

 しかし、ただつまらなさそうにしているのも少々癪に障る。せめて笑ってくれるとか、「大変でしたね」と声をかけてくれるとか。ジェイドなら私の望むことなんて分かっているだろうに、いつもそれらが叶うことはない。

 でもまあ、こうやって私の急な誘いにもわざわざ足を運んでくれるだけ御の字だ。アプリで出会った件の人物とすぐにさよならした後、私は速攻でジェイドに「今日飲みにいかない?」とメッセージを送った。さすがに当日の昼過ぎに誘うのはどうかと思ったが、ジェイドは断ることなく「行きます」と返事をくれたのだ。

 しかもちょうど外に出かけていたらしく、メッセージを送ってから一時間後にはご覧のとおり、邂逅を果たしている。無理やり誘った私が言うのもなんだが、フットワークが軽すぎやしないだろうか。まさか本当に来てくれるとは思わず、カフェでジェイドを見つけた瞬間、「本当に来るとは思わなかった」と声を漏らしてしまったほどだ。

「ジェイドは今日なんか予定あったの?」

 元々外へ出ていたということは、何かしらの予定があったはずだ。運よく会えはしたものの、もしかしたら無理やりスケジュールを変更してくれたのかもしれない。そう思ってジェイドに問いかけてみると、ジェイドはにこりとした表情を全く変えることなく言った。

「ええ。フロイドと一緒に買い物に出かけておりまして」
「えっ、フロイド君と?」

 ジェイドの兄弟であるフロイド君はジェイドとは真反対の天真爛漫を絵にしたような人で、私も数回だが会ったことがある。

「うわー、フロイド君にも会いたかったな。最後に一緒にご飯食べたのいつだろう」
「フロイドも貴女に会いたがっていましたよ。ただ、今日はたくさん買ってしまったので、荷物が多くて」
「ああ。一回家に帰ったら外出るの億劫だよね。分かる分かる」

 フロイド君のことだから、気に入ったものをポンポン買い込んだのだろう。両手いっぱいにショッパーを持っているフロイド君の姿が浮かび、クスリと小さく笑う。
 それらを持って居酒屋に行くのは帰りが面倒だし、かといって一度荷物を置きに帰ってから、また街に繰り出すのも面倒だ。その気持ちが痛いほど分かって、それは仕方ないねと言葉を返す。

「ジェイドは? 何か買わなかったの?」
「僕は……ええ、特には」
「ふーん」

 ジェイドも、せっかく出かけたのだから何か買えばいいのに、とは思ったものの、欲しいものが特になかったのだろう。それか、フロイド君の買い物に付き合っただけとか。

「ところで、今日はどこに行きますか? 何か食べたいものなどは?」

 確かにジェイドの部屋は物が少なくて綺麗そうだと、勝手に想像していると、ジェイドが本題を切り出した。そうだった、今日の目的はこの後の飲みなんだった。ジェイドの言葉によって思い出された本来の目的に、一気に気分が上昇する。

「私は魚の気分かな〜。ジェイドは?」
「魚いいですね。それでは前に行った炭火焼きのお店はいかがです? 期間限定で日本酒の種類が増えているそうですよ」
「マジで? めっちゃ行きたい」
「では予約しておきます」
「ありがと〜」

 期間限定という言葉に惹かれてしまうのは、人の性なので仕方がない。それに、あそこの魚は新鮮で美味しかった記憶があるので、俄然楽しみになってきた。私もそこそこ食べる方だが、ジェイドはそれ以上にたくさん食べてくれるので、遠慮なく気になるメニュー全てを頼ませてもらっている。

 自分だけじゃ食べきれない量をシェア出来るジェイドの存在は、私の中でとても大きい。つい二週間ほど前にもジェイドと共に飲みに出かけたばかりなのだが、その際もメニューを片っ端から頼ませてもらった。目の前でスイスイと消えていく料理を見ていると、自分が作ったものじゃなくても気持ちが良い。

 今日は何を頼もうかなと考えながら、ジェイドの方に目をやる。頼んでいたケーキを既にペロリと平らげ、優雅に食後の紅茶を楽しんでいる姿は、造形物のような美しさだった。スラリと伸びた足に、恵まれた背丈。更には、人間離れした整っている顔まで加われば、見るだけで眼福だ。

 そう思うのは私だけではないらしく、近くの席に座っている女性が、チラチラとジェイドに視線をやっているのが見えた。それだけではなく、往来を行く人々の中にも、ジェイドの美しさに見惚れる人が見受けられる。

 中には、男性でもジェイドの優美さにやられる人もいるらしく、現に、カフェテラスの前を通り過ぎていったカップルは、二人揃ってジェイドに視線を奪われていた。さっき注文する時だって、店員さんがジェイドに見惚れていたことには気づいている。声だって少しばかり上擦っていたし、接客中の笑顔も素晴らしいものだった。因みに、私の分までジェイドが注文してくれたので、店員さんは一度として私に目をやることはなかった。

 私が出会いを求めて苦労している一方で、普通に生活しているだけで人々を魅了するこの男が心底恐ろしく、羨ましい。ここまで差があると悲しくなってきて、思わず「はあ」とため息をついてしまった。

「おや、どうしましたか?」
「いや、ジェイドはこんなにモテるのに、なんで私はこうも上手くいかないんだろう、って思って。マッチングは出来てるのに」

 そう言って、天を仰ぐように、椅子の背もたれにもたれかかる。メッセージでのやりとりと、実際に会うところまではなんとか漕ぎ着けられるのに、どうしてかその先へ繋がらない。こうやってジェイドに愚痴るのも何度目だろう。

 自分でも気がつかないうちに、選り好みしているのだろうか。でもマナーや趣味に関する価値観は、最低限すり合わせておかないと、後で後悔することになるし。だったら妥協しても意味がない。それとももう少し寛容になるべきなのだろうか。いやでも、ずっと我慢するのは難しい。

 私がそうやってぐるぐると考えている傍らで、ジェイドは暫し黙り込んであと、そっと口を開いた。

「不特定多数に好意を寄せられても、選べるのはたった一人ですから意味ありませんよ」
「モテる男の言葉の重みよ」
「それに、そのたった一人に振り向いてもらえるかも分かりませんしね」
「えー? ジェイドならちょっとアタックすればいけるでしょ」
「そう上手くはいかないんですよ」

 そう言って、ジェイドはもう一度カップに入った紅茶を口に含んだ。その仕草だけでも様になっていて、やっぱり綺麗な所作だな、と思う。この姿を見れば、大抵の人はジェイドに好意を持つと思うけど。ジェイドが言うように、そうではない人もいるらしい。それが信じられずに、訝しげにジェイドと瞳を合わせる。

「本当に? ジェイドでも落とせない人っているの?」
「もちろん。どれだけアピールしても、全く靡く様子がありませんし」
「え! ジェイドって好きな人いたの!?」

 初耳の情報に、少しばかり声が大きくなってしまった。近くの席に座っているお姉さんには、確実に聞かれただろう。現に、お姉さんとバッチリ目があってしまい、気まずげに目を逸らされる。

「え、初耳なんだけど。誰? 私の知ってる人?」
「さあ、どうでしょう」

 矢継ぎ早に問いかけてみても、返ってくる言葉は曖昧なものばかりだ。普段から、ジェイドの本心なんて見抜けた試しがないのに、特定の人物を当てるのなんて尚更無理に決まっている。

「出た、秘密主義。せめてどんな人か教えてよ」

 本人も口を滑らせるつもりはないらしく、私が興味津々に聞いても、煙に巻かれるだけだ。かと言ってここで食い下がるのも惜しい。だって、あのジェイドが恋をするような人なのだ。気にならないわけがない。
 せめてどんな人なのかを知りたいと思い、その人物の人となりについてを聞いてみる。好奇心を隠しきれていない私の問いかけに、ジェイドは顎に手をあてて考え始めた。

「どんな人、と言われると……そうですね……猛進する人、でしょうか」
「は?」

 てっきり、駆け引きのうまい綺麗なお姉さんだとか、おしとやかで仕事の出来るオシャレ女子とか、そういう女性をイメージしていたのに、ジェイドの口から出てきたのは、褒めているのかさえ怪しい言葉だった。猛進といえば、激しい勢いで真っ直ぐ突き進む、みたいな意味だったはず。猪突猛進という四字熟語があるくらいだし、大まかな意味は合っているはずだ。

「……それって褒めてるの?」
「もちろん」

 訝しげに聞いた私に対して、ジェイドはニコリと胡散臭い笑みを浮かべたまま答えた。どうやらジェイドにとってはプラスな言葉らしい。綺麗なお姉さんもしくはオシャレ女子と、イノシシが頭の中でどうにも繋がらず、ジェイドの「好きな人」の謎が更に深まっていく。

「……それ本人には言わないほうがいいよ」
「もう遅いかもしれません」
「え!? もう言っちゃってるの!?」

 絶対褒め言葉に捉えられてないよ、それ。頬を引き攣らせながらそう言ったが、ジェイドは焦るでもなく、「大丈夫です」と涼しい顔だ。

「絶対大丈夫じゃないって。最悪嫌われるよ」
「そこまで気にする方ではないので。貴女はどうですか? そう言われて、僕のことを嫌いになりますか?」
「えー、別に嫌いにはならないけど……でも褒め言葉とも思えない……ジェイドだから許すけどさあ」
「ほらね」
「ほらねじゃないよ」

 私とその人は違うのに。私は付き合いの長いジェイドだから許せているが、他の人から言われたら少し苦い顔をすると思う。それでも気にしないなんて、よっぽど器の大きい人なのかもしれない。それこそドンと構えているような。

「ダメだ。玉座に座った女王様しかイメージが浮かんでこない」
「ふはっ」
「もうちょっと情報ないの?」
「ふふ……そうですね……まあ、僕がどれだけアピールしても気が付かないくらいには、察しが悪いかもしれません」
「ねえ、だからそれ褒めてないって。もっと良いところあるでしょ。本当にその人のこと好きなの?」
「好きですよ」

 そう言ったジェイドの瞳が、思いのほか優しげで、自分に言われたわけではないのにドキッとする。その表情だけで、ジェイドの言葉が嘘でないことは分かったが、それにしては言葉の節々に棘が感じられて、素直じゃないなあ、と思う。言葉よりも瞳の方がよっぽど雄弁だ。

「ふーん。あのジェイドも恋するんだねぇ」
「ええ。この僕でも、恋をしているんですよ」

 そう言って、ジェイドはこてんと首を傾けて微笑んだ。宝石のように美しい瞳は、やっぱり優しい光を纏っていて、上手く回る口よりも、その顔を見せた方が効果的なのにな、と思う。指摘してもわけが分からないだろうから言わないけれど。

 それにしても、やっぱり綺麗だな、と思う。少しの仕草で一枚の絵のように美しくあるのだから、これを目にしても見惚れない人がいることが未だに信じられない。
 この美しさに気が付かない人なんて、やめておけばいいのに。

 ジェイドの恋を応援したい気持ちがあることも確かなのに、そう思ってしまったことに、自分で自分が嫌になった。私がジェイドの恋路に口を挟むべきではない。

 それに、彼の良いところは美しさだけではない。好きなものに注ぐ愛情と熱量。必要な努力を怠らないところ。周りを気にせず、自分のやりたいことを突き通せるところ。なんだかんだと言いつつも、優しいところ。

 いつも突然「飲みに行こう」と誘っても、よっぽどのことでは断らないことだって、ジェイドが優しいからこそだ。私は、この優しさに甘えてしまっている。もしジェイドに恋人ができたら、こうやって一緒に飲みに出かけるのも出来なくなる。そう思うと、ジェイドを応援したい気持ちはあるはずなのに、なんだか惜しくなってしまった。

「……ジェイドに恋人できたら、会えなくなっちゃうのかあ」

 ――それは寂しいなあ。

 さすがにそれは言葉にしなかったけれど、多分ションボリと下がった眉でバレていたと思う。実際、私の言葉を聞いたジェイドは一瞬大きく目を見開いて、それからすぐにニヤリと意地悪く笑った。

「ほう? これはこれは」
「うーわ、マジでその顔やめて」
「貴女、僕と会えなくなるのが嫌なんですか? へえ? ふぅん?」
「最悪……言うんじゃなかった」
「そんなに拗ねないで」
「拗ねてないから」

 未だにニヤニヤと揶揄ってくるジェイドを、ギロリと睨みつける。やっぱり言うんじゃなかったと今更後悔したって遅い。それに、さっきの言葉は嘘ではないわけで、否定も出来ない。仕方なく素直に気持ちを受け入れ、せめて軽いノリを意識して言葉を返す。

「でも、本当にジェイドに恋人ができたら、絶対会えなくなるでしょ? これから誰と飲みに行けばいいの?」
「大丈夫ですよ。僕に恋人が出来ている頃には、貴女にも恋人がいるはずです」
「本当に? 出来てると思う? 信じるよ?」
「もちろん。僕、嘘は吐きませんので」
「それは嘘」
「そんな、酷いです。しくしく」

 やっといつものような空気が戻ってきて、内心ほっとする。こういう軽い感じの方が私達の性には合っている。あんまり近づきすぎても、後が辛くなるから今くらいの距離感がちょうど良い。

 だけど、本当にもしもジェイドがその人と結ばれたのなら。私は、ちゃんと離れなければいけないなと思う。私だって、恋人が自分以外の異性と会っているなんて、絶対に嫌だ。やましいことはないと言われても信じられるはずもなく、相手を問い詰めるだろう。

 というか、付き合う前でも自分以外の女の影は嫌に決まっている。もしかしたら、ジェイドの好きな人が、ジェイドに靡かない要因の一つは私にもあるのかもしれない。そう気づいてしまったら、なんだかジェイドに申し訳なくなってきた。

「……ねえ、ジェイド。私と会ってて大丈夫なの? その人、勘違いしたりしない?」
「は? 何をですか?」
「いやだって、ほら。自分以外に仲の良い女がいたら、なんとなく嫌じゃない?」
「ああ、そういうことですか。それなら大丈夫です。貴女以外に親しい女性はいませんし、さっきも言いましたが、どんか……察しの悪い方なので」
「同じ意味だし、フォロー出来てないからね」

 再び、その人のことが本当に好きなのだろうかと思ってしまうのも無理はない発言だった。さっきのジェイドの表情を思い出すことで、なんとかまだ信じられているが、たぶん三回目はない。

「だけど、本当に気にした方がいいと思うよ。その人のこと知らないからアレだけど、大抵の人は自分以外の異性と会うことを嫌がると思うし」
「では、今日の予約キャンセルしますか?」
「……それは……ちょっとだけ……考えてみない……?」
「ふふふ」

 自分から言っておいて、手のひらを返すように食い下がってしまった。だって、もう既に魚料理と日本酒の口になってしまっているのだ。今更やめておこうは酷すぎる。

 情けなくも言い訳をして、今日だけは許してもらおうと、ジェイドの言葉を信じることにした。心の中で、顔も知らないジェイドの想い人に謝って、私もはやくジェイド以外の誰かを見つけなければと思う。

 今でさえこんなに甘えきっているのに、そう易々とジェイド離れが出来るか不安になって、先行きは険しそうだとため息をついた。

「ああ。そういえば、フロイドが美味しいピザのお店を見つけたとかで。今度三人で一緒に行きましょうか」
「え!? 行きた、あ……」

 条件反射で答えてしまい、早速決意を裏切ってしまったことに、自分で自分にびっくりした。もはや考える間もないくらい、本当に即答だった。

 フロイド君がいるなら大丈夫か……? これはセーフ……? と頭の中で悩んでいる間にも、ジェイドは「ではフロイドにも伝えておきます。また日程が決まったら連絡しますね」と早々に約束を取り付け、今更やっぱりやめておこうとは言い出し難くなってしまった。

 私も、ジェイドの恋路と、ピザ(とフロイド君)を天秤にかけて少し悩んだ末、結局ピザ側に傾いた天秤という名の本能に従うことにした。フロイド君が認めたとなれば、さぞかし美味しいに違いない。ジェイドが言うには、少しばかり鈍いながら、器は大きい女性なようなので、今回はその言葉を信じることにした。何か言われたのならさすがに止めようと思うが、私としても飲み友達を失うのは中々に痛い。

「ところで、貴女が観たいと仰っていた映画、もう観ましたか?」
「え? まだだけど」
「ここの近くの映画館で、三十分後に上映されるようですがいかがです? 予約の時間まで余裕がありますし」
「え、行きたい。調べててくれたの? さすがジェイド」
「お褒めに預かり光栄です」

 そう言って微笑んだジェイドは、「それでは参りましょうか」と立ち上がる。もう既に、二人のティーカップの中身は空っぽだ。立ち去るにはちょうど良い。私もジェイドに続いて立ち上がり、自分の荷物を手に取る。

「それじゃあ、行こうか。……と、その前に」
「ええ、やりましょうか」
 お互いがお互いに向き直り、ニヤリと笑って手を構える。
「ジャンケン、ポン!」

 掛け声とともに付き合わされた手は、私がチョキで、ジェイドがパー。紛うことなき私の勝ちだ。

「わーい、ごちでーす」
「はいはい、奢らせていただきます」

 これは、私達がよくやる勝負だ。さすがに金額が大きな時はやらないけれど、今みたいにカフェだったり、コンビニだったり、小さな買い物の時はジャンケンで負けた方が奢ることになっている。

「ジェイドって、なぜかジャンケンは弱いよね」

 トランプやらしりとりやら、その他のゲームでは彼に勝てた試しがない。私が唯一ジェイドに勝てるのがジャンケンだった。だからこそ、このゲームにはジャンケンを選ばせてもらっているのだが、ジェイドが文句を言うことはない。

「そうですね、貴女相手には連敗中です」
「私、もしかしてジャンケンは強い?」
「さあ。今度フロイドと勝負してみますか?」
「それは多分負ける。フロイド君ってここぞの時に決めるし」

 ジェイドがいつの間にか手にしていた伝票を片手に、レジの方へと向かっていく。その背中を追いかけながら、仕方がないから映画館でポップコーンを買ってあげようと思う。もちろんジュースだって付けてあげよう。なんせ、今日呼び出したのは私の方なので。

「随分と楽しそうですね」
「そう見える?」

 私の隣に並んだジェイドが、私を見て言った。確かに、もう既に、今日あった嫌なことなんて全て忘れてしまったかのようだ。あんなにイライラとしていた自分が信じられないくらい、今の気分は最高潮に等しい。

 もう両手でも数えきれないくらい、こうやって付き合ってもらっているジェイドには頭が上がらないけれど、それでもきっと次も同じように、私は彼を頼るのだろう。だって、ジェイドと話すのは楽しいし、楽だし、美味しいご飯とお酒だって一緒に分かち合える。こんな素敵な友人、なかなかいない。

 今日は最悪の一日のはずだった。それが、ジェイドと会って少し過ごしただけで、こんなにも上機嫌になっている自分が少しおかしい。単純すぎやしないだろうか。

「この後は楽しみな予定しかないからな〜」
「ふふ、そうですか」

 随分と優しく笑ったジェイドに、私はなんだか嬉しくなって、そのまま「んふふ」と笑った。ああ、楽しい。まだシラフなはずなのに、既に何かに酔っているかのように、何にでもなれる気さえしてきた。スキップでもしたい気分になって、大きな一歩で隣を歩いているジェイドを追い越す。

「ジェイド〜はやく行こ〜」
「はいはい」

 仕方なさそうに笑ったジェイドは、同じくらい大きな一歩で私の隣に追いついた。


◆ ◆ ◆


「あ」
「なに? どうかした?」

 二人の休日が重なったとある週末、かねてよりジェイドと約束していたショッピングの最中、突然声を上げて立ち止まった自身の片割れに、フロイドは首を傾げながら隣を見やった。二人ともそれぞれ両手にショッパーを持っている。フロイドは新しく拵えてもらった靴を、ジェイドは新しい食器を。どちらも吟味して選んだ品である。

 ジェイドはスマホを片手に立ち止まったまま、暫し考えている様子だった。暫く待ってみたけれど、ジェイドは答える気配がない。ジェイドが動き出すまで待とうかとも思ったが、すぐに飽きてしまったフロイドは、もう一度ジェイドに声をかける。

「ねぇ〜ってば」
「ああ。すみません、フロイド」

 全くすまないと思っていない顔と声で、ジェイドはフロイドに謝った。いつもよりも随分と機嫌が良さそうである。それこそ、キノコの世話をしている時や、テラリウムが完成した時、面白いことが起こった時、はたまた好物を目の前にした時みたいに。

「なに? なんか良いことあったの?」
「良いこと、ええ、そうですね。ふふふ。良いことです」
「なぁに? オレにも教えてよ〜」

 ジェイドは、ついに笑みを隠しきれず、声に出して笑い始めた。よっぽど嬉しいらしい。一体何事だとフロイドは笑みを深め、ならば自分にも共有しろと甘えた声を出しながらジェイドにもたれかかった。楽しいことならば自分だって知りたい。そう思ったゆえの行動だった。

「お誘いがあっただけですよ」
「お誘い……ああ、そゆこと」

 なーんだ、と言ってフロイドはつまらなさそうにジェイドから離れた。ジェイドが上機嫌な理由は、ただ単に、好きな子からお誘いの連絡があったかららしい。ならば自分は関係ないなとばかりに、フロイドはすぐに興味を失った。自分も何度か彼女には会わせてもらったことはあるが、片割れの番候補という色眼鏡を通して見ているので、フロイドが彼女に何か特別な感情を抱くことはない。まあ、ジェイドのお気に入りなので、そこそこ身内にはカウントしているが。

 以前、フロイドは一度、ジェイドに彼女のどこが好きなのかを聞いたことがある。いわく「猛進するところ」とのことだが、ジェイドらしい答えに、フロイドは鼻で笑うように「ふーん」と言うのみだった。

「会いにいくの?」
「ええ。そこで申し訳ないのですが、フロイド」
「はいはい。分かってる。買いたいもんはほとんど買えたし、ここで解散でいーでしょ?」

 ジェイドが最後まで言う前に、フロイドは「はいはい」とテキトーな声で了承する。本当は夕方まで街を堪能するつもりだったが、残念ながら今日のショッピングはここでお終いだ。好きな子からのお誘いを、ジェイドが断るとも思えない。ならばさっさとここで別れてしまおうと、フロイドは気だるげに言葉を吐いた。

「そのかわり、アズールから言われてた店の視察、ジェイドが行ってよ」

 もちろんタダでとは言わないが。

「ええ、かしこまりました。確か、明後日の十九時で予約を取っていましたね?」
「そーそー。よろしくねぇ」
「ありがとうございます、フロイド。ついでに、もう一つお願いしても?」

 そう言って自分の持っていたショッパーを掲げたジェイドに、フロイドは、うげっと嫌そうな顔をする。皆まで言わなくとも、ジェイドの言いたいことが分かってしまった。ジェイドの買ったものは食器。それも一枚や二枚の数ではない。陶器でできた平たい皿から、クリスタルガラスのグラスまで、重たくて割れやすいものが入っている。

 自分の買い物分だけでも既に荷物になっているのに、ジェイドの分まで持ち帰るとなると些かどころか、だいぶ手間だ。しかも重くて割れやすいものとなれば、壊さないように気をつけて運ばなければならない。全てが面倒になったフロイドは、嫌そうな顔のまま「え」と声を漏らした。

「ジェイドの重たいのばっかじゃん」
「そこをなんとか、お願いします。この荷物を持ったままでは、彼女に会いに行けません」
「も〜」

 フロイドが苦い顔をしても、ジェイドは引き下がることはなく、仕方なくフロイドは渋々引き受けてやった。確かに重い荷物を持ったまま何時間も歩くのは面倒だ。面倒なのだが、自分だって嫌なものは嫌だった。だからもう一つおまけに、フロイドは対価を請求することにした。

「賄いでキノコ使うの一ヶ月禁止」
「そんな……せめて一週間になりませんか?」
「はあ? いいわけねーだろ」
「十日」
「三週間」
「……二週間でどうです?」
「決まり」

 そう言ってフロイドは、ジェイドの方へ手を差し出した。さっさと渡せの合図である。フロイドの長い腕に、ジェイドはショッパーの手持ち部分の紐を通した。ずしんとフロイドの片腕が重くなる。

「ありがとうございます」
「はいはい。あの子によろしく言っといて」
「ええ、もちろんです」

 これは嘘だな、とフロイドはすぐにジェイドの本心を見破った。長い付き合いの割に、ジェイドが彼女をフロイドに紹介してくれたのはここ一年の話だし、それでも頻繁には会わせてくれない。そのくせ、都合が悪い時だけフロイドを出しに使って、なんとか彼女と会う機会を作っている。何かと理由をつけて二人っきりで会おうとしている片割れに、フロイドは我が兄弟ながら、その図体とは真逆で小さな男だと辟易した。

「じゃあね〜」

 上機嫌な片割れを残し、フロイドはひらりと手を振って歩き始めた。もう少しどこかの店を物色した気分だったが、この重たい荷物を持ったまま練り歩く自分を想像して、すぐに気持ちが萎えてしまう。あーあ、やっぱりこのまま帰ろうと、フロイドは数駅離れた我が家へ向かうべく、駅の方へと足を運ぶ。

 ジェイドも飽きないものだな、とフロイドは思う。ジェイドが彼女に入れ込むようになってから、少なくとも三年は経過している。フロイドが彼女の存在を知ったのがそれくらいなので、それ以前の話は知らないが、まあ恐らく、その前から好きなのだろうな、とフロイドは憶測した。

 我が片割れのことながら、面倒な人魚に好かれてしまったあの子を哀れにも思う。数年経っても諦めるつもりなんてさらさらないジェイドに、あの子は一体いつ捕まるのだろうか。それに気がついていない彼女も随分な人物ではあるが。

 猛進、猛進ねぇ、とフロイドは、記憶の中のジェイドの言葉を思い出した。大凡、褒め言葉ではないのだが、ジェイドにとってはプラスのイメージになるらしい。フロイドの片割れは素直ではないので、言葉の選び方にもそれは表れる。

 残念ながらフロイドはジェイドではないので、本当のところは分からない。けれど、フロイドは同じように、ジェイドの兄弟でもあるので、誰よりもジェイドの本心を憶測できた。

「周りも目に入らないくらい、突っ走ってる奴見るの、好きそうだもんねぇ」

 何をしでかすか分からない。勢いだけで突き進む。それだけでも、ジェイドの琴線に触れそうではあるので、ジェイドが彼女に恋をするのも頷けた。まあ、これはあくまで憶測にしか過ぎない。なんせ、フロイドはジェイドはないので。

 さっさと落とせばいいのにと思うものの、前回会った時も彼女は全くジェイドの気持ちに気がついている様子はなかった。あのジェイドでも苦戦しているらしい。急いては事を仕損じるので、ジェイドが焦って事を進めるとも思えない。思えないけれど、よく我慢できるなと思う。

 見た目も所作も完璧な男が傍にいて、彼女もよく惚れないものだ。大抵の女ならコロッといくはずなのだが。よっぽどジェイドに興味がないか、よっぽどのニブチンである。そして、そんな状況を我慢出来て、ジリジリと狙っているジェイドもジェイドだ。

「ほーんと、よくやるわ」

 眠くなってきたフロイドは、大きな欠伸をしながら呟いた。もう既に、フロイドの中ではこの二人のことはどうでもよくなってきている。さっさと帰って眠りたい。
 両腕に抱えた重たい荷物を、きちんとジェイドの家まで送り届ける気力も無くなってきた。もうこのまま自分の家に持って帰ってしまおう。そうすれば、忘れた頃にジェイドがフロイドの家まで回収しにくるだろう。

 「ふあ〜あ」ともう一度欠伸を零したフロイドは、また自分が出しに使われるとは、思ってもいないのである。



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