あいという




 アズールは今になって、小さい頃に自分を可愛がってくれた両親やリストランテの従業員の気持ちが分かるようになった。

 もちろん当時だって彼らから可愛がられていることは、アズール自身感じていた。けれど、当時の自分はそれを受け取るばかりで、どうして彼らが自分を可愛がる、もといアズールの好きなものばかりを与えるのか理由を考えたことはなかった。だから、家族やお店のスタッフが優しいのは、あの頃のアズールにとって当たり前のことだった。

 それが今になって、アズールはあの頃の大人の気持ちをなんとなく理解した。けれど、言語化すると随分と陳腐なものになる気がして、アズールは敢えてそれを言葉にしようとは思わなかった。

 さて、と心の中で仕切り直すように呟いたアズールは、手に持った紙袋の持ち手を軽く握り、帰りを急いだ。今日は珍しくも早い時間に仕事が落ち着き、ならば次の事業計画やら部下の評価やらとやるべきことに手をつけようとしたのだが、それを察したジェイドに止められたのである。「せっかく仕事が終わったのならば、たまには早く帰ったらいかがですか」と。

 アズールはお前が帰りたいだけだろうと思い口を開こうとしたが、少し考えたのちにジェイドの提案を受け入れた。彼の言う通り、たまにはこのまま帰るのも良いだろうと思ったのである。

 普段から仕事が忙しく家に着くのはどんなに早くても二十時を回ってからだ。学園の敷地内にある寮で暮らしていた学生時代や、多少無理をしていた独身の頃であればいざ知らず、今のアズールは私生活を少しでも犠牲にしようとは思えない。なにせ今のアズールには、家で自分を待ってくれている人が居るのだから。

 アズールと名前が出会ったのは、NRCを卒業してからだ。別に彼女自身がどこかの家の令嬢なわけでも、有能な実業家なわけでなく、普通の家で育った一般人だった。仕事の関係で参加した企業の記念パーティに彼女は参加していた……というわけでもなく、そのパーティが開かれたホテルのサーブスタッフとして働いていたのが名前だったのである。

 そこで一目惚れしてやら彼女の腕を買ってやら、ドラマのような理由があれば多少二人の馴れ初めに箔がついたのかもしれないが、残念ながら二人の一回目の出会いは互いが互いを気にすることなく終わってしまった。まあ、彼女自身は風貌からアズールのことは覚えていたようで、二度目の出会いで「あの時の人だ」と気づいていたらしい。

 そこから色々あって、数年経った今では籍を入れているのだから人生何が起こるのか分からない。そしてまさか、自分が誰かのために、それも何か見返りを求めることもなく何かを「してあげたい」と思うようになるなんて、それこそアズールは思いもしなかった。

 帰路を急ぐ傍ら、手に持ったケーキ屋の紙袋が大きく揺れないように細心の注意を払う。この店は名前お気に入りの店で、彼女曰くクリームが美味しいらしい。アズールも何度か食べたことはあるが、確かに軽やかで程よい甘味のあるクリームはなかなかだった。彼女が気に入るのも頷ける。

 しかしながら家からも駅からも少し離れたその店は、頻繁に行くには少しばかり億劫らしく、この店のケーキが食卓に並ぶのは数ヶ月に一度だ。アズール自身も普段から食には気を遣っているため、自ら進んでこの店に足を運ぶことはない。そもそも仕事のある日に、このケーキ屋の閉店に間に合うことなんて今までなかったので、寄ろうとも思わなかった。

 そのため、アズールがこの店のケーキを食べるのは名前が買ってきた時のみだ。数ヶ月に一度あるかないかの記憶ではどれを買うべきか暫し迷い、結局季節もののフルーツタルトと定番のショートケーキ、それから彼女が毎回食べている、チョコレートのクリームがふんだん使われたものを選んだ。

 アズールはショートケーキを食べるとして、残り二つは名前の胃のなかに収まるだろう。恐らく全部食べたくて、アズール用に買ったショートケーキにも目移りするだろうから、今回も「一口ちょうだい」が出るに違いない。その姿がすぐに想像できて、アズールは口元を少し緩ませた。

 冷えた風が頬を滑っていくのを感じながら、すっかり暗くなってしまった帰路を急ぐ。ケーキ屋に寄っていたせいで少し時間がかかってしまったが、それでもいつもよりは早い時間に家に着けそうだ。早めに帰れることは彼女に連絡済みのため、今頃アズールの帰りを今か今かと待っていることだろう。少しばかり癪ではあるが、ジェイドの言う通りたまには仕事をさっさと切り上げて帰るのも悪くない。その分名前と過ごす時間が増えるのは、喜ばしいことなので。

 左手に持ったケーキの袋をもう一度見てアズールは思う。まさか自分が、誰かの喜ぶ顔が見たいがためにその人の好物を買う日が来るなんて。何度も言うようだがアズールは本当に――心の底から言わせてもらうが――全くもって、思いもしなかったのである。

 ◇ ◇ ◇

「おかえりなさい」
 アズールが自宅の扉を開けた音に気がついた名前は、奥の部屋からひょこりと顔を出した後、アズールが手に持った紙袋を見てそれが何か分かったらしくキラキラと目を輝かせた。

「それケーキ!?」

 分かりやすいほどの反応に、アズールは眉を下げつつもやっぱり少し笑い、それから「ただいま帰りました」と言葉を続けた。

「そうです。たまたま近くに行く用事があったので」
「やった~。楽しみ」
「ご飯の後ですよ」
「はーい」

 間伸びした返事をしつつアズールから紙袋を受けとり、上機嫌でリビングへ向かう名前の背中をアズールも追おうとして、ふと足を止めた。寒い外とは違って室内は暖房が効いていて暖かい。それに今日の夕飯だろうか、トマト煮込みの良い香りもする。ただそれだけで、アズールは「ああ、帰ってきたんだな」と自分の心が穏やかになるのを感じた。一人暮らしの頃は帰ってきても真っ暗で寝に帰るだけのような家よりも、寧ろ会社にいる時間の方が好きだった。

 それがまさか。香り、温度、音。たったそれだけのことなのに、誰かがいることでこんなに安心出来る空間になるなんて。彼女と暮らすようになるまでそんなこと知らなかった。

「アズール? 何か先にやることある?」

 先にリビングの方へ行っていた名前は、中々やってこないアズールを不思議に思ったのか、またもリビングのドアからひょこりと顔だけを出してアズールに問いかけた。まさかこの幸せに浸っていたなんて言えるはずもなく、アズールはすぐにいつも通りの笑顔を浮かべながら、廊下を進む。

「いえ。着替えたらすぐに行きます」
「じゃあもうご飯の用意するね。今日はトマト煮込みだよ。パンは食べる?」
「今日はやめておきます。ケーキがあるので」
「あ、そっか。じゃあ私も少なめにしとこうかな……」

 「食べない」という選択肢がないことが、食べることが大好きな名前らしくて、ふっと声が漏れた。それを見ていた彼女は、アズールが何に笑ったのか分かったのだろう。少し照れた様子で、「ふへへ」と変な声を出した後、またリビングの中に姿を消した。

 ◇ ◇ ◇

「ケーキ! ケーキ!」
「落ち着いてください」

 夕食後、さっさと皿洗いを済ませ、その間に紅茶を入れ、準備万端の状態で冷蔵庫からケーキの箱を取り出してきた名前は、浮かれ切っているのが側から見ても分かる。食卓のど真ん中に箱を置き、あらかじめ準備していた皿とフォークを並べ、ワクワクとした面持ちでケーキが入っている箱を開けた。

「うわ~どれも美味しそう……まって……どれから食べよう……ていうかどれにしよう……」
「ゆっくり決めていいですよ。僕は一つで十分ですし」
「えー……迷う……」

 案の定三つでさえも迷っているらしく、今でこれならば、実際にショーウィンドウに並んだ沢山のケーキを目にした時は一体どれだけ時間を掛けているのだろうか。きっとうーうー言いながら厳選に厳選を重ね、選ばれなかったケーキ達に後ろ髪を引かれながらも店を後にしているんだろう。しかも季節によって並んでいるものは違っているだろうから、期間限定やら数量限定やらの言葉にも惑わされているに違いない。今まで選ばれてきたケーキは、いわば激戦を勝ち抜いたエリート達だったわけだ。

 その中でも毎回必ずと言って言い程、生チョコレートケーキは入っているので、アズールは聞かなくてもこれが名前のお気に入りなのだと分かっていた。だから今回も選んだわけだが、箱の中に真剣な眼差しを向けながら、やっぱり「チョコは絶対食べるとして……」と呟いた彼女に、アズールは心の中でにんまりと笑みを浮かべた。

「フルーツ……でもショートケーキもな生クリームがなー……うー……決めた! チョコとフルーツタルトにする! で、先にチョコ食べる!」
「では僕はショートケーキを」
「あー生クリーム……ねえ、一口食べちゃだめ?」
「ふふ、良いですよ」
「いいの!? やった~」

 アズールの予想通り、やっぱりアズール用のケーキにも未練が残っていたらしく、案の定「一口ちょうだい」が聞けた。「ありがとう」と言いつつ、アズールの皿に移されたショートケーキの先端を一掬いしていく。

「アズールもチョコ食べていいよ」
「ええ、いただきます」

 名前がアズールの方へずい、と皿ごと自分のケーキを差し出したのを、アズールは純粋に受け入れる。別に相手が彼女であれば対価を求めたりはしないのだが、自分が貰っておかないと次から名前が「一口ちょうだい」をやり辛いらしい。以前カロリーを気にして断った際に、次から名前がアズールのものを貰うのを遠慮し始めたので、それ以来アズールも素直に受け取るようにしている。もちろん次の日の運動量を増やす羽目になったが、それを良しとしまえる自分がいる。

「やっぱりここのお店のケーキ美味しいよね。毎日食べたい」

 目の前の彼女がニコニコと幸福そうに食べる様子を見て、アズールは満足そうに口元に弧を浮かべると、漸く自分の分のケーキにフォークを突き刺す。相変わらず軽やかな生クリームは、夜に食べても響かない。動物性と植物性のものを合わせているのだろうか。ショートケーキというシンプルでありながら、基本がゆえに味の違いがハッキリと出るものにここまで満足出来るのは、なかなかだろう。彼女が気に入って何度も足を運ぶのも頷けた。

 ゆっくり時間をかけて一口一口大切そうに食べる名前を見ながら、アズールは小さい頃に自分を可愛がってくれた両親やリストランテの従業員を思い出す。誕生日にはお店の一番大きなテーブルいっぱいに並べられた自分の好物を、満足のいくまで食べさせてくれた彼らを。あれもこれもと沢山与えてくれたあの時を。おかげで小さい頃のアズールはどこからどう見ても肥満児に育ったわけだが、そして今でもそれを良い思い出だとは言えないわけだが、彼らのことを恨むようなことはしない。

 家族だけならいざ知らず、どうして従業員まであんなに可愛がってくれたのだろうと考えるようになったのは、陸に上がって家族の元を離れてからだ。それまでは自分を馬鹿にした奴らを見返してやるという確固たる思いしかなく、他のことを気にする余裕がなかった。

 どれだけ周りが心配しようとも、アズールはダイエットをやめず、一日に必要な栄養素とカロリーを計算し、食事制限をし、運動量を増やし、そうしてやっと理想の体を手に入れた。自信がついた頃にはNRCからの招待状が届いていて、陸に上がらねばならず、結局アズールが何も気にせず思うままに食べたのは、ミドルスクールの最終学年の誕生日が最後だ。親元を離れて漸く、当たり前に受け取っていたそれが、彼らからの惜しみない愛情だったのだと気がついた。

 こうして自分の目の前で美味しそうに食べている名前の姿を見ると、アズールは今になってやっと、当時の彼らの気持ちがよく分かるようになった。大切な人が美味しそうに食べている姿は嬉しいものだし、その顔をもっと見たくて過剰に与えすぎてしまう気持ちも頷けた。相手が子供なら尚更だろう。

「はあ……美味しかった……もう一個食べたい……」

 ゆっくりと時間をかけても、いつかはなくなってしまう。名前はちびちびと食べていたケーキの最後の一口を味わうように咀嚼すると、ため息でも吐くかのように項垂れた。もう一個食べたいと言いながら、視線は箱の中に残ったフルーツタルトに注がれている。確かにもっと喜んでいる顔が見たいのは本心だが、アズールは太った際に元の体重に戻すまでの苦労も知っている。そして、彼女自身も体重を気にしていることも。

「これ以上はダメです。フルーツタルトは明日になさい」
「え~」
「太りますよ」
「うぐ……」

 アズールが決定的な一言を言えば、名前は押し黙った。視線はタルトに注がれたままだが、渋々箱を閉じて冷蔵庫に仕舞いに行ったので、どうやらアズールの勝ちらしい。与えることだけが愛情の注ぎ方ではない。厳しくするのもまた愛情だ。後で苦しむことになるのは彼女自身で、アズールはそれを良しとしない。

「美味しかったね。ありがとう、アズール」

 名前はもう機嫌が直ったらしく、お皿をシンクへと運びながらそう言った。こういうところも彼女の良いところだ。家族であったとしても、お礼を言うことを忘れない。アズールは「どういたしまして」と返しながら、彼女を手伝おうと同じくキッチンへと向かう。手際よく洗われた食器達を受け取り、タオルでしっかりと拭いてから食器棚へと戻す。

「お風呂沸いてるけどアズール入る?」
「いえ、僕は後で良いです。お先にどうぞ」
「そう? じゃあ先にいただくね」

 名前はそう言うと、着替えをとりに自室へと向かった。アズールはそれを見守ってから、彼女がお風呂から上がるまでの間、何をしようかと暫し考える。彼女が居ないのならば少しばかり仕事をしても良いかもしれない。普段仕事ばかりで家をあける時間が長い分、家にいるときは出来る限り二人の時間を過ごすように心がけているので、なるべく仕事のことは考えないようにしているが、一人になった今ならば良いだろう。

 彼女はお風呂からあがるまでどんなに早くても三十分はかかる。この時間ならば、直属の部下一人くらいの評価なら出来るかもしれない。それならばとアズールは鞄の中に仕舞ったままのタブレットを取りにいくべく、自分の部屋に向かう。

 鞄の中からすぐにタブレットを取り出し、どうしようか迷ってからまたリビングへと踵を返した。お風呂から上がった名前の髪を久々に自分が乾かしてやりたい気持ちになって、余暇の時間があると人はこうまで心に余裕が出来るのかとしみじみ思う。

 普段から仕事とプライベートの時間は分けるように心がけていたが、もう少し早く家に帰る日を増やしても良いかもしれない。それこそ週に一度はノー残業デーを設けるだとか。これならば社員の福利厚生にも繋がるからいいアイディアかもしれない。すぐに仕事に思考を裂いてしまうのはアズールの悪い癖だが、こればっかりはどうしようもない。

「ケーキ、ケーキ♪」

 アズールが資料を読もうとタブレットを片手にソファに座り直した時、廊下から聞こえてきた鼻歌に、アズールは思わず「ふはっ」と吹き出した。冷蔵庫に残した明日用のケーキがよほど楽しみらしい。それか、今さっき食べた方の余韻に浸っているか。ケーキ一つでここまで幸せそうに喜んでくれるのだから、こちらとしても与えがいがある。アズールの些細な行動でこうも上機嫌になる彼女を、可愛いと思わないはずがない。

 ああ、もう。こういうところが。

 アズールはなんだか胸がむずむずと擽ったくなるような、暖かい火が灯るような、この感情をもう少し噛み締めていたいような気持ちになって、やっぱりそういうことなのだろうなと思う。目尻が下がるのが自分でも分かって、まさか自分がこうも腑抜けた男になるなんて思いもしなかったが、それでも彼女と出会う前に戻りたいとは思えないのだから、人生は何が起こるか分からない。

 敢えて陳腐な言葉にはしないが、名前はアズールにとって大切な人である。一緒に暮らしたいと思うくらいには。仕事が大好きな自分が、早めに帰ろうかなんて考えるくらいには。

 そして、近くに行く用事があったなんて嘘を吐いて、わざわざ遠回りまでして彼女のために好物を買いに行くくらいには。



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