07

「ッ…!」

小さな呻き声が聞こえたような気がして薄っすらと目を開けた。見えるのは天井だ。ベランダから透明感のある青い光が差し込んでいて、どうやら早朝なのだということが伺える。まさかこんなに早く目覚める日がくるなんて。

なんとなしに部屋を見渡すとゆらゆらと動く影がある。それはハリネズミのような…ああ、ラディだ。ソファに身体を起こしているらしい。

もしかしてラディ、何か喋った?

だんだん目が慣れてくるとラディの髪以外に輪郭や腕などがぼんやり見えて来る。しばらくしてわかったけれど、ラディは腹部を凝視しているようだった。そこでわたしの意識が曖昧になっている。


いい匂いが鼻腔をくすぐってゆっくりと目を開けた。トントントントンなんて葱でも切るような音に、おなべがぐつぐつしてて、ああ朝ごはんだと連想させる。

変な感じだった。お腹の虫が鳴って、渋々起きて台所に行くと男の人が朝ごはんの用意をしてる、なんて。

「あ、起きたか?顔洗って来いよ」
「…うん」
「ん?寝ぼけてんのか?」
「うん、ラディ」
「あん?」

呼んだはいいけれど言葉を何も用意してなかった。困った挙句におはよう、と当たり障りのないことを言うとラディは少し笑っておはようと返した。昨日散々怖い顔してた人とは別人だなあなんて思うと妙に照れくさくて洗面台まで走って逃げた。思いきり顔を洗ってみてもそこにあるのはやっぱり現実で、台所ではラディが変わらずおたま片手に鼻歌を歌っている。

わたしが不安になってどうするんだ、ともう一度顔を洗ってからリビングへ戻った。

「…おいしい」
「そりゃよかった」

やっぱりラディのご飯はおいしい。信じられないくらいに。ついついにこにこしてしまうとやっぱり緩んでる、とラディに笑われてしまった。おいしいんだから仕方ないよ!

「あ、昨日は悪かったな」
「昨日?」
「起きてすぐんとき。怒鳴っちまってよ」

おかずに箸を伸ばしながら、ラディは伏せ目がちに言った。ああ、あの女ァ!とか殺すぞォ!とかのあれですね。うん、殺されるかと思ったあれは。

「あと、…苦しかった、ろ」

ベッドに引き倒したことを思い出したのか、バツの悪そうな顔。仕方ないよラディはそのなんとか人っていう戦闘民族なんだからとちゃかすように答えると聞こえるか聞こえないかくらいの声で肯定された。

「ご飯おいしいから許す」
「…どーも」
「あ、わたし今日出掛けるね」
「あん?どこ行くんだ?」
「バイト。お仕事だよ、お仕事」

時計を見上げてみると7時だった。すごい、休日なのに。ラディは興味なさそうにふうんと答えた。

「変なことしないならラディも出掛けてきていいからね」
「変なことってなんだよ?」
「だから、うーん…空飛んだり、カツアゲしたり、とか」
「ああそうか、怖い人が来るんだっけか」
「そうだよ、そしたらもう2度と会えないよきっと」

そのときラディの箸が止まった。どうしたのかと顔を上げるとラディの視線は真っ直ぐわたしに注がれていた。きょとんとした思惑顔。

「その顔おもしろいよ」
「あ?」
「別に家の中にいてもいいよ。本もゲームもあるし」

空になったお皿を台所に運んで蛇口を捻る。スポンジを手に取ろうとすると慌てておかずを片付けたラディが駆け寄って来た。

「置いとけよ、俺がするから」
「これくらい大丈夫だよ」
「いいから。名前は出掛ける準備でもしてろ」
「…ラディって、こういうの好きっていうより惰性でしてない?」
「あー…こき使われんの慣れちまっててよ」
「どんな環境だったの?」

わたしを台所から追いやって、そのままお皿をかちゃかちゃと洗い始めた。もこもこの髪が小刻みに揺れててなんだか可愛い。

「俺さ、」

これ以上ここにいても仕方ないか、と踵を返したときだった。ラディは独り言くらいの音量でそう短く切った。振り返って見ても変わらずのハリネズミっぷりでまるで気のせいだったみたい。

「弱かったんだよ、今もだけど」
「あんなに力強いのに?」
「弱虫ラディッツって呼ばれてた」

ぽとりと落とすような、少し乾いた笑いも含んだその声はひどくしぼんでいた。

「そっ…か」

そうとしか返せなかった。弱虫と呼ばれることが苦痛であると声に出ている半面、それでもやはり元の世界に帰りたそうにしているんじゃないか、とほんの少し思ってしまったから。

向こうの世界がラディにとってどうであったにしろ、今いる偽りの世界よりは何倍も安心できたり、するんじゃないだろうか。
ラディが今ここにいることを、わたしは喜んじゃいけないんだ。


「ただいま」

靴を脱いでリビングへと繋がる廊下をゆっくりと歩く。ただいまなんてどれくらい振りだろう、なんだか気恥ずかしいな。リビングに入るとぴこぴこと軽快な音が聞こえて来る。

「ラディ?」
「あ、おかえり」

目線もくれないままラディは言った。どうやらテレビゲームに夢中のようだった。画面上部からぶよぶよしたゼリーが落ちて来る、いわゆる落ちゲーというやつ。鞄をソファに投げ置いて、ラディの隣りに座り込む。久しぶりに見たかも。友達が来てるときは盛り上がっていいんだけど、1人じゃどうしてもやる気になれなくてしまってたんだっけ。
当たり障りのない連鎖が起こって、ラディの選択キャラクターの女の子が嬉しそうに笑う。

「ラディ、この子好きなの?」
「ん?いや、名前に似てるなと思って選んだ」

なんの含みもない声でそう言われて、拍子抜けする。本当にただそれだけの理由なんだろうけど、喜んでもいいのかなあ。少し身体を動かすだけで肩にくすぐったい感触。ラディの髪だ。今ならちょっとくらい触っても怒られないかな、と腕を伸ばした。
何度か撫でつけてみて、一房掬う。もこもこ、さらさら、なんとでも表現できそうだけどそれでいてもっともっと近い感覚を探せそうでもどかしい。こういうのってなんて表現したらいいんだろう。だけどシルエットは相変わらずハリネズミのままだ。

「可愛いね、髪の毛」
「そーか?」

ついわしゃわしゃしたくなる。両手を突っ込んでみるとわたしの手の甲はあっという間にラディの髪の中にもぐってしまった。

「ちょ、くすぐったい名前」
「だって気持ちいいんだもん」
「あっやべ、ミスった」
「え、ごめん」
「や、今のは俺のせいだから」

気にすんな、だって。あ、だめだ今の顔見られたらまた緩んでるって言われちゃう。出会って2日目なのにもう痛いほどわかったことがある。ラディはひどく優しいってこと。それはこっちが照れくさくなってにまにましちゃうほど、それを知られるのが恥ずかしいほど、自然に。

「じゃあまだ髪触っててもいい?」
「いいけど飯は?」
「もーちょっと」

もうちょっと、もうちょっとだけこのままで。
バイト中、ラディどうしてるかなって気が気じゃなかったけどこれなら大丈夫そうかも。もしもいなくなってたり、万が一元の世界に帰っちゃったりなんかしてたら(確認のしようがないけど)寂しいなとは思うけど、そのときは応援してあげよう。

それまでは、それまではもうちょっとこのままで、いてね。

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