身体を揺さぶられて、わたしはゆっくりと目を開けた。なんだろう、声が聞こえる。誰かがわたしを呼んでる。でも目を開けたのに辺りは真っ暗で、途端に心細くなる。誰か、誰か、
(誰かって、誰?)
「名前!」
叫ぶように呼ばれると今度こそ頭を殴られるような衝撃にわたしはハッと目を見開いた。さっきと同じように部屋の中は暗いけれど窓から入る月の光が僅かにフローリングの床を照らしていた。
「うなされてたけど大丈夫か?」
もこもこしたシルエットがわたしのことを上から見ている。なにかよくわからない、黒くて大きいものが。ぼうっとしてたらそれはわたしの存在を確かめるかのように頬や頭をぴたぴたと叩く。
「悪い、俺ちょっと出掛けてたらこんな時間で」
「やっ…なに、誰?」
「名前?」
怖くなってわたしは身を竦めた。なんなの、誰なの。わたしに触ってるのは。冷たい変な汗が背筋を急激に冷ましていく。わたしに触れようとするその何かを懸命に突っぱねた。それでも縋るように追って来る。
「どうした?名前?」
「やだ…っ、怖い…!」
寝起きだからか掠れた声しか出ない。振りしぼって触らないでと漏らすとそれはぴたりと動きを止めた。知らないうちに力強く瞑っていた目を、恐る恐る開けてみる。暗闇に慣れると、ぼんやりと肌色が見えて来た。首筋、唇、鼻、そして目に行きつくとそれはとても悲しげに揺れているようだった。
「あ、…あ」
意味のない母音だけが漏れる。わたしは知ってる、彼を知ってる。彼の名前を、体温を、存在を。
だけど喉元まで出かかったそれらを、なにかが必死に押し戻す。呼んじゃだめだ、認めちゃだめだとなにかが囁いているよう。
余りの苦しさにぼろりと目尻を熱い涙が伝った。ああこれだ、今日何度も何度も込み上がってきたのは涙だったんだ。
わたし、泣きたかったんだ。
「ラディ…っ」
ぼろり、ぼろりと零れる涙のように落ちたのは彼の名前だった。呼ぶと胸の奥の方にきつく締め上げられるような痛みが走る。怖い、痛い、寂しい、でもそんなの言葉になんてしたくなかった。弱いやつだと思われたくなかった。
でももうだめだ。ラディにバレちゃった。
ゆっくりと温かいラディの指が頬を包んだ。恐る恐るという感じが伝わって来たから、わたしはそれを力任せに引っ張る。わっと小さく声を上げるとラディはわたしの方に倒れ込んできた。髪ごと腕を回してぎゅっと抱きしめる。
「ラディ、ごめん…っ」
「…誰とか言われたら、さすがの俺でも傷つく」
「ごめ、ん…だってラディがっ」
「うん、…遅くなってごめんな」
ラディの声がすぐ近くで聞こえる。それだけのことがどうしてこんなにも嬉しいのか、わたしはもうその理由を知ってる。
「ラディ、どこ行ってたの?ご飯作って待ってるって言ってたくせに」
「あー、ちょっと地球一周してきたんだよ。予想以上に時間かかった」
「…ずるい、1人でそんなの。わたしなんか散々だったんだから」
「うん?」
「好きだよって言われたの、やっぱりお前じゃなきゃだめだって。抱きしめられてキスされたから、唇噛んじゃった。おかげでラディのお弁当半分しか食べられなかったし、バイトではお皿3枚割って給料から引かれちゃった」
「は、」
「あ、大丈夫ちゃんと食費分くらいは稼いでるからね?」
それでね、と続けようとするとラディはわたしの顔の横に手をついて上半身だけを起こした。至近距離で見つめ合う形になる。もこもこの髪がだらりと下りてきてわたしの頬をくすぐる。
「ラディ?」
ラディの親指の腹がわたしの下唇を撫でる。わたしは瞬きをひとつしてラディを見上げた。部屋は真っ暗だけどラディのことだけははっきりとわかる。ラディは目を瞑った。だからわたしも同じようにした。怖くはなかった。寧ろ、…いや、その続きは言わない。言っちゃいけない。
日月は地に堕ちず