10

「じゃあ行ってくるね、なるべく早く帰ってくるから」
「おう、気をつけてな」
「…なるべくって言ったけどバイトもあるしきっと遅くなっちゃうけど…」
「ん、飯用意して待ってっから」

にかっと笑うとラディはわたしの背を押した。早く行かないと遅刻するだろ、なんて母親みたいなことを言いながら。
楽しみにしていた連休は慌ただしく過ぎてしまい、今日からまた大学生活が始まる。
一日の大半の時間を家から離れて過ごさなきゃならない当たり前の毎日に、わたしは些か不安を感じていた。言い知れぬ不安、を。

「ねえ、ラディって小さくなったりできないの?」

なんてムチャな、と自分でも思ったけれどもしかしたらそんな能力が備わっていたりはしないだろうか。だけどわたしの期待とは裏腹にラディは少し怪訝な顔でそんなことできるわけないだろ、とごく自然に返した。

「そ、そうだよね」
「どうしたんだよ?」
「ううん、なんでもない」

ちらりと時計を見上げてわたしは足早に家を出た。鞄に入れてラディを連れて歩きたいなんていったら、ラディに笑われちゃう。
今日は少し肌寒い。鞄の中に入れてあったイヤフォンを耳に突っ込んでiPodのボタンをカチカチと押す。アップテンポな曲でまずは雑念を吹き飛ばすことから始めた。

講義が終わって食堂でラディが作ってくれたお弁当を頬張る。冷めてしまっているのはちょっと残念だけど、それでもラディの手料理はおいしい。わたしが好きだって言ったおかずも入れてくれてるし。一緒に食べてる友達はずっとさっきの講義の内容とか昨日見つけた可愛い服の話とかつい最近見かけたかっこいい人なんかの話題を楽しんでいるようだった。たまにねえどう思う、と聞かれれば当たり障りのない返事をする。
そんないつものお昼風景だった。

「名前」

最近わたしの名前を呼ぶのはラディだけだったから、そのときも何も考えずに振り返ってしまった。あ、知ってる。この人知ってる。この人は、わたしの…

わたしは相当ぽかんとしていたのだと思う。にやにや笑う友達に行ってきなよと背中を押されてお弁当も中途半端なまま席を立ってしまった。

隙間風の通る踊り場は人気がなかった。お昼の陽の明るさだけで保っているようなこの場所は、今日みたいな曇りの日は薄暗くて気持ち悪い。つるつるの床にばかり視線を向けているわたしを、彼はもう一度呼んだけれどそれでも顔を上げたくなかった。なんて冷たい場所なんだろう。そんなことをずっと考えてた。

知らない匂いがする。知らない体温がわたしに触れていて、知らない拘束感がある。わたしは唇を噛んだ。だけどそれはわたしの唇ではなかった。

なんだろう、この、込み上げてくるものは。

店長にもう上がっていいよ、と言われたのは3枚目のお皿を粉々にしてしまったときだった。慌ててすみませんと頭を下げてようやく目が覚めたような気がした。
朝、家を出てから長い長い夢を見ていたような錯覚さえする。ロッカーから鞄を取り出してぎゅっと胸に抱く。

なんだろう、なにかを吐き出せない虚しさに頭の中がぐちゃぐちゃだ。今日のわたしはおかしい。毎日ってこんなだったっけ?こんなにもあっという間の味気ないものだったっけ?

足早に帰路につく。いつもならお弁当を買うために寄るコンビニにも見向きもしない。外は真っ暗だった。それでいて夜風が優しくない。身を縮めて歩くスピードを上げた。気付いたときにはもう小走りだった。
家が見えて来る。ごく自然な動作でポストの中の鍵を探り当てた。鍵穴になかなか差し込めなくてイライラする。力任せに押し入れて、左に捻る。ドアを開けた。部屋の中は外と同じように真っ暗だった。

靴を脱いで、外を歩いていたときとは比べ物にならないくらいゆっくりとわたしは廊下を進んだ。

真っ暗なリビングにぼんやりと浮かぶソファのシルエットを見つけてそっと腰を下ろす。
あれ?なんだっけ、なにかを忘れているような気がする。なんだったっけ、思い出せない。そのうち頭が痛くなってくる。この空間はわたしにとって温かいものであったはずなのにどうして。
温かい?1人暮らしなのに?それよりもこの込み上げてくる何かはなんなんだろう。

「…、…」

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