▼ 阿部

パチーン

と小気味よい乾いた音がわたしの部屋中に響いた。やってしまったという感想も大いにあるが今はそれどころではなかった。隆也が悪いんだ。わたしは悪くない。けれど、今のこの状況を把握できずにポカンとわたしを見下ろしている隆也の頬に手を添えた。じわじわと赤くなる。
ああ、わたしが隆也を、傷つけた証拠、なんだ。

「隆也が、悪いんだよ」
「…あ、 ああ」
「わたしは悪く、ないから」
「…わり、大人気なかった」

しゅんとして隆也はわたしの上から下りた。女性にいきなり馬乗りかます男の方が断然悪いに決まってる。しかも理由が嫉妬だなんて、隆也らしくないよ。そのせいもあってわたしはイライラと焦燥感に駆られていた。
怖かったんだ。いつもと違う隆也が。知らない男の人みたいで、いつもとは違う手加減のない腕っ節でわたしを押し倒して。

「そんなの、 そんな隆也のキスなんて 嬉しくない」
 
わたしは泣く一歩手前のところで隆也の目を見た。純粋に、わたしに対しての怯えのようなものが見て取れた。隆也は返事を返さず、代わりにわたしを優しく引っ張り起こした。視界に、見なれた自分の部屋が映る(ああなんだか異世界にいたような気分だった)。

「…なんとか言ってよ」
「ん、 …ああ」

なんだその返事、…わたしは軽くムスっとしながら乱れた髪を梳いてくれる隆也の指に全神経を委ねた。隆也の指はすごく気持ちいい。細くて骨ばってて、本当は少しでも頼れば折れてしまうんじゃないかとも思うんだけど、でもわたしを預けられるのは生涯隆也だけなのだとも、思う。

(隆也は?)
(隆也もそうだと、嬉しいんだけどな)
 
後ろ髪にあった手が前に回ってきて、わたしは自然に目を閉じた。もうさっきまでの焦りはない。いつもの隆也と、いつものわたしだ。愛すべき空間が戻ってきたのだ。
だから目を閉じることになんの躊躇いもなかった。
それどころか幸せさえも感じていた。

(帰って来てくれて ありがとう)


だから隆也がわたしにキスしたのも、本当に自然だった。流れるような動作で耳の下辺りに指が這って来て包み込まれ、そのまま。

(ほら、聞こえる?)
(幸せが、こだましているの)

好きだよとはいわなかった。せっかくの言葉なのに、わたしの気持ち通りの意味になるかどうか不安だったからだ。わたしの気持ちと1ミリでも異なってしまえば、それではまったく意味がないから。
だから解釈は、隆也に任せよう。大丈夫、隆也はわたしよりも頭がいいから、すぐにわかるよ。

カノッサの幸福
(ねえ、一体どんなときにそれを感じたの)
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -