▼ ティキ

「今、なんつった?」

ティキは消え入るような声でそうポツリと呟いた。
悔しさに涙が溢れて、それは止まらなかった。ティキに預けるように、けれど余り支えさせない程度に首を傾けると、くつくつと笑っているように肩が震えた。

ティキは悪くない。できればわたしも、悪くない方でいたい。
きっと、悪いものもなにも最初からないんだよ ね、神さま。

(もう、いやだよ)

「名前、」
「だから、わたしノアをやめる。ティキとも終わりにするから」

わたしを抱きしめようとするティキの胸を押し返す手を優しく掴まれて、一瞬瞳がかち合う。でもきっと見詰め合えばいつもみたいに丸め込まれてしまいそうで怖かった。
わたしは大袈裟に、そしてティキを傷付けることも忘れずに目をそらした。

「離して。ティキ、離してよ…っ」
「じゃあさっきの言葉は取り消すな?」
「なんでそうなるのよ、ぜったい…ぜったい取り消さないから」
 
振り解こうとしてもティキは強くわたしの手首を掴んだままこちらを覗き込んでいた(その諭すような目と痛くない手首が気に食わない)。

「おまえ、自分のいったことの意味わかってんのか?」
「わかってるに決まってるでしょ…!」
「オレとどうのこうのは置いておくとして、ノアをやめることなんかできるわけないだろ?落ち着いて考え直せよ、名前」

(うるさい、)
(そんな、可哀相なものを見るような目で、)
(わたしを見ないで)


いよいよ涙が止まらなくなって、わたしは眉間に皺を寄せた。ティキは変わらずわたしを宥めようと引き寄せた。甘くて苦い煙草の匂いがする(余計、引きがねになってること知らないんだろうな)。

「もういやなの、…いやなの」

痛くはないけれど、胸の奥の方がすごくかなしいの。ティキの顔を見るたび、エクソシストのイノセンスを破壊するたび、黒い絵の具のような血をみるたびに。

「ティキみたいに楽しそうに人間を殺せないの!」

はっ、とした。言い切ってしまったあとに恐る恐るティキの顔を見上げる(いつのまにかわたしの涙は完全に止まっていた)。

「あ、ごめ…ティ、キ」
「いいんだ名前、それでいいんだよ」

ティキは少しだけ笑んでいた。眉間に軽く皺を寄せて、子供を慰めるときのように。ティキが人間を殺す楽しみと悲しみの狭間で苦しんでることは知ってる。ティキは人間と仲がいいから。

(きっとティキの方がわたしの何倍も悩んできたのに)

「ごめ、ん…ね」

ティキはわたしの頭をぽんぽんと優しく叩くと部屋まで送ってくれた。その間はお互いなにも話さなかった。話す、という行為がいかにちっぽけで軽いものなのかを知っているからだ。
わたしをベッドに寝かせ、ドアの前で振り向いたティキは目が合うとにっこりと笑ってみせた。柔らかい笑み。わたしの大好きな笑み。
(さっきあんな酷いことをいわれた人の顔じゃないよ…)
 
「ティキ、ごめんね、ごめん」
「いいよ気にしてないしさ、それより名前。おまえは大丈夫か?」
「うん、もう、 へいき」
「そ、ならいいんだけどさ」
「ねえ、ティキ」
「ん、どうした?」
「キス して」

ティキは返事はせずにわたしの方に歩み寄った。前髪を軽く掻き揚げられて、触れるだけのキスを落とされる。
かち合った視線の先で少し微笑むと、ティキは少し長めのキスをくれた。わたしは、目を瞑ることが勿体無いような気がしてそのままティキの瞼にだけ集中した。褐色の肌。この距離になって初めてクマがあるのがわかった。髪は毛先が少し痛んでいた。それでも指を通すと柔らかいその癖毛はよく絡まる。
わたしの大好きな、ティキ。
(ティキ…)

それなのに、こんなにティキを思って流す涙なのに、なんて黒くて汚いんだろう。

(ティキ、愛してる)

for pity
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