▼ ティキ
「さ、死ぬ前になにか言い残すことは?」
馬鹿じゃないのか、と思った。今目の前で怪しく笑っている男に、そしてそんなやつに殺されようとしている自分に。イノセンスが壊されてしまった。それはそれで別にいいんだけど。
(ただの人間に戻ってしまうだけだから)
(でも、)
「そんな気遣い、要らないわ」
精一杯放った声だって生き絶え絶えで、少しでも気を抜けばあの人の顔が思い浮かんでしまいそうで。
(いやよ、わたしは咎落ちなんて、)
(もうイノセンスはないけれど)
目を瞑ることも、はたまた自分で舌を噛み切ることもできなくて仕方なしに目前の男を見上げる。見覚えのない顔だった。
けれどさっき自分でノアだって名乗ったし、わたしを攻撃してきたのだからきっとそうなのだろう。褐色の肌に、額に記された十字架。
(ノアも真っ黒なのね)
綺麗に整っていて糸くず一つないその男の肩幅の向こうから薄っすらした闇が見える(ああ、わたしもう死ぬんだ)。
「随分潔いんだな」
「そうでもないわ」
最期に言い残したい言葉が見つからないだけ。
冷たくなってきた指先の少し向こうに男の靴がある。それにもやっぱり汚れ一つない黒で、本当に黒なのかさえ疑わしいくらい。視界が朦朧としてくる。そりゃ、これだけ血を流せばムリもないわ。けれどそれと比例するように頭の中はすっきりしていた。達成感や安定感に近いような、なんていうか。
(終わる、のね)
諦めた様子のわたしの前に男はしゃがみ込んで(よく見えないけど、影が落ちてきたからそうだと思う)。
「悪いな。あんたも削除リストに載ってんだよね」
載ってなかったら連れて帰るんだけどなこんないい女、とわけのわからないことを呟いた。もう目は見えない。閉じてるのかさえわからない。
そんなわたしにはもう言い返す力さえ残っていなかった。お願いだから早く殺して。早くその手でわたしの息の根を止めてよ。
「オレの名前はティキ。ティキ・ミック。また今度会えるようなことがあったらあんたの名前も教えてよ」
その男、…ティキはニッと笑って(たぶん、だけど)わたしに軽く口付けた。恋人同士がするような接吻じゃなくて、本当にただの誓いのような、薄い約束の篭ったものだった。
(はやく、)
(はやくころして)
ぬ、とティキの手が胸を貫いた。痛みはなかった(きっとティキがそうしてくれたのかもしれない)。
ぎゅっと心臓を握られて少し血を吐いた(心から抱きしめられるって、本当はこんな感じなのかな)。
「おやすみ、」
馬鹿じゃないの
(本当にそう思う)
(わたしにはちゃんと心に決めた人がいるのに)
(でもわたしの世界の最期はそんな風に優しく終わってしまった)