▼ アイク

白々しいその浅い朝の訪れで、わたしが目を覚ましたのはほんとうに偶然だった。連日の疲労が溜まっていたものだから、眠れる時間は遠慮なくベッドに身体を横たえていたけれど。

そろそろかもしれないと、心のどこか隅の方でわかっていたのかもしれない。わたしの疲労のほとんどが、そのことに影響していたのだなんて認めたくはなかったけれど。
砦の近くの川縁に、彼はいた。薄く靄がかかっているけれど、その蒼い背中は見間違えたりしない。わたしの気配に気づくと、彼は音もなく振り返った。相変わらずの無表情。わたしが来ることなんてわかっていたのかと問いたくなる。

「行くの?」

愛剣に手を添えたまま、アイクはじっとわたしを見ていた。答えを待ち続けるわたしに降参したように短く息を吐いてアイクは頷いた。

「誰にも、何も言わずに?」

今度ははっきりとああ、と肯定される。わたしがゆっくりと歩み寄るとアイクも受け入れるように進んだ。距離がすぐに縮まる。昔は同じくらいだった身長も、数年経てば差は歴然だった。わたしたちは男と女だったのだ。わたしはそれを認めたくなかった。特に、アイクへの想いに気付いてからは。

「まさか名前に見つかるとは思わなかった」

冗談めかして見つめるその瞳の蒼さに、わたしは少し泣きそうになった。やっぱりアイクは行ってしまうんだ。どこかでわかっていたけれど確信はないのだと杞憂に過ぎないのだと、逃げることでわたしはようやく空気を吸っていたのに。
わたしがこんなに必死になって近付いてもまるでなにもなかったかのように遠ざかってしまう。そんな他人のような微笑みのままで。服の裾をぎゅっと握りしめて俯く。

「ミストにも言わない気なの?」
「あいつにはもうボーレがいる、心配はない」
「じゃあわたしには?」

今までどこか遠くを見つめたまま笑っていたアイクの顔から表情が消えた。

「わたしには、誰が傍にいてくれるっていうの、アイク」

畳みかけるように強く言ったけれど、ほんとうは今にも泣きだしそうで震えた喉が痛かった。まるでなにかにひどく握りしめられているような、声を出すことを赦されないような痛み。名前はもう、ちゃんと呼べたのかどうかさえわからない。なにせ身体全体が震えて嗚咽を堪えられなくなってしまったのだから。
わたしは瞳にめいっぱい溜めた涙をとうとう零してしまった。

「アイク、」

アイクは視線さえ動かすことなくわたしの声を聞いていた。その瞳にどこか憂いが見える。泣くつもりはなかった。アイクを困らせる気はなかった。ただ、わたしを置いて行ってしまうことを刹那だけでいいから後悔してほしかったの。アイクらしく仏頂面ですまん、ってこれは俺が決めたことだから、って言ってほしかっただけなの。

手の甲で乱暴に涙を拭う。まだ喉が痛い。けれど今言わないと、もうアイクは聞いてくれないんだ。見上げるとアイクは瞳を苦しそうに細めてわたしを見ていた。ふいにアイクの腕が伸びてきて、頬に添えられそうになる。わたしはそれを首を懸命に振ることで制した。
なるべく、できる限りの精一杯で笑って見せる。

「お肉ばっかり食べてちゃダメだよ、ちゃんと野菜も食べてね」
アイクといられて、アイクの傍で戦えて、幸せだった。

「…努力する」
「しっかりやりなよ、英雄の名が泣くよ」

ムチャ言ってついてきたわたしを守ってくれてありがとう。

「ああ。…名前も」
「わたしは大丈夫、みんながいるから」

わたし、アイクと一緒にいた時間をぜったいに忘れない。

「あいつらを宜しく頼む」
「アイク。アイク、アイク」

もしもアイクも、それを思い出して懐かしんでくれるなら

「なんだ、名前」
「…今のうちに呼んでおくの。応えてくれるうちに」

それ以上のわたしの存在価値はないわ。

「名前、」


さよなら、わたしの

でもやっぱりあなたが傍にいないのは寂しい。あなたの背中が見えなくなってから泣き崩れてしまうのは、どうか赦してほしい。
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