▼ ゼロス

足が竦んで動けなかったわたしは、なんて臆病者なんだろうか。
こちらに剣の切っ先を向けるゼロスは普段通り飄々としているというのに。

心臓がバクバクしすぎて、吐きそうなくらいの眩暈がした。立っていられない。そのまま膝の力が抜けて、わたしは静かに地面に蹲った。固く冷たい地面が、まるでわたしを突き放すかのように冷やしていくのがわかる。

「おっと、名前ちゃんには刺激が強すぎたか」
「ゼロス!俺たちを裏切るのか!」

わたしに気づいた彼が向けてくれた視線も、ロイドの怒声によってはずされる。姿勢を低く、臨戦態勢のままロイドはわたしとゼロスの間へ。理解が追いつかないながらも、わたしのことを庇ってくれているのだと思うと苦しいほど嬉しいのに、どうしてか今はただただ体温の冷めていく音が聞こえるようだった。

「裏切るもなにも、俺さまはもともとこっち側の人間だからなあ」

軽く視線を下げると、ゼロスは独り言のようにそうぽつりと呟いた。

(こっち、側…)

ばかなわたしにだってわかる。どっち側なのか、なんて。いつの間にか隣にきて体を支えてくれていたリフィルが、わたしの顔色を覗き込みながら固い表情で囁く。

「…名前、戦えないなら下がっていなさい」
「リフィル…でも、」
「そうだぜ、名前ちゃん。可愛い顔に傷がついたら勿体ないぜ」

ゼロスが笑う。
同じ笑い方だった。わたしたちと他愛無い会話をするときと同じ、普段の、ゼロスの笑い方。

目前のロイドが鞘から剣を抜き、周りの仲間も戦闘態勢に入る。けれどわたしは動けないままリフィルの影にいた。どうしても身体が震えて、指先の冷たさが怖い。

(どうして、こんな)
(みんなも、ゼロスも)

(怯えているわたしの方が、)
(おかしいみたいじゃないか)

ゼロスの行くぜ、と呟かれた低い声が合図となり、ロイドが駆け出してゆく。隣でジーニアスの詠唱が聞こえた。

(ああ、ゼロスと戦うんだ)

顔を上げると、ロイドの剣を凌いだゼロスが視界に入る。口元は軽く吊り上げられていて、まるで踊っているようなしなやかな動き。ゼロスは死ぬんだろうか。ロイドたちに、殺されるんだろうか。わたしが、彼を、

(そんな、)

だめだ、こんなのはだめだ。だって誰も望んでいない、望んでなんかいない、こんな結末、おかしいに決まってる。
今、今じゃなきゃ、今やらなきゃ彼は救われない。

「…ゼロス!」

ゼロスの顔が向けられ、仲間の視線がちらりとこちらに寄越されるのがわかった。混乱しているわたしが、一体なにをしでかすのかという表情が見てとれた。いつでも切りかかれそうな姿勢で、ロイドがゼロスの後ろへ回る。

「ゼロス…」

剣を携えたまま、ゼロスはゆっくりとわたしに歩み寄った。ゼロスを見上げるわたしの視界が、ゼロスでいっぱいになる。影と共に、ゼロスの手がわたしの頬に触れた。温かい、よく知るゼロスの手だ。

「俺はな、名前。お前のそういう甘ちゃんなところが、嫌いだよ」
「ゼロス」
「俺なんかを信じてる方がバカなんだ」
「ゼロス、」
「……」
「でもわたし、ゼロスを信じたかったから」
「…じゃあ一緒に死ぬか?名前」
「…!」

ゼロスの笑みが脳裏に焼き付いて、わたしはそれでも目を閉じなかった。ゼロスが右手に握っていた剣を振り上げたのと同時に、ゼロスの後ろからロイドが走ってきて、ゼロスの身体を貫いた。

(あ、…ああ、)

わたしはただただ見ているだけで、動くことはおろか呼吸さえできなかった。スローモーションのような一秒が流れる。
倒れてくるゼロスを支えられなかった。どしん、と一緒に床に倒れてゼロスの紅い髪がわたしの頬へ降り注ぐ。なにか生温かいものがお腹辺りを伝って、不意に鉄っぽい匂いが漂い、鼻をついた。
それなのにふわりと香る、いつもの、ゼロスの、

「……ゼロ、ス?」
「ってーな…」
「ゼロス!おまえ今、わざと…!」
「いいんだ。これで」
「や、いやだ、」
「…名前がそう言ってくれるだけで、俺さま幸せ」
「いやっ、死なないで ゼロス…!」

(死、)

自分で叫んでから妙な現実味が身体を背中から支配する。
その悪寒からまるで逃げるかのように、掻き集めるかのように、たどたどしい手付きで、ゼロスはわたしをきつく抱きしめた。これ以上ないほどの至近距離でゼロスの声が聞こえる。
いや、違う。ゼロスの声以外聞こえない。

「名前ちゃんの心ん中に巣食ってる男に免じて、この俺さまがハグのみで勘弁してやってるんだから、…最後くらい笑ってくれよ。俺のために」
「ゼロス…ッ」

こんなときに笑えなんて無茶な要求してくれる。涙のせいで喋ることさえままならないわたしには、到底ゼロスの望む通りにしてあげられそうになかった。
段々とゼロスの温もりが消えてゆく。そんなわかりたくもないことが、ちゃんと、理解、できる。

「ゼロス、…ゼロスの顔が見たいよ」
「…せっかくいい態勢だっつーのに」

しゃーねーな、とわたしの上から転がるようにゼロスが退いた。肩で息をしているゼロスは大量に吐血していて苦しそうに瞳を閉じていた。広がった視界に、片手で顔を覆い、震えているしいなが見えた。

「ゼロス、…」
「ほら、スマイルは?名前ちゃん」
「…ん、 うん」

大粒の涙が零れるのも気にせず、ぐにゃぐにゃに歪んだ視界の中でわたしは笑ってみせた。笑ったというよりはムリに口角を上げただけに過ぎない。だいぶ引きつっていただろう。けれどゼロスは満足そうに笑った。

「ほんとにな、これでよかったんだ」

ごほ、とひとつ大きな堰をするとゼロスはそう言った。泣いても笑っても、最期だという予感が胸を引き裂くようだった。

そして、死にそうなゼロスの方がよっぽど綺麗な笑い方だった。

「やっぱ可愛いな、名前ちゃんは」
「バカ…!」
「俺さま、幸せ」

幸せなわけあるもんか、と言ってやりたかった。けれど震えた唇はもうなにも紡げない。かじかんだ指先でゼロスに触れることも叶わなかった。ただただゼロスの身体から力が抜けてゆくのを見ているだけ。

「あ、…」

やさしく肩に手が置かれ振り返ると、瞳を伏せたリフィルが首を振った。わたしの涙はもう止まっていたが、身体が鉛のように重かった。空気を吸うだけでも苦しく感じる。背中の奥、心臓の辺りがキリキリと痛い。
どうしたんだろう、わたし。まるで重力に押し潰されるようだ。なにかが身体の奥に詰まっていて、それを取り出したくてもがいているみたいに。

そしてようやくなにかを吐き出すように、わたしは喉を震わせた。

「ゼ ロ…ス、」

なにもない空虚、ただ彼の名前を呼んだ

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