▼ 潮江

皮肉なことにわたしの気持ちは何度も甦った。幾等暗闇の中をさ迷っていた気でいても、目を合わせすれ違い手を繋ぎ唇を重ねればわたしの心はなくなる、ということがわからなかった。

要するに、長い長い間寂しさに震えていても、ぎゅっと強く抱きしめられればなにも怖くなくなるというなんとも現金な部類の人間だったのだ。所詮表面だけの薄っぺらい価値しかないとわかっていても、それが正真正銘のわたしだったので仕方がない。なぜ薄っぺらい価値しかないと断言できるのかと言えば、それを克服することも他人に告げることもしないからだ。
わたしは根本的にこの心を嫌ってはいないと言えた。

そして例に漏れずわたしはこのビョウキを彼には教えなかった。だから彼には少し手の掛かる甘えたがりに懐かれたとしか思われていないだろう。強ち間違いではないので例えそうでも否定はしないが。

文次郎はわたしにとっての世界のぜんぶだった。わたしの中にはどこを見渡しても文次郎しかいなかった。違う、文次郎以外を探す術を知らなかったのだ。
だから突拍子もない暗闇に片足を突っ込んでしまっても引っこ抜くことができずにずぶずぶ嵌まってしまい、とうとう彼の救助が必要となる。

そのときに彼はとても優しい顔をしてわたしを見ていた(ただ単純に優しい、というだけではなかったけれど)。
もちろんわたしはそれが好きだった。だから何度も何度も引き上げられたばかりの足をもう1度、と突け込みたくなってしまうのだ。

いつか見放されるかもしれないとは考えたことがあるが、実際にそういう素振りを見せられたことがないので思考の限界に達して早くに止めてしまった。知らないことを幾等考えても無駄なのだ。

目を合わせれば照れ臭そうに笑ってくれるし、手を繋げばぎゅっと握り返してくれる。唇を重ねればどうしたんだ、と抱き寄せてくれる。なんでもないときだってこちらから望まないのに酷く優しい声色で名前を呼んでくれる。特別の響きのそれを、わたしは知っている。
そしてそれが酷く心地のいいものだということも、わたしは知っている。

その日はパチパチと算盤を弾く文次郎の背中へこれでもかというくらいきつく抱き付いた。じんわりとした人肌の温もりが伝わって来て口元が綻ぶのをわたしは堪えられなかった(寧ろ誰も見て笑う者はいないのだからと開き直ってしまう)。

「苦しいぞ、緩めろ」

少し堅苦しいその声が好きだ。子猫が母猫に擦り寄るようにわたしも彼にそうしてみた。乾燥した頬に布が擦れてヒリヒリと痛い。仕方ないので前髪を押し退けるようにして彼の背中へ額を充てた。温もりがまるで溶け合うように、一体化するように再び伝わる。ああ幸せだ、と思った。

「名前」

まるで愛してる、と囁くような響きだった。文次郎の腹の辺りで組んだ指先に少し冷たい彼の手が触れる。寄り添うようにしてそれがわたしの手に重なった。そしてやんわりと握られる。強くも弱くもない力だった。わたしにとってどのくらいの力加減が丁度よいのかを熟知しているようだった。

「もう少し…、もう少しだけ。 ね?」
「お前のもう少し、は長いからな」
「…だってここが1番心地いいんだもの」

そうか、と文次郎は小さく笑った。もう1度布に頬を埋める。物悲しさの余り腰に噛みついてやりたくなったけれど唇を寄せるだけで留める(先日思い切り噛みついたら当分近寄るなって怒られてしまったから)。
ねえ、わたし文次郎といるときだけ、自分の薄っぺらい価値を忘れられるような気がするわ。

ああほら、今またわたしの気持ちが甦ったの。気づいた?

081213
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