▼ ↑独

ルートの執務室から漏れる明かりを頼りに、時折すれ違う照明を数えながら進んだ。
右手を這わせた石造りの壁は冷たくて、なんだかとても不安になる。数えても数えても、ルートには近づけないんじゃないかって。ルートなら、そんな馬鹿なことあるわけないだろうって優しく諭してくれるのに。

こんなのは別に、初めてなんかじゃなかった。


一度だけ振り返るとやっぱりたくさんの照明があって、長い長い廊下が続いている。赤いカーペットはまるで海のようだ。いつかわたしを呑み込んでしまうんじゃないかと考えると恐ろしくなって、執務室までの道を駆けてしまった。
大きな扉を両手で押しあけて、小さく息を吸った。真正面の窓に背を向けて(つまりこっちを向いた)ルートが何枚かの書類に落としていただろう目を上げていた。
インクに伸ばされている手だけが不自然に、まるで時間が止まったかのように宙に留まっていた。わたしが息を吐いたのと同時に今の硬直が嘘だったみたいにルートが厳しい目で歩み寄って来る。

やだ、今怒られたら絶対に泣いちゃう

直感というか、本能というか、とりあえずルートがわたしに手を伸ばす前に、わたしはそのがっしりした身体にしがみついた。勢いよくどんとぶつかったけれど、さっきまで触れていた冷たい石なんかじゃない、その温かな他人というものが、とても心地よかった。

「お、おい…」
「ごめんなさい」
「…名前」
「ごめんなさい、ルート」

目をぎゅっと瞑ってうわ言のように繰り返す。こんな時間にどうした、とか1人で危ないだろう、とかカーディガンを羽織れといつも言ってるだろう、とか。ルートのお叱りの言葉は想像できた。いつもはそれも好きだけど、今はちょっと聞きたくないんだよ。

「…まだ何も言ってないだろう」
「だって想像できるんだもの」

ルートの手がわたしの頭をできるだけ優しく撫でようと動くのがわかる。そうしてほしかったはずなのに、そうしてもらうためにここまで来たはずなのに。
顔を上げるとルートは困惑した表情を浮かべてわたしを見ていた。どうすればいいのかわからない、って顔。

「ルートは、わたしのこと要らないって言わないよね?」

ルートが少し目を見開く。

「だってルートがわたしのこと無理やり捕まえたんだもん、要らないなんて、言わないよ
ね?」

ひどいことを言ったのはわかってる。でもこうすればきっとルートはわたしを捨てないんだってこともわかってる。だってルートはわたしの国を攻めたことに、とても罪悪感を覚えているんだもの。わたしがほしいから、ルートはわたしの周りのものを、消しちゃったんだ。恨んでないし別にこれから恨もうなんて思ってもない。
でも、ルートの手がわたしの前からなくなっちゃうなら、わたしは平気でその言葉を吐けるよ。酷く傷ついたような顔をして。

だけどルートはそんなこと知らない。わたしが本当に傷ついてるんだって思ってる。今にもここを飛び出して行きたいんじゃないかって思ってる。だからわたしに宛がわれた部屋には窓がたくさんあって外がよく臨めて、扉にだって鍵は一度もかからない。

そんなの今さらずるい。どうして大事に大事に仕舞っておいてくれないんだろう

「わたしなんて、 要らない?」

困惑しているように寄せられた眉がぴくりと動いて、じっとわたしを見詰めていたルートの瞳は僅かに揺れた。その瞬間にはっとした。無意識だった。今のわたしの泣きそうな顔や声は、本当に無意識だった。

要らないなんて言わせないような聞き方をした。実際そうするつもりだったし、今までだってそうだったはず、なのに。もしももう要らない、好きなところへお行きなんて言われたら?本気で縋って突き放されたら?そうなった未来を、想像してしまった。

わたしはただ、周りにルートしかいないからルートに寄り添ってるだけで、わたしのこと好きだって言ってくれるなら誰だっていいし、ここより条件のいい場所があるんだったら別に、すぐに行けちゃう、し、
ルートじゃなくたっていいんだもん。


「Ich liebe dich」


俯いて逃げようとした手はいとも簡単にルートに掴まれわたしの身体はふわりと彼に向き直った。生真面目な顔で言われたのはルートの母国語だったからわたしには理解できなかったけど、その真っ赤な頬を見たらなんとなく意味がわかってしまった。
いつもわたしの頬にキスしてくれるときよりも、もっともっと真っ赤だった。


夢を食べた小鳥
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