▼ カイン

目の前の赤が一瞬ブレたような気がして、わたしは咄嗟にライブの杖を握りしめて走り出していた。
後ろで隊列を気にするようなロディに謝罪の意を込めた視線をやって、あとは振り返ることもなく。そこは、魔法を扱うわたしには縁遠い、最前線と呼ばれる場所だった。金属と金属がぶつかり合う音に、生臭い血の匂い。それから敵か味方かもわからぬ、苦痛の声。目と耳を塞ぎたくなる衝動を懸命に抑えて、わたしはその赤へと走り寄る。

「教官!」

呼ぶと彼はハッとわたしに振り返った。教官らしくない、まるで寸前まで呆けていたような、夢から覚めた目だった。わたしは教官の返事も待たずに杖をかざす。そこには金属が布ごと彼の腕を引き裂いたためにできた大きな、そして深い傷跡があった。おびただしい血の量にくらりとする。

「教官、一度退きましょう」
「いや、この程度の傷、なんでもない」
「だめです、ここじゃ満足な手当てができません」
「ならしなくていい、お前は下がっていろ」
「なにを…っ」

言っているのだろう、この人は。放っておいていい傷なわけがないのに、菌でも入ったら二度と剣を振るえぬ結果になってしまうやもしれないのに。

周りの喧騒に思っていること全てを掻き消されてしまいそうで、わたしは必死に彼の腕にしがみついていた。先代の王を守り切れなかったために今もなお彼を苛み続ける後悔の念が、彼自身の身体を気遣わせなくしている。彼は自分の身のことなど顧みない、騎士なのだ。
主のためならその命をも投げだせる、その覚悟がある、騎士。
ぞくりとした。あるべきその主従関係に、わたしは言い知れぬ恐怖を感じたのだ。
そしてそれと同時に、どうしてわかってくれないのかという理不尽な怒りが積もる。この人はいつだってそうだ。わたしに生きろというくせに、自分は死ぬためのように戦う。そしてわたしが彼を守ろうとすると、ひどく怒る。

「死んでも知りませんから!」

彼の腕をより一層、ぎゅっと握って腹から声を出した。ほんの少し見開かれた彼の瞳がわたしに向けられる。

「死んでも、知りませんから」

自分の目が潤んでいることを自覚してはいたが、それでもわたしは気丈なまでに自らの教官を睨み上げることができた。だけど情けないことに教官の腕を掴んだままの指が震える。本当は離したくなんかない。死んでもらっちゃ困る。なのにどうして、この人はわかってくれないんだろう。

数秒にらみ合うと教官はふい、と目線を反らしてしまう。なにか言いたそうにその視線が戻って来るのがどうしても怖くて、わたしは駆け出した。

お前はマルスさまの近衛兵だろう、俺のことなど気にせずマルスさまをお守りしろ

そう言われるに決まってる。


「よかったのか?」

持ち場に戻るとそっとロディに声をかけられる。わたしは返事の変わりに肩を竦めてみせた。よかったわけがない。そう答えてしまいたいのに、ちっぽけなプライドが邪魔をする。

「そのうち、綺麗なシスターが手当てして下さるわ」

わたし自身、杖を扱えるといっても本業は魔法。手当を主とするシスターや僧侶の方が彼の傷を見たほうがいいに決まってるのだ。わたしなんかじゃなく。皮肉のつもりで言ったはずなのに、ちらりと見た先でマリーシアに手当てを受ける教官が視界に入ってしまい、しぼみかけたはずの怒りのような黒い感情が込み上げてきて、わたしは咄嗟に咽てしまった。なんとか息を整えて前方のマルスさまの隣りにつく。

「マルスさま、お怪我はありませんか?」
「ああ名前、ありがとう。僕は大丈夫だよ」

にこ、と微笑まれて息をついた。ああそうだ、わたしがお守りするべき人はマルスさまなのだ。

なのになぜだろう、

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -