▼ 久々知

なるべく音を立てないように、だけどわたしは諦めにも似たため息を長く吐いた。瞑っていた目をゆっくり開ける。ぼんやりと視界に入ったのは明かりも何もない屋根裏。どうやらこれは現実らしかった。右肩の辺りがじくりと痛む。何も考えずに左の掌で握るとどろりと粘着質を帯びた温かい水に触れた。

「痛むんですか」

辺りを見渡していた兵助が懐から白い手ぬぐいを取りだしたのが見えた。冷静を装っているのだろうけど、彼の指は驚くほど震えていた。すでに巻いてあったわたしの手ぬぐいを丁寧に剥がすと固まったそれがべりべりと微かな音を立てる。一度だけ奥歯を噛むような仕草を見せたけれど、それっきり何も言わずに兵助はわたしの右肩に手ぬぐいを巻いた。
余りにもたどたどしいその手つきに、わたしはついくすりと笑ってしまった。

「じきにここも見つかるわ」
「わかってます、だから今脱出路を、」
「兵助、ちゃんと密書は持ってるでしょうね」
「ええ、」

ここに、と言葉にする代わりに兵助は懐をそのしなやかな白い指で押さえた。わたしの次の言葉を伺うような不安げな表情に、やはりわたしは口角を上げてしまった。
そんな情けない顔やめなさいと言ってやりたいのに、ごめんね、そんなあなたが愛しくて愛しくて仕方ないから。

「わたしの言いたいことはわかるわね」

わたしのその囁きを聞いた途端、やはりその不安げな表情は苦痛に歪んだ。噛み締められた兵助の唇は見る間に朱に染まっていく。
わたしのことは置いていく。要するに、そういうことだ。足の速さなら兵助にも引けを取らないけれど、今のわたしは手負いだ。満足に走ることはできない。一緒に逃げるとなると兵助は確実にわたしに合わせてしまうだろう。
ならば最初から、わたしをここに置いて行ってくれればいい。
頭のいい兵助になら、嫌ってくらいわかるでしょう。
膝の上で握りしめられている兵助の拳が震えていた。拳だけじゃない、身体全体で彼はこのどうにもならない、どうしようもない現実を堪えているようだった。仲間を捨てての任務は、初めてなんだろうね。

「先輩、」
「さあもう行って。足音が止んだわ。行くなら今よ」

兵助が大きく息を吸ったのが聞こえた気がした。彼の拳ばかり見ていた目を上げた刹那、力強く左腕を引かれ、平衡を失う。声も上げられぬまま、わたしの唇は兵助のそれに呑み込まれてしまった。
熱い唇だった。そして僅かに、鉄の味がした。強く強く寄せられた眉に、ぎゅっと瞑られた、いつもは大きな瞳。長いまつ毛は浮かんだ涙に少し濡れているようだった。わたしはその突然の接吻に、目を瞑ることができなかった。驚いたというよりもただ、脳裏に焼きつけておきたかったのだ。

「またね」

くるりと踊るように跳ねた兵助の髪はすぐに見えなくなった。しんと静まり返る屋根裏はまるで最初からわたし1人だったかのような寂しげな空気を流す。簡単な止血しかできなかった右肩をぎゅっと握りしめて立ち上がる。とりあえずこの状況をどうにかできるならなんだっていい、とりあえず火でも放ってやろうか。
ただ兵助を追うあいつらの足さえなくなるのなら。
そのからの記憶は余りない。弱弱しい歩みでとにかく進んで、気付いたら目の前が酷く霞んでいて、どうやら煙をたくさん吸ってしまったらしかった。仕方ないな、わたしも何人も殺してしまったし、ここで果ててもいいかもしれない。なによりもう、歩けそうにないのだ。視界いっぱいに赤が揺らめいていた。熱い。とても。その緩やかな炎の先に、後輩のあの綺麗な髪を見た。きっと兵助はわたしのことをいつまでも胸に刻んだまま生きていくんだろう。自分をかばったせいで置き去りにされた先輩として。申し訳ないことをしたなと思う。逆の立場の方がよかったのかな、とさえ。
だけどごめん、兵助が痛い思いをするの、黙って見てられないの、わたし。だから、これでよかった、よね?

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