▼ 鉢屋

ぐす、と鼻をすする音が聞こえて腕の中に埋めていた顔を上げる。俺の意識が朦朧としてくる前と部屋の中はなんら変わっていなかった。恐らく30分も経っていないはずだ。腕に押しつけていた額の右の方がじんじんと痺れている。
霞んだ目のまま隣りを見やると、読書に勤しんでいた彼女はやはり変わらずブックカバーで表紙の見えない文庫本を広げていた。
俺がこの部屋(つまり彼女の部屋なわけだが)に訪れたときからこうだった。好きな作家の新刊が出たのだと昨日の帰りに本屋に付き合わされたのを思い出す。その彼女の瞳は赤かった。ちらりと伺うようにもう一度見る。凝視してもいいのだが彼女の邪魔をするのは気が引けるしなんだかかっこ悪い(しかし読書に勤しむ彼女の集中力は並大抵のものではないことも俺は知っている)。
その一瞥で彼女が泣いていることに確信が持てた。その頬がついに濡れたのだ。俺はその瞬間を見てしまった。懸命に堪えようと眉を寄せているが無意味らしかった。彼女の瞳には彼女の意志に反してどんどん涙が
溢れて来るらしかった。そしてぐす、と鼻をすすった。

「悲しい話なのか」

静かな部屋に俺の問いかけだけが響いた。ぺらりと彼女の細く白い指がページを捲る。聞こえなかったのだろうか。自分の世界に入ってしまうといつもこうだからな。特別傷ついたわけでもなく、しかし腹いせのように彼女の肩にすり寄ってみる。霞んだ視界が文庫本の細かい字を捉えた。

「とても幸せなお話だよ」

しかし彼女はそう答えた。俺も緩々と字列を追ったがその文脈からでは大よそのストーリーを予想することしかできなかった。それも壮大な物語のたった一部分に過ぎないが。彼女と世界を共有できない歯痒さに、俺は彼女の手から文庫本を奪いたくなった。そのページを全て巻き戻してくれ。そうして最初から、俺にわかるように説明してくれ。そう言いそうになってから、しかしそれもおかしな話だなと思った。

だから、今はただ彼女がその文字たちと別れを告げる瞬間を待つ。物語を読み終わったあとの彼女はひどく甘えん坊になるからな(自分の趣味で切ないストーリーばかりを選んでは毎度毎度雰囲気に流されて泣く)。そのとき彼女を抱きしめながらでも世界を共有させてもらうさ。
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