▼ ピオニー

指の間からなにかがスルリと抜けて、地面に落ちた。その音にハッとして視線を下げる。譜術しか使えないわたしでも一応持っていた護身用の小さ目のナイフ。

刃の部分の真新しい血が艶やかにべっとりとわたしを見上げていた。少し粘着味を帯ながら地面を汚してゆく。わたしのものではない、これは、

「 だれの、 血?」

そこは真っ暗だった。地面こそは確認できるものの、左右は果てし無く闇に見えたし天井も同様にどこまでも続くように見えた。絶望的な場所だ。なのにわたし自身ははっきりと見える。輝いているわけでもないのに。

歩き出そうとしたわたしの足にナイフが当たった。こんな意味のわからないところで捨てるわけにはいかない、護身用のナイフ。けれど拾う気になれなかった。

「もう、…どこなのよ ここは」

ナイフを振り返らず半ば手探りで進む。手足を伸ばしても壁のようなものは見付からない。だからといって無茶に進んで、そこに床があるとも保証できない。
ティアには失礼だが、ユリアシティのような場所だと思った。寒くもなく、暑くもなく、日光もない暗い場所。

「 、…」

ふ、となにかのうめくような声に足を止める。今、確かに…

「名前…」
「誰…?」
「薄情な奴だな、…もう俺を忘れちまったか」
「…!ピオニー陛下!」

ぼうっと光が灯るように目の前にピオニー陛下が現れた。いつもの自信に満ち溢れた表情を称えながら、けれどどこか苦しそうに見えた。肩で息をして、顔を上げるのもやっとのような。

理由はすぐにわかった。陛下の脇腹辺りから大量の血が流れていたのだ。その血は陛下の洋服と地面を汚しながらじんわりと容量を増してゆく。

「な、…なぜ、 陛下!」

まずなにから問えばいいのかわからず混乱した頭で陛下に駆け寄り傷を見る。なにか刃物で抉られたような跡だ。それもかなり深い。止血をしようと伸ばした手を、なにかがグッと掴んだ。陛下の手だ。痕が残るのではないかと思うくらい強く握られる。

「なぜ、か。 よくそんなことが言えるな名前」
「へいか…?」
「忘れたのか?俺を刺したのはお前だ」
「え…、そんな!違います陛下!」

「見苦しいですよ名前」

そのとき新しい声がした。顔を上げようとするとひんやりしたものが首に押し当てられ、目線だけで声の主を追う。わたしは驚愕の余り息を飲んだ。上司、カーティス大佐がわたしの首に、取り出した槍を突きつけていた。2人の間に挟まれて動けないまま、じっとりと冷や汗をかいた。

「そのナイフで刺したのですね」

なんのことをいっているのだろう、反論を試みようとしたそのときわたしの右手に硬い感触が突如現れた。そっと目線を下ろす。

「…!」

さっき置き去りにしたはずのナイフだった。刃の部分が血を吸って濁った輝きを放っている。

これで わたしが 陛下を 刺した 。

そんな、有り得ない。わたしには陛下を刺す理由がない。
けれど確かにこのナイフはわたしの護身用のものだ。幾等力がなくても相手の腹に突き刺すことくらいできる。じゃあやっぱりわたしが陛下を傷付けたのだろうか?
この中で怪我をしているのは陛下だけ、そして凶器と思われるものはわたしのナイフだけ。…疑われても仕方ない状況、そしてわたしは否定を押し切ることができない。




ハ、と目を開けると視界いっぱいに見なれない天井が映った。古びた、どこにでもあるような宿屋の天井だ。荒い息を整えながら身を起こす。胸元の辺りで毛布を掻き抱いて周りを見渡すと窓越しに薄暗い空が見えた。
その手前のベッドで同室のアニスが寝息を立てている。

「…、 ふう」

軽く息をついて立ちあがる。きっとここのところ戦闘続きだったから参ってるんだ。
目覚めの悪い夢だった。あれこそ、悪夢と呼ぶに違いない。廊下に出るとむっとした空気に包まれた。それがなぜか血を連想させた。う、と吐き気を催し膝を折る。爪が掌に食い込む感触で誤魔化せるようになんとか耐えた。

「名前、ですか?」

肩にぽん、と手が乗せられ反射的に顔を上げるとカーティス大佐がわたしを覗き込んでいた。先ほどの夢の中のカーティス大佐がフラッシュバックして無意識のうちに出た小さな悲鳴と共に手を乱暴に振り払ってしまった。

「名前?」
「 …あ、…ごめんなさっ…」

身体が震えてまともな言葉が紡げない。奥歯がガチガチと音を立て、わたしはきゅっと目を瞑った。なんたる失態。たった一つの悪夢に左右される軍人なんて、…

「なにを怯えているのかはわかりませんが、とりあえず部屋に戻りましょう。立てますか?」
「だいじょうぶ です、 自分で、も、もどれます…っ」
「そんな状態のあなたを置いていけるわけないでしょう。失礼しますよ」

その声のすぐあとにわたしの身体が浮いた。大佐に抱きかかえられているということはすぐにわかった。湿気とは違う温もりに、僅かに身体の震えが治まる。代わりに、大佐にしがみついて少し泣いた。


「悪い夢でも見たんでしょう、 大丈夫ですから落ち着きなさい」


(そうだ、ぜんぶ悪い 夢 なんだ)


この世界が預言通りに進むのなら、愛しいあの人はわたしの手で…というお話。
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