あの日ポートマフィアが管轄する港場で数人を相手にしていた。呆気なく終わったそれに「つまらねぇ任務だ」なんて早々に任務を終えて踵を返す。

 今日は早く帰れそうだ、と携帯を取り出す。ナマエに連絡を入れる為だ。だがその時、ふと誰かの会話が聞こえた。数は二つ。今日此処で取り引きがあるだなんて情報はなかったはずだと思い俺はゆっくりとその声の方へと近付いて行った。

「まずは探偵社を潰す」

 やがて聞こえて来たその単語に過剰に反応した。咄嗟に物陰に隠れて聞き耳を立てる。其奴らは俺に気付く事なく会話を続けていた。そして其奴らはどうやら探偵社、ポートマフィアに喧嘩を売る算段らしい。だが驚いたのはそこじゃない。男の内の一人はうちの人間の様だった。

 つまりは裏切りだ。うちで扱ってる探偵社の情報とポートマフィアの情報は其奴から漏洩し、正にこの後探偵社へと乗り込む心積りらしい。今日此処で取引が無いのをいい事にこの場を集合場所にしたのだろう。

 だが運悪く今朝唐突にこの場の任務を云い渡された俺の情報までは追い付かなかったのだろう。其奴等は辺りを警戒する事なく話しを続けていた。

「向こうの組織との連携は」
「滞りなく」

 その言葉に手に持っていた携帯を耳に当て本部へと連絡した。本来ならナマエへと掛ける筈だったのに、と思わず不満が漏れそうになったがそれを飲み込んで応援を要請した。だがそれを勘づかれた。

「誰だ!」

 その声に小さく舌打ちをする。だが先程の男の言葉が脳裏を掠めて、俺は陽の光の元へと姿を現した。

「探偵社を潰すだ?」
「お前は・・!」
「そりゃ穏やかじゃねぇなァ」

 一人の男は俺の顔を見るなり青ざめていく。こっちが裏切り者かと直ぐに判った。そして其奴がもう一人の男に耳打ちをする。そしてその男は其奴の言葉に口角を上げ俺を見た。

「五大幹部か、ならば共に探偵社の襲撃に行かないか」

 その誘いは当然のものか、と思う。俺とナマエの関係はうちでは極々少数の人間しか知らない。

「貴方を棄てた女に復讐でもしに行こうじゃないか」

 ハッと思わず笑う。今の関係は知らずとも、相棒を務めていた事は最早太宰の時と遜色ない程に知れ渡っている。嬉しい限りじゃねぇか、と笑わずにはいられなかった。それに男は怪訝そうに顔を顰めた。

「つまらねぇ奴だなァ」

 此奴は何も知らねぇ。俺とナマエの関係とかそんな細かい事じゃない。

「何・・?」
「美徳の欠片もねぇ話だ」

 此奴は屹度誰かを本気で愛した事が無いんだろう。手に入らなかったから殺す?くだらねぇ。それじゃあ餓鬼が駄々を捏ねているのと変わらない。

 俺の想いをそんな安価に見るんじゃねぇよ。背中を押してやる事も出来た俺のエゴで彼奴を手放さなかったのは確かだ。この想いが美しかったかと問われれば、応えは屹度ノーだ。

 現状だって傍から見れば俺達は敵同士。こんな風につけ込まれてもおかしくは無いのだろう。だが、

「手前等は俺の愛し方を知らねぇな」

 愛用の帽子に手を掛けた。それに二人は瞬時に何かを察したのか、戦闘態勢へと入る。それに口角を上げれば俺のギラついた瞳が二人を捉えた。

−−彼奴にもう、こんな血生臭い事はさせねぇ。
 ナマエが此奴等に殺されるとは考えられなかった。だが殺しを最後まで受け入れられなかった彼奴に、そこから漸く抜け出せた彼奴に、此奴等を殺させたく無かった。

「これが俺の愛し方だ。覚えとけ」

 そう云って地を蹴った。交渉は決裂。叫ぶ男の背後から探偵社へと乗り込む予定だった奴等が湧いて出て来た。裏切り者を手早く始末した俺はその人数に思わず「オイオイ、」と冷や汗をかく。

「こりャ今晩は盛大に労ってもらわねぇとなァ・・!」

 そして俺は向かって来る敵を薙ぎ倒し続けた。此処で俺が此奴等を止めれば彼奴が戦う事は避けられる。一旦引かなかった理由なんてそれだけだった。
 
「そろそろ彼奴に・・連絡しねぇと、な」

 亡き骸だらけのその場所で、俺はそう呟いて携帯を取り出そうとした。だが異能を使い過ぎた事もありその手はそのまま項垂れて俺も地へと倒れ込んだ。

 倒れた時に頭を打ったのだろう。気付いたらベッドにいた。ナマエの記憶だけを何処かに置き去りにして。







 静かな廊下に高い足音が聞こえた。俺は廊下にある長椅子に座り、唯々その血塗れの両手を握り締めていた。

 やがてその足音は俺の目の前で止まった。下駄と色鮮やかな裾が目に入ったが顔を上げる気にはなれなかった。そんな俺の姿にその人物が荒れた息を飲む音が聞こえた。

「この、莫迦者・・!!」

 乾いた音と共に俺の視界が強制的に移る。頬に何かが当たった直後、そこが鈍い痛みを訴えるかの様に赤く腫れ上がる。だが俺にその痛みは重く伸し掛る何かに依って感じる事は出来なかった。

「姐さん」

 何も云わない俺に姐さんがまた手を振りかぶったのだろう。それを太宰が制し、姐さんは腕を降ろして盛大に溜め息を吐いた。

 姐さんの云う通りだと思った。彼奴を護りたかった筈なのに結果的にボロボロに傷付けた。返す言葉なんて見付るはずもなかった。

「終わったよ」

 俺が居た病室が開いて声がした。それに姐さんも太宰も、そして俺も視線をその声の人物へと向ける。

「与謝野先生、ナマエちゃんは」
「あー・・なんか凄い疲れた気が、」

 太宰がそう与謝野と云う探偵社の医師に問い掛けた言葉は、うんざりとした様な其奴の声に遮られた。

「ナマエ、」

 与謝野の背後から血塗れの服はそのままに、だが頬の傷も乱れた不自然な呼吸をも無くしたナマエが疲労感を駄々漏れにしながら歩いて来る。

「何その顔。大丈夫だって云ったでしょ」
「・・っ」

 目が合った瞬間、そう云って鬱陶しそうに笑うナマエを駆け寄って抱き締めた。耳元で戸惑う声が漏れて俺はその腕に力を込めた。

「悪い・・っ、ナマエ」
「中也、」
「忘れたかった訳じゃねぇ、手前との記憶も想いだって俺は・・!」

−−何一つ忘れたくなんかねぇんだよ!
 半ばぶつける様に言葉を発した。ナマエの肩に顔を埋めて、忘れていた間の言葉を訂正する。

「記憶、戻ったの・・?」

 不安げにそう呟くナマエの言葉に小さく頷く。するとナマエは「そう、」と安心した様に肩の力を抜いた。

「良かった。本当は少し心配してた」

 そう云ってナマエも俺の背に手を回す。ギュッと身体が締め付けられたと同時に、心も同じ感覚に襲われて泣きそうになった。

「心の奥では忘れたい程辛かったのかなって」
「そんな訳ねぇだろ・・!」

 必死に声を上げて否定する俺にナマエは「ふふ、」と笑う。

「でもまた私の事を忘れたって、傍にいるよ」
「もう忘れねぇ、忘れたくねぇ・・っ」

 もうこんな事は懲り懲りだ。ナマエを自らの手で、言葉で傷付けるなんて。そんな俺にナマエは「じゃあ」と呟いた。

「またよろしくね、相棒」
「・・ああ、」

 少し身体を離して見つめ合った。そう云って優しく笑うナマエに目を細めて頷く。

「おやァ、中原中也。あんた怪我してるね」

 俺達の穏やかな空気を掻き消す様に与謝野が鋭くその言葉とは真逆の威圧的な声を発する。

「妾ゃ医者だよ。治してやるから部屋に入んな」
「あ?否、俺は」
「まぁ治すとなったら一度半殺しにしなきゃならないけどねぇ」

 与謝野の言葉に俺は「はぁ!?」と声を上げる。それと同時に与謝野の威圧的な声の理由を理解した。

「ほう、それは良い。治してもらえ中也。私の金色夜叉も手伝うのでな」
「ちょ、待てよ!俺は」
「餓鬼が遠慮なんてするんじゃないよ」
「してねぇよ!ってか餓鬼じゃねえ!!」

 詰まり、だ。この二人は俺がナマエを忘れ傷付けた事に対しての怒りを治療と云う恰も俺を思って、等という良心を振り翳して痛めつけようと云う算段だ。

「良いじゃないか中也。何なら私も手伝おう!」
「手前が手伝ったらそのまま死ぬじゃねぇか!」
「うん、そうだね!」
「手前・・!!」

 当然、と云わんばかりに嘘臭い笑顔を浮かべる太宰に掴みかかろうと伸ばした腕を姐さんに掴まれてぎょっとする。

「さぁ中也」
「始めようかねぇ」

 見た先に居た女二人の背後にはこの世のモノとは思えない悪鬼が、俺には見えた。





「まぁ良かったじゃん、ぴかぴかになって」
「全然良くねぇ・・」

 怪我なんて文字は何処吹く風。ハナからそんなもの無かったかの様に綺麗になった俺は首領の許可も降り退院した。

 だが怪我は治ったモノの金色夜叉と鉈で刻まれた末の治療だ。疲労感と云うかトラウマを背負った感がとてつもなく俺の身体に重石をかける。後から訊いた話しに依れば、探偵社の人間は任務の恐怖よりも与謝野の治療の方が恐ろしくて仕方ないらしい。・・納得。

 それに俺の傷なんてモノはほんの擦り傷ばかりだった。風野郎の攻撃も彼奴が俺を本気で殺す気ならあの時点で俺は刻まれていたはずだ。要は唯の威嚇。唯彼奴はナマエを護りたかっただけだったと今なら思える。彼奴にも悪い事をしたな、とナマエの髪を靡かせている風に心で謝罪の言葉を発した。

「ご飯どうしよっか」

 そんな事に思いを馳せていた俺に手馴れた手付きで玄関の鍵を開けながらナマエが呟く。それに「適当でいいだろ」なんて言葉を返して二人揃って部屋へと入る。

 ああ、帰って来たな。とホッとした。記憶を失って家に帰らなかったのは数週間だが、やたらと懐かしく心地良さが胸を埋め尽くす。そんな感傷に浸っていると、先に廊下を歩いていたナマエが「あ、」と声を小さく上げて振り返った。

「おかえり、中也」
「・・ああ、ただいま」

 微笑むナマエに同じ様に微笑みを返す。ナマエはそれに満足したのか、そのまま廊下を抜けてリビングへと抜けて行く。

「っ、中也・・?」

 そんなナマエを追い掛けて、俺は後ろからナマエを抱き締めた。前に回した腕をナマエがそっと触れて首を傾げながら俺の名を呼んだ。

 本当、莫迦だよな。折角手に入れたのに自分から手放しそうになって、その恐怖がまた俺を襲った、なんて。

「ナマエ、」

 だがナマエは何も云わずに振り返って俺を抱き締めた。俺の服を掴んで首筋に顔を埋める。それに俺は少し驚いてナマエの表情を伺おうとしたが、抱き着く腕にギュッと力を入れた為にそれは叶わなかった。

「私達が初めて会った日の事、覚えてる?」
「・・ああ、手前に殺されかけた」
「中也が勝手に死にかけたんでしょ」

 抱きしめ合ったまま、ナマエの問い掛けに応えていく。あの時、コンテナの中で見付けた哀しい瞳は今でもはっきりと覚えている。

「なら西方の鎮圧任務で私が買った物は?」
「可愛くねぇ猫」
「中也そっくりのね」

 ナマエの言葉に「似てねぇよ」と溜め息を吐く。それは今でも部屋とナマエの携帯に吊り下げられている。

「じゃあ」
「ナマエ、」

 まだ続けようとするナマエの言葉を名前を呼んで遮る。それにナマエはギュッと俺の服を掴む手に力を入れた。

「全部覚えてる。だから安心しろ」

 何とも思ってない振りをしていたんだろう。思えば俺が記憶を失くしたと知った時の表情は生気の欠片も無かった。

 判るんだよ。大丈夫だと、傍に居ると誓おうとも、その胸の中にある不安が気を抜くと身体を這いずり回る恐怖が。俺が一番、その恐ろしさを知っている。

「悪かった」
「・・本当よ」

 不貞腐れた様な声の語尾が僅かに震えた。俺は少し身体を離してその顔を覗き込む。

「泣いてんのかよ」
「煩い、莫迦」
「可愛くねぇな」

 フッと笑って目尻にそっと触れれば俺の指先が濡れる。辛さも判るが、今の俺はその辛さよりもナマエが不安に涙してくれた事の嬉しさが勝った。

「詫びに、一生こうしててやるよ」

 そう云って再びナマエの身体を腕の中に収めた。靡いたナマエのサラリとした髪に一つ口付けを落として顔を埋める。俺の身体に一気に染み渡るナマエの香りとその感触に思わず目を細めた。

「こうしてたらご飯も食べれないじゃない」
「・・そう云う意味じゃねぇ」

 そんなナマエに一つ溜め息を吐いて、それでもその言葉の本当の意味をナマエに伝えるのは別の機会に取っておく事にした。だけどこれだけは云っておきたかった。

「ありがとな、傍に居てくれて」
「これでお相子でしょ」

 ナマエの言葉に笑って「ああ」と頷いた。

「でもまだ足りねぇな」
「・・欲張りな奴」

 ナマエの言葉に口角を上げる。どちらかとも無く顔を上げ、視線が重なった。

「何年分だと思ってんだ」
「その台詞前にも訊いたけど何年分よ」
「その質問も前に訊いたな」

 途端に部の悪くなった俺は視線を流した。ふと目に入った壁に掛けられた時計が午後八時と少しを回っている。俺達が出会ったあの日から、書かれた数字を読み上げるのも面倒な程にその回数は積み上げられ、そしてそれは少しずつ、だが確実に増えている。

 まだまだ比べるまでもなくその期間の大半はナマエの横顔を見続けていた。だが質だけで云えばそれはとっくに上回っているのは明らかだ。そう既に、ナマエに触れたあの瞬間に。

 それなのにナマエを忘れていた。たった数週間の間だったが、その一分一秒が悔やまれ、惜しまれる。ナマエの云う通り俺は貪欲らしい。

 そんな事に思考を巡らせていれば、ナマエが疑問形で俺の名を呼んだ。視線を元に戻せば先程の過去にもされた問いの応えを待っているナマエの視線と重なる。

「忘れちまったな」

 幸せ過ぎて、なんて言葉は照れ臭くて云えなかった。何度目かの応えが矢張り嘘でありはぐらかしに過ぎない事が今回もナマエにバレているのは百も承知だ。だがいつか本当にあの日が霞むだけじゃなく、良い意味で忘れられる様に成ればいいと思った。

 あの日の切なさに駆られる事なく、唯愛おしさだけを持ってナマエを抱き締められる日が来れば、と。その日が遠くない事を、確信しながら。

「ならまた押し倒してあげようか?」

 そんな俺にナマエは悪戯な笑みを浮かべてそう云った。それに釣られる様に俺も一つ笑みを零す。適わねぇな、と思いながら。

「頼もしいこったな」
「あんたの相棒なんだから当然でしょ」
「・・違いねぇな」

 そう云って笑うナマエが愛おしくて、俺達は立ったまま口付けを交わした。−−開け放ったままの窓からは天高く昇った綺麗な月から放たれる淡い光が、俺達を優しく照らしていた。