この日はやたらと暖かかった。少し開いた窓から入って来る風が真っ白なカーテンを揺らして、上体を起き上がらせながら読書をしていた俺の髪も揺らす。

 それに僅かに目を細めた。これは彼奴の風なのだろうか。心地良さにそんな事を思って首を振る。一体何を思ってんだ俺は。

 暖かい陽だまりに横になる。読んでいた本は、永遠にも似た長い時間違う男を想う一人の女を想い続けた男の、くだらない物語りだった。


其れ愛故二
〜さよならを君に〜




 俺が入院した日から、彼奴は毎日の様に俺の元に来た。その度に何でもない事を一方的に笑いながら話している。俺からの返事は勿論ない。

 そりゃそうだろう。探偵社の人間の話なんてどうでもいい。訊く耳を持たないに限る。今は停戦と云う形を取っているが首領からまたいつ殺せと云われるかは判らないのだから。

 大体うちの組織にいたとは云え、彼奴は裏切り者のはずだ。なのに姐さんも首領も態々彼奴ここに呼びつけるなんてどうかしてる。一体彼奴は何者なんだよ。

 だが何故だろうな。彼奴が来るとホッとする自分がいるんだ。そこに居るだけで落ち着く。屹度記憶の無くなる前の俺は彼奴を知っているんだろう。だが幾ら考えても浮かばないんだ。彼奴と過ごしたはずの日々が。

 それがもどかしくて苦しくなる胸に苛立つ。なんでこんな奴にこんな感情を抱いて苛々しなきゃなんねぇんだよ。俺は知らない。思い出したくても、思い出せない。

「くそ・・っ」

 一つそう云って腕で視界を隠した。暗闇の中の瞼の裏で、唯彼奴が優しく笑っていた。





 気付いたらその日の暖かさに負けて眠ってしまっていた様だった。風の匂いが先程と少し違って懐かしい感覚がした。

 だがそれと同時に俺へと伸びる知らない気配を感じた。意識が一瞬で目覚める。−−刺客か!油断したと焦り俺は敵を確認する暇もなくその拳を相手に突き付けた。

「なっ・・!」

 パリン!と激しい音を立てて窓ガラスに其奴の身体が打ち付けられる。上半身を仰け反らせた其奴に俺は目を見開いた。

「手前は、」

 かはっ、と口から血を吐いてゴホゴホと咳き込む。押さえた手元からまた血が溢れた。

「・・っ大丈夫、このくらい」

 そこには毎日俺の元に来ていたナマエと云う女がいた。其奴は胸元を鷲掴みにしながらもそう云った。呼吸する度に僅かに空気を切った様な音がした。恐らく呼吸器官を傷付けたのだろう。

−−なんで笑ってられんだよ。
 そんな状態になりながらも昨日と変わらない笑顔を向けようとする其奴に俺の頭は混乱する。

 途端外からの突風が部屋を駆け巡り俺と其奴は目を見開く。女が何かを叫ぼうと口を開くが、痛みに顔を歪めて音にはならなかった。

 そしてそれは一塊になって俺へと向かって来た。避ける術は俺には無かった。

「っ、やっと本性を現しやがったな・・!」
「違、」

 至る所に切り傷が付いた。手当ての末に巻かれていた包帯もその風に依って刻まれ床へと舞い落ちる。顔を顰める其奴に風が纏わり付く。

 矢っ張り俺の命を狙ってたのか、その言葉は俺に暗い影を落とした。何故かは判らない。だけど絶望した様な感覚だ。心が泣いている様な、そんな気がした。

 だがそれすらも今の俺にとっては自分を苛立たせる要素にしかならなかった。再び動き出す風に俺はその主である女の首を掴んで壁に押し付ける。「ぐっ・・」と云う愚籠もった声を漏らして顔を歪める女の口元から、一筋の鮮血が溢れた。

「寝首をかけなくて残念だったなァ」

 怪我をした女を見詰める。髪で表情は見えずとも痛みと苦しみに耐える様に奥歯を食いしばっていた。だが其奴の手が震えながらもゆっくりと上がる。それに俺は警戒を強めた。その手は俺が女の首を掴んだ腕を力強く掴んだ。

 どくん、と胸が一つ音を立てた。隙間から見えた女の瞳が真っ直ぐに俺を見詰め、そしてそれは強い光を放っていたからだ。戸惑う俺を見詰めるその瞳に鼓動が速まる。諦めを知らない瞳。否、屹度それは、もっと深い何かを秘めた瞳だ。

 俺の中の俺が何かを叫ぶ。鈍い痛みが俺を襲い、煩い鼓動と共鳴した。

「私だって・・手放してなんか、やらないんだから」
「!」

『俺は手前を手放したりしない、絶対な』

 聞き覚えのある言葉と流れ込んだ台詞に一際大きな痛みが俺の脳内を走る。俺はその痛みに思わず頭を抱え、数歩下がって頭に置いた手で髪を鷲掴みにした。

 訳が判らなかった。其奴が触れた腕も、其奴が発した言葉も、そして過ぎった言葉も初めてのモノの筈なのに懐かしくて胸が締め付けられる。だが矢張りそれが何故なのか判らなくて俺は大袈裟に舌打ちを漏らした。

「中也、」
「っ、近付いたら殺す・・!」

 俺の名を気安く呼ぶ其奴を痛みにもがきながら睨み付ける。一瞬、女が俺の瞳と殺気にたじろいだ。だが直ぐに表情を歪め、そして一度瞳を閉じた後開かれた瞳は、矢張り先程の強い瞳だった。

「・・っ、手前なんざ」

 足元をふらつかせながらそう呟く。その瞳が気に入らない。そんな目で見るな。何もかも判った様な、理解した様な、受け入れた様な、そんな瞳で見るんじゃねぇ。俺は、今の俺は

「なにも、知らねぇんだよ・・っ!」

 声が震えた。泣きたくなった。だから俺は懐に隠した短刀を其奴へと向けた。 消してしまいたかった。こんな痛みも、感情も。

「!」

 だがそれすら其奴には判っていた様だった。俺が短刀を持ってる事、何処を狙いどのタイミングでその刃を向けるのさえも。

 あっさりと躱されたそれは其奴の頬に一筋の線を描く事しか出来ず、俺は胸倉を掴まれ背後へと倒れた。

「くっ、そ・・!」

 組み敷かれたそこで俺は倒れた衝撃に顔を歪める。だが見上げた其奴の表情にハッとした。

「触れるだけ私の方がマシね」

 其奴はそう云って傷の痛みに顔をゆがめながらも自嘲する様に笑っていた。

「なんの話し、」
「覚悟しなさいよ」

 茫然とその表情と言葉の意味を探す俺に女はその口角を上げた。話す言葉の間々で其奴は肩で大きく呼吸をする。その動きに依って髪が肩から一束するりと音も立てずに流れた。心が「あ、」と小さく呟いた。気付けば無意識にその髪へと手が伸びた。

「さよならなんて、二度と云って・・やらないんだか、ら」

 だが俺がそこに触れるよりも速く、そう云って笑った其奴の身体が目を見開いたままの俺へと降って来る。それがやけにゆっくりと、其奴が目を伏せる細やかな動きですら鮮明に見えた。

 鼻を掠める香りに覚えがあった。「中也」と其奴の声が俺を呼んだ。そしてその瞬間、俺はハッとする。

−−『じゃあ、こっちにする』

−−『あんたは、置いて逝かないで・・!』

−−『判ってるよ、相棒』

−−『ごめん、ごめんって』

−−『ずっと傍に居てくれてありがと』

 トン、と俺の胸に重さが加わる。その短い時間に俺の脳裏には何年分かも判らない程の映像が流れた。


−−『大好きだよ、中也』


 自分の胸に伸し掛る重みはピクリとも動かない。

「ナマエ・・」

 そうだ。俺は、

『手前だけ忘れるなんざ、余っ程どうでも良かったんだろうな』

 違う、俺は・・手前だけが

『あんたには、ろくな思いさせなかったと思うから』

 違う、俺が望んだんだ。苦しくたって、手前の傍にいる事を・・俺が。

「ナマエ・・なァおい、返事しろよ」

 上半身を上げ俺の胸に顔を埋めたナマエの肩を揺する。怒ってんだろ。俺が、手前だけ忘れたから。

 動けよ。いつもならこんな俺を「本当莫迦ね」って笑うじゃねぇか。

「ナマエ、」

 肩を抱いてナマエを仰向けにして息を呑んだ。血塗れだ。ナマエの服も、俺の病院着も。

−−俺がやったんだ。
 まただ。また俺は、ナマエを自分の手で。そう思ったら全身が震えた。頭から、指先から血の気も感覚も風を切る様な速さで無くなっていく。そして凡てが俺の身体から消えた時、ギュッと胸が締め付けられて息が止まった。

「っナマエ!!」

 乾いた口で無理矢理声を発した。それが皮切りとなり、俺は自分を、俺自身を取り戻した。

「ナマエ!ナマエ!!」

 縋る思いで叫んだ。だが矢張り腕の中のナマエがその瞳を開く事はない。「くそ・・っ!」そう吐き捨てる様に云ってナマエを抱えて立ち上がり走って廊下へと出た。

「誰か・・!誰かいねえのかよ!!」

 一心不乱に震える声を上げた。声を上げる事しか出来なかった。悲痛な叫びは虚しく静かな廊下に響いて消えていく。

「おい!誰か!!」
「中也!君の部屋の窓硝子が、」

 聞こえた声に口を詰むんでそちらを見れば、肩で息をし一目俺達を見ただけで凡てを悟った様に顔を顰めた太宰がいた。

 だが混乱し慌てふためいていた俺はそんな太宰の表情に目もくれず震える声を其奴に向けた。

「太宰、俺は・・俺が・ ・ナマエを!」
「落ち着き給えよ、今与謝野先生を呼ぶから」

 太宰はそう云ってすぐ様携帯を耳に当てた。泣きたくなった。見知った顔とその言葉に僅かに冷静になった俺はナマエを抱えたまま崩れる様にしゃがみ込み、ナマエの頭に額を押し付け奥歯を噛み締めた。

「頼む・・っナマエを助けてくれ・・!」
「記憶が、戻ったのだね」

 太宰の言葉に小さく頷く。目を開けて見えたナマエの頬に付いた傷を一撫ですれば、俺はあの日、記憶を失くした日を思い返した。