パタン、と背後で扉が締まる音がした。その扉に寄り掛かればひんやりとした冷たさが私の体温を奪っていく。

 静かだ。締め切られた部屋に音はない。ふと先程の彼の瞳が脳裏を過ぎった。彼と出逢ってから一度だってあんな瞳で見られた事はない。胸の奥がギュッと音を立てて息苦しい。

 扉伝いにズルズルと堕ちていき、その場に座り込んで膝を抱えた。昨日まで、否、朝まで変わらなかった筈なのに。喧嘩をした訳でも「行ってきます」を言い忘れた訳でもない。

 だけど「ただいま」も「おかえり」も無く私達の日常は私の知り得ない処で止まってしまった。彼に掴まれていた腕が氷の様に冷たい。到底朝まで触れていたモノには思えず、まるで別の人間の手の様だったとさえ思った。

「早く帰って来なさいよ・・っ莫迦」

 願いとは虚しく、その日私は二人で過ごしていたその場所で一人永い永い時を過ごした。


其れ愛故二
〜さよならを君に〜




 足取りは重い。夢であれと願った事は夢ではなかった様だ。昨日、彼が私達の家に帰って来る事は無かった。まるで私の身体は血が巡っていないかの様に冷たく、重い鈍痛を抱えていた。

「本当に着いて来るんですか」

 私は隣の男にそう問い掛けた。出来れば一人で中也の元に向かいたかった。一人だけなら私だけを忘れてしまったと云う事に打ち拉がれる事も少ないだろうと思ったからだ。 だが誰かと共に行けばそれを目の当たりにする事になる。それが途轍も無く厭だった。

「ああ、任務にヘマした中也を揶揄いにね」

 太宰さんはそう云って片手に手土産を持ち、もう片方の手を外套のポケット入れながら悠々と歩いて行く。それに少し嫌悪感を抱くのは屹度、中也は彼の事は覚えているのだろうな、と云う根拠の無い確信を持っていたからだ。

 今日の仕事は中也の事を話して午後に非番を貰った。「私の事、忘れちゃったみたいです」と云った私は上手く笑えていなかったのだろう。それは皆の表情を見れば明らかだった。

「入らないのかい?」

 病室の前まで来て脚を止めてしまった。扉の取っ手を見詰めたままの私に太宰さんは背後からそう声を掛けた。

「判らないんです。私を知らない彼奴に、なんて声を掛けて部屋に入ったらいいのか」

 そう俯きながら呟く私の肩に太宰さんは手を置いた。振り返ってその表情を見上げれば彼は優しく微笑んでいた。そしてグッとそのまま私の肩を押して部屋の扉を開けた。それに私は目を見開き思わず「うわあ」と間の抜けた声が出た。

「やぁ中也!お見舞いに来てあげたよ!」

 私の肩を抱いて平然と部屋に入って行く太宰さんに私は戸惑いを隠せなかった。まだ心の準備が、なんて言葉を発する間もなくベッドの足元に並んで立つ。太宰さんは手に持っていた果物の入ったバスケットと笑顔を揺らして中也にそう云った。

「な!?太宰ィ!?」
「ああ、私の事は覚えているのだね」

 忘れてくれたら良かったのに、なんて云う太宰さんに中也の表情は見る見る険しくなっていく。私はと云えば、矢っ張り、と心で呟いた。だから厭だったのに。

「なんで手前が此処にいんだよ」
「おかしな事を訊くものだね。彼女は森さんから直々に君の世話を頼まれたと云うのに」
「要らねぇよ、そんなもん」

 中也はそう云って私を見る事なく視線を逸らす。それに胸に痛みが走ってそこをギュッと握った。

「そうかい?なら私としてはとても好都合だ」
「なに?」

 太宰さんの言葉に中也が眉間に皺を寄せて太宰さんを睨み付けられた。太宰さんが私の肩を抱き寄せた事に依って彼の胸板と私の肩が触れ合った。

 私が驚いて太宰さんを見上げれば、彼は真っ直ぐに中也を見詰めていた。その瞳にいつもの悠々しさは無い。一体何を考えているのか、私には太宰さんの思考は理解しかねる。今も、昔も。

「彼女の番犬がいなくなれば、私は思う存分彼女を口説けるだろう?」
「なっ、太宰さん!?」

 だが平然と爽やかな笑顔さえ浮かべてそう云った太宰さんに私は思わず声を上げる。だが太宰さんはその表情をピクリとも崩しはしない。

「いつもいつもナマエちゃんの傍には君が居たからね」

 だけど、そんな太宰さんの言葉に私は目を見開いた。その言葉は私に思い出す事をしなくなった過去を呼び覚まさせた。

−−そうだ。中也はずっと、傍に居てくれた。
 私が太宰さんの影を追い掛けていようとも、命を蔑ろにしようとも、彼は変わらず私の傍に居てくれた。だから私は今こうして居られる。

 胸に刺さっていた棘がするりと抜けた気がした。

「・・知らねぇよ」
「それは許可を得たと云う事でいいのかな?」
「知らねえって云ってんだよ!」

 中也が声を荒らげる。それは苛立ちはするモノの、自分が何に苛立っているのか判らずに更に苛立っている様子だった。

「太宰さん、もう大丈夫です」

 そんな中也を見兼ねて私は太宰さんにそう云った。もう彼に何を云われたって大丈夫。その言葉にはそんな意味も込めていた。

 そんな私を見て太宰さんはフッと一つ笑って私の頭に手の平を置いた。左右に揺れる手の平に心地良さを覚えて笑った。ありがとうと伝わる様に。

「それじゃあ私は帰るとするよ。森さんに見付かるのは面倒だしね」
「・・二度と来るんじゃねぇ」
「まった来っるよー!」
「手前!!」

 バン!っと中也の投げた枕が茶化す太宰さんの消えた扉に当たって床に落ちた。それに中也は一つ舌打ちを漏らす。私は床に落ちた枕をそっと拾って窓の方へと歩いて行った。

「・・手前は帰らねぇのかよ」

 窓を開けた私の背中に中也はぶっきら棒にそう呟いた。それに私は窓の外で枕を叩きながら頷いた。

「首領にあんたの世話頼まれちゃったしね」

 首領の命令は絶対でしょ、と笑えば中也は「手前は探偵社だろうが」と云われてしまったから「恩があるからね」と返した。

「あ、」

 枕を中也のベッドへと戻すと、窓から入った風が私に纏わり付いてそう声を漏らした。

「もう、三日間も何処行ってたのよ」

 私の髪や服を靡かせるそれに私はそう云って頬を膨らませた。目を瞬かせる中也に「ああ、」と呟いて彼を紹介しようと口を開いた。

「彼は私の異能の、」
「風野郎」
「え?」

 私が驚いて中也を見れば、中也も自分の発した言葉に驚いている様だった。それは私の異能力、疾風をいつも中也が呼んでいたモノと変わりなかった。

−−本当に、私だけ忘れちゃったんだね。
 心でそう呟いてベッドの横にある小さな丸椅子に座った。太宰さんが買ってくれた果物を一つ取って皿に剥いていく。中也はそれをジッと見詰め、そして私の胸中を見透かした様に言葉を発した。

「手前だけ忘れるなんざ、余っ程どうでも良かったんだろうな」

 中也の言葉に思わず手が止まった。胸に痛みが走らなかった訳では無い。だけど私は一つ笑って再び手を動かす。そんな私に中也は怪訝そうに顔を顰めた。

「そうかも知れない。あんたにはろくな思いさせなかったと思うから」

 あの頃を思い返せば彼は心の底から笑えてはいなかった。それは二年前、想いの通じた日に見た笑顔、昨日までの笑顔を思い出せば歴然としている。

 あの頃はそれが彼の笑顔なのだと思っていたから気にもしなかった。そう思えば矢張り永い永い間、彼に苦しい思いをさせて来たのかも知れない。

「だから忘れてくれて良かったのかも」

 そう云って笑った。笑えていたかは判らない。だけどそんな私に中也は目を見開いて、そして視線を逸らした。

「はい、剥けたよ」

 それに構わず私がフォークに刺した果物を差し出せばチラリと中也が視線を送る。

「自分で食える」

 そうぶっきら棒に呟いてお皿ごと私から奪ってそれを口に運んでいた。それに一先ずホッとしてその横顔を見詰めていた。

 例え何ヶ月、何年掛かろうとも、もし仮に二度とあの日々の記憶が戻らなかったとしても、何も云わずに笑って傍にいるよ。

 貴方があの時私にそうしてくれたように。其れが今の私に出来る事。貴方が傍に居てくれたからこそ今の私に出来る、唯一の事だから。