いつだってその瞳は私を見守ってくれていた。傍に居て支えてくれていた。私を想い続けてくれていた。

 その想いの中にどれ程の葛藤と苦悩があったのかを私は知らない。どれだけ訊いたって貴方は「忘れちまった」と照れ臭そうにはぐらかすだけだったから。

 繋がれた手をぎゅっと握り返す度に貴方は嬉しそうに笑う。たったそれだけの事なのに幸せそうにするから、私は茶化す様に笑った。

 当たり前になっていた。存在も眼差しも、そして温もりも。あの日々よりもずっと近く向き合えた心に安堵していた。それさえも日常に溶けていく様に当たり前になった。

 私達が触れ合ってから、既にそれだけの時間が風の様な疾さで過ぎていた。そしてそれがこの先も続いていくのだと、根拠の無い確信を持っていた。私も、屹度彼も。


其れ愛故二      
さよならを君に




 定刻間際、今日携わった爆弾魔の件を報告書に纏める。暑い中歩き回った末の任務は途中から合流した太宰さんのおかげで呆気なくその終わりを告げた。と云うか結局彼に振り向いてもらいたい女性の悪質な悪戯だったのだけれど。

 モテる男は辛いね、なんてお決まりの台詞を吐いて国木田さんに「社風を乱すな」と怒鳴られるのは日常的で、その姿に昔共に歩んだ双黒の影を見て私は微笑む。

 私がこの探偵社に正式に入社してから二年が経過していた。あの日この場所で私は初めて中也に触れて、お互いその瞳に涙を浮かべていたのが懐かしく思える。

 そんな私達は相変わらずで、関係性と所属以外はそれこそ私がポートマフィアに居た時と変わらず共に過ごす日々が続いていた。

 ふう、と一息吐いて忙しなく動き続けていたペンを置いた。「お疲れ様」と賺さず太宰さんが冷たいお茶と茶菓子を差し出してくれた。それに一つ礼を云って受け取り小腹の空いた腹に流し込む。今日彼奴は何時に帰ってくるのだろうか、と私と違い定刻と云う概念のないポートマフィアに所属する彼を思う。

 そう云えば何時もなら既に帰宅時間を連絡して来てもいい頃だ。携帯を手に取ればそれに吊り下がった目付きの悪い年季の入った黒猫が揺れた。

「わ、びっくりした」

 連絡をしようと開き掛けた携帯が手の中で震える。不意の出来事に私は思わず小さく肩を揺らした。それに手に持っていたグラスの中からお茶が飛び出し私の手を僅かに濡らす。

 グラスを机に置いてハンカチで手を拭いながらもう片方の手で携帯を耳に当てた。

「はい、ナマエ」

 粗方彼だろうと思いろくに画面も見ずに完結的にそう告げる。携帯を耳と肩で挟んで僅かに机に飛び散ったお茶を拭けば、隣から「器用だねぇ」なんて声が聞こえた。

『久しいのう、ナマエ』

 携帯から聞こえた声に私は少なからず驚く。彼からだと思っていた電話口の向こうから聞こえたのは明らかに女のモノで、彼のものでは無い。だがその声と口調は実に聞き覚えのあるモノだった。

「あれ、紅葉さん?」
『ああ、って番号登録しておらんのかえ』

 薄情な女子じゃの、と揶揄う紅葉さんに一つ笑みを零す。本当に久方ぶりの会話に雑談が弾んだ。「今度茶でも」なんて云う紅葉さんに「大丈夫ですかね」と問えば「中也が会っているのだから平気じゃろう」と紅葉さんも笑う。

「でも用事があったんじゃないですか?」
『ああ、そうじゃった』

 私の言葉に紅葉さんはそんな事すっかり忘れていたと云わんばかりにそう声を漏らした。

『中也が怪我をしての』
「怪我、ですか?」
『なに、対した事はない』

 少し低くなった私の声に紅葉さんはくすくすと笑いながらそう云った。その言葉に胸を撫で下ろして「それで」と問い掛ける。

『一応検査入院をするらしくてな、一度来てもらえるかのう』
「判りました、もう直ぐ定時なのでその後向かいます」

 悪いの、と云う紅葉さんに「いえ、」と言葉を返して電話を切った。紅葉さんの口調等から対した事はないのだろうと思いながらも定刻を機に私は足早に探偵社を後にした。

「あ、紅葉さん!」

 ポートマフィアの本部入口付近に私は先程の電話の相手を見付けて声を上げた。久方ぶりのその姿に自然と声が弾む。建前上は敵同士だが矢張り思い入れのある相手なだけに足取りも軽くなる。

「態々待っててくれたんですか?」
「お主は既にマフィアにとっては裏切り者じゃからの。此方から呼んだとは云え堂々と入れる訳にはいかんのでな」

 足早に駆け寄ってそう云った私に紅葉さんは申し訳なさそうにそう呟いた。それに仕方ない、と思いながら苦笑を漏らして「判ってます」と小さく返事をした。そして「裏から入る」と云った紅葉さんの後に続いて本部ビルの中へと入って行った。

「それ程の任務では無かった様なのじゃがな」

 紅葉さんは私からしたら最早懐かしさの滲む廊下を歩きながらそう云って今日中也が就いていた任務の事を話してくれた。

「あの小童、深追いしたそうなのじゃ」
「深追いですか?」

 誠阿呆じゃの、と紅葉さんはその着物の袖で口元を隠しながら少し顔を顰めた。それは心配する思いから来るものだと云う事に彼女に近しい人間が気付くのは容易い。

「応援に芥川が行った時にはその場に倒れて居ったそうじゃ」
「倒れてたって、それで本当に対した事ないんですか?」
「ああ、もう目も覚めてピンピンしておる」

 人騒がせな奴じゃ、と溜め息を吐く紅葉さんに苦笑を漏らした。でも恐らくそれ程の任務でも無かったとすれば単騎での任務だったはずだ。

 中也は私がポートマフィアを去ってから相棒の類いを作ってはいない。彼が戦闘に対して愉しむ姿は安易に想像出来たが無茶な深追いをするのは想像し難かった。

 敵の力量を見誤ったのか、自分の力を過信したのか、それとも予想外の何かが彼を襲ったのだろうか。考えられるとすればその程度だろう。

「唯その時の事が少し曖昧になっておるようじゃ」
「曖昧?記憶が、と云う事ですか?」

 私の言葉に紅葉さんは小さく頷く。

「何故深追いしたのか、どうして倒れていたのかを覚えとらんらしい」
「そうですか」

 記憶の混濁が僅かでも見られると云う事は何らかの形で頭を打ち付けたのだろう。敵か、それとも倒れ込んだ時か、応えは出なかったが無事だと云う事だけでもハッキリしていた為にそこまで深くは考えなかった。

「あれ、首領までいるんですか」
「やぁナマエちゃん、久しいね」

 一つの病室の扉を開けるとベッドの足元に首領が立っていた。白衣を纏ったその姿は誰よりもこの部屋に馴染んでいる。そんな首領は私と目が合うなり微笑んで右手をひらひらと揺らした。

 歩み寄った首領との挨拶も程々に、視線をベッドに横たわり上半身を上げた人物へと向ける。頭やら腕やらに包帯を巻き付けたその姿に顔を顰めて溜め息を吐いた。

「なにやってんのよ、こんなボロボロになっちゃって」

 太宰さんでもそんなに包帯巻きじゃないわよ、なんて呟いてベッドの横に立つ。

「確かに、彼も随分落ち着いたものだね」
「余っ程鴎外殿が厭だったのかの」
「酷いなぁ、色々教え込んだのは私なのに」
「それが原因じゃな」

 紅葉さんの言葉に首領は「えー」と間の抜けた声を漏らす。この人達も相変わらずだなぁ、なんて思いながら微笑む。

「にしても、傷はどうなの、よ」

 そう中也に視線を移してその頭に巻かれた包帯に手を伸ばした。だが私の手は彼に触れる前に他でもない彼の手に依ってそれは阻まれた。

「なに?どうしたの」

 突然の出来事に私も紅葉さんも首領も瞬きをして疑問を浮かべる。瞬間、中也と目が合ってドキッとした。甘いものでは無い。その射る様な瞳に一瞬にしてたじろいだ。

「誰だ、手前は」

 中也から発せられた言葉に私達は目を見開いた。中也は私の腕を捨てる様に離して首領と紅葉さんに視線を向ける。

「首領と姐さんの知り合いですか」
「な、にを云っておる」

 真顔でそう云う中也に紅葉さんの顔が引き攣る。首領も先程の笑みは無く、真剣な瞳で中也を観察している様だった。

「ナマエじゃ!以前はポートマフィアにいて、今は探偵社におる!そしてお主の、」
「探偵社?」

 紅葉さんのその言葉を訊いた瞬間、中也の瞳が私に向けられる。見た事もない鋭い瞳。それは敵を見る瞳だ。私はそれに思わず一歩後退る。

「何で探偵社の人間が此処にいる」

 明らかな敵意と殺気に私は胸の位置で握った手を握り締めた。現状がまだ理解出来ていない。何が起こって、彼は何を云っているのか判らなかった。

「中也君、」

 中也に睨み付けられたまま動けず、一言も発する事の出来ない私の肩に首領が手を置いて中也を呼んだ。その瞬間彼からの殺気は消え、中也は背筋を伸ばした。

「どうやら君は本格的な記憶障害を起こしている様だ」
「記憶障害、ですか?」

 首領の言葉を復唱して中也は顔を僅かに歪めた。

「ああ、現に君は彼女を覚えていない」

 中也が私に一瞬視線を向ける。その瞳は矢張り私の知らない彼のモノだった。

「君には暫く静養してもらうよ」
「待って下さい首領、俺は」
「そして君の世話係りをナマエ君にお願いするよ」
「なっ・・!」

 上体を前のめりにして反論する中也に首領は有無を言わさずそう云い放った。

「他にも忘れてしまった人間がいるかも知れない。彼女はその予防線だ」

 君の為にも、相手の為にも。と笑う首領の言葉に中也は不服を隠せない様だったが、首領の命令は絶対。それが彼の首を縦に振らせた。

「今日の処はこの辺でお暇するよ。いいね?」

 背後から私の顔を覗き込む首領に私は一つ無言で頷いた。

「じゃあまた来るよ、中也君」

 首領が私の背中を押して出口へと向かう。それに中也は軽い会釈をした。私の顔は見ようとはしなかった。

「・・ナマエ、」

 病室を出た処で紅葉さんが心配そうな声で私の名を呼んだ。見れば首領も言葉に詰まった様な表情をしていた。

「大丈夫です」

 だから、そう云って笑った。少し駆け出して二人に振り返る。

「また明日来ます」

 それだけ云って私は裏口から本部ビルを後にした。

「・・彼奴は変わらんの、」
「そうだね」

 その背中を二人は遣る瀬無い気持ちで見詰めていた。それがいつかの背中と重なったからだ。赤い羽衣を身に纏っていた、遥か遠い過去の日と。

「記憶障害は頭を打ち付ける直前に強く思った事ほど忘れ易いと云う情報もある」
「・・誠、阿呆な奴じゃ」

 一番大切な者を忘れてしまうなんて、二人のもどかしさは静かな廊下に響くこと無く、唯静かに消えていった。